第64話 変わらない手を、つないでいたくて(芽吹月十四日・午後)
政務の余韻が残る午後。 姫様はひとつ深い息をついて、控室の椅子に腰を下ろした。
私はその隣に控え、そっとティーカップを差し出す。
「ありがとうございます、アイリス」
「こちらは、“風のざわめき”という名にしてみました」
「……今日はそういう気分?」
「はい。……意味深ですか?」
姫様は笑うでもなく、ただやさしい顔でカップを受け取った。
「いい名前。空気の揺れが、音になる前の感覚」
「まさにそれを、表現したつもりでした」
ティーカップから立ち上る湯気。 この部屋の中だけは、政務室とは別の空気が流れていた。
*
けれど、油断はできなかった。
午後の回廊に出たとき、また同じ侍女がこちらをちらと見た。 その視線の先には、私ではなく姫様がいた。
まるで、“お飾り”として眺めているかのように。
(私がここにいることで、姫様に陰が落ちるのだとしたら)
そんな考えが頭をよぎる。 だが、思考を断ち切るように姫様の声が響いた。
「ねえ、アイリス。……少し、気分転換しない?」
「気分転換、ですか?」
「中庭に。……あなたと話したいの」
その声に、私はただ「はい」と頷いた。
*
昼下がりの中庭は、少し風が強かった。
花々は揺れ、陽射しはやや淡く、それでも空は晴れていた。
「最近、ずっと考えているの。私たちは“こうしていられる”のは、いつまでなんだろうって」
「姫様……」
「あなたが来てから、私は変わったと思う。……でも、それを“変わってはいけない”と見る人もいる」
私は、姫様の隣に座りながら答える。
「変わることが、悪いこととは限りません。……姫様がご自身で選んだことなら、きっと」
「そうね。そう思いたい」
その時、姫様の指先が、私の手の甲に触れた。
「少しだけ……こうしていてもいい?」
「……はい」
そっと、手を重ねる。
昼の光の下、ふたりの影が静かに寄り添った。
*
その後、回廊に戻ると、またカレンとすれ違った。
「……アイリス様。お時間のあるとき、少しお話できますか?」
「……はい」
姫様に見送られたあと、私はカレンに連れられて別室に通された。
その扉が閉じられた瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
「……ご無礼を承知で申し上げます」
カレンは淡々と、しかしまっすぐに言葉を紡いだ。
「あなたは……姫様に“選ばれて”いる。ですが、あなたがそこに甘えれば、姫様が批判の矢面に立つことになります」
「……甘えているつもりはありません」
「それはあなたの“つもり”でしかないのです」
静かな、けれど容赦のない言葉。
「姫様のために、あなたが何を選ぶのか。それが問われるときが、きっと来ます」
私は黙って頷いた。 その意味の重さを、まだ完全には理解できていなくても。
*
夕方。 私は姫様の私室に戻った。
「おかえり、アイリス。……顔、少し険しいわよ?」
「少し、考えることがありまして」
「うん。……無理に言わなくていい。あなたがここに戻ってきてくれたことが、なによりうれしいから」
「……ありがとうございます」
姫様の笑顔。 それを見た瞬間、私は“迷うこと”より“守りたい”という想いを強くした。
“付き人”として。 “誰か”として。
そのすべてを超えて、この手を離したくないと思った。




