第59話 灯りのぬくもり、夜を連れて(芽吹月十三日・夕刻〜夜)
夕陽が西の空を染めるころ。
私は姫様の私室のカーテンを半分閉じ、部屋の中に柔らかな陰影をつくっていた。
昼間の光が残る時間帯。
けれど、窓の外には少しずつ夜が近づいている。
「今日の午後も……ありがとうございました」
「こちらこそ。あなたのおかげで、とても穏やかな時間を過ごせたわ」
姫様は文机の前でひとつ息をついて、背もたれに身を預ける。
白銀の髪がさらりと肩に落ちるその姿は、どこかほっとしているようにも見えた。
「……少し、紅茶を淹れてもよろしいですか?」
「もちろん。もう“ふたり分”の時間は習慣になってるもの」
私は思わず、口元に笑みを浮かべていた。
鍋に火を入れ、お湯を沸かす音。
ほんのり甘いブレンドを用意しながら、今日は午後からの一連を振り返っていた。
カレンにからかわれたこと。
書類整理中に何度も姫様と目が合ったこと。
髪を結ったときの、あの距離。
(あんなに、自然に触れても……いいのですね)
今までは「主従」であり「付き人」であり。
けれど、今日の午後の時間は、なにか違った。
それを言葉にするにはまだ早い。
──でも。
(それを“うれしい”と思ってしまう私は、もうきっと……)
ポットに注がれた紅茶の湯気が、そんな思考をやわらかく包んでくれる。
カップを持って振り返ると、姫様はもうソファに座っていて、私を見上げていた。
「もう、いい香りがしてる。アイリスの紅茶って、本当に“安心する香り”なのね」
「ありがとうございます。……今日のは少し、甘めのブレンドにしました」
「わかる。疲れた心にちょうどいいわ」
姫様は、受け取ったカップを手の中で包み込むように持つと、そっと目を閉じた。
「……静かな夜になりそうね」
「はい。風も落ち着いていますし……今夜は、月がきれいかもしれません」
「じゃあ、後で見に行こうか」
「月を……ですか?」
「うん。中庭から見る月、きれいなのよ。アイリスとなら、きっともっときれいに見える気がする」
そう言って微笑む姫様の顔が、昼間よりも近く感じた。
私は頷いて、カップを静かに置いた。
「準備してまいります。……ブランケットなども、お持ちしましょうか?」
「ええ。冷えるかもしれないし。……あ、できれば、肩掛けも」
「かしこまりました」
部屋を出ようとしたそのとき、背後から小さな声が届いた。
「……ありがとう、アイリス」
「……いえ」
その言葉だけで、胸の奥がふわりと温かくなる。
*
中庭へと続く廊下を歩きながら、私は少しだけ早足になっていた。
侍女たちが廊下を横切る。
誰もが忙しそうに夕餉の支度をしている。
けれど、今の私は──
(姫様の“月を見る時間”を守るために、動いている)
そのことが、何よりも誇らしかった。
ブランケットと肩掛けを抱えて戻ると、姫様はすでに立ち上がっていた。
「早かったのね。ふふ、まるで風のようだったわ」
「急がなければ、月が逃げてしまうかと……」
「……ああ、そういうところ、やっぱり好き」
「え……?」
「んーん、なんでもない。行きましょうか」
肩がふわりと触れた。
そのまま、ふたりはゆっくりと中庭へと向かう。
夜の空気は冷たくも、どこか澄んでいて──
ふたりの静かな夜は、今、始まったばかりだった。
*
中庭の東側にある小さな石畳のテラス。
そこは城の灯りが届かず、星と月がよく見える場所だった。
「わあ……」
姫様が小さく声を漏らす。
空にはほっそりとした三日月。
そのまわりには、宝石のような星々が散らばっていた。
「冷えますね……こちらをどうぞ」
「ありがとう。アイリスも……ほら、こっちに」
姫様は自分の肩掛けを少し開いて、私の肩にもそっとかけてくれた。
「……それでは、意味がないのでは?」
「いいのよ。ふたりで分ければ、ちゃんと温かいから」
(……こんなにも自然に、近づいてくれる)
寄り添うようにして、ふたり並んでベンチに腰を下ろす。
風の音がやわらかく、木々がさざめいている。
「昔、この場所で、母様と星を数えたの」
「姫様が、まだお小さかった頃でしょうか」
「そうね。私がまだ“姫”というより“少女”だった頃」
姫様の声には、どこか遠い懐かしさがあった。
「その頃の私、ひとりで夜空を見るのが苦手だったの。……暗いのが怖くて」
「……今は、怖くないのですか?」
「うん。今は……あなたが、いるもの」
その言葉に、胸が詰まりそうになる。
けれど、私はそれを見せないように、そっと笑った。
「わたくしも……今夜の月が、いちばん綺麗に見えます」
「ふふ、ね。……それ、私と同じこと言ってる」
寄り添った肩と肩。
その温もりは、灯りのように心を照らしていた。
この夜のことを、私はきっと忘れない。




