第58話 午後の私室と、気づけば隣(芽吹月十三日・午後)
午後の陽が差し込む中、私は姫様の私室の前で静かに扉を開けた。
「どうぞ。入って」
姫様の声が、窓辺の方から聞こえた。
いつもなら紅茶を運ぶだけの場所。 けれど今日は、“付き人”として、初めてこの部屋に同席する。
私室の中は静かで、カーテン越しの光が柔らかく広がっていた。 文机の上には書類の束と、読みかけの本。そして── 朝に使った銀のスプーンが、小さな皿の上に置かれていた。
私は部屋の隅に立ち、姫様の指示を待つ。
「そんなに堅くならなくてもいいのよ」
姫様は、窓際の椅子に腰掛けながら微笑んだ。
「ここでは“ふたり分”の時間、続行中だもの」
私は少し頬を染めながら、軽く会釈をしてその傍に座った。
「何か、飲み物をお持ちしましょうか?」
「ううん。……今日は、あなたがそばにいてくれるだけでいい」
それだけで胸の奥に、静かな鼓動が響く。
*
姫様は書類を読みながら、時折ペンを走らせていた。私はその隣で、予備のインクや書類を差し出すだけ。 それだけなのに、不思議と心は満たされていた。
時折視線が重なり、どちらからともなく微笑む。 会話は少ないけれど、空気がやさしかった。
「……ふふ」
姫様が小さく笑った。
「こんなふうに、誰かと一緒に書類仕事をするの、久しぶりなの」
「そうなのですか?」
「ええ。付き人はいたけれど……こんなふうに“静かな時間”を分け合えたことは、なかった」
私は、その言葉がうれしかった。 同時に、少しだけ胸が切なくなった。
姫様は、どれだけの孤独を、この部屋で抱えてきたのだろう。
私はそっと、姫様のカップに白湯を注いだ。 香りも味もないけれど、ぬくもりだけは伝えられるように。
「……ありがとう。優しいのね、アイリス」
「いえ。これは、わたくしの勝手な判断で」
「でも、嬉しいの。そういう“勝手”は、私は好きよ」
姫様はそのまま、文机から身を離し、ソファに腰を下ろした。 私も促されるように、その隣に座る。
「……昔は、この部屋に入る人も限られていてね。 一緒に静かに過ごす相手なんて、ずっといなかったの」
「姫様……」
「だから、今こうして誰かがいてくれると、時々、不思議な気持ちになるの。 これは夢なんじゃないかって」
私はそっと息を飲み、視線を合わせた。
「これは、夢ではありません。姫様が、ご自身で選ばれた“現実”です」
姫様は、わずかに目を丸くして──やがて、ゆっくりと頷いた。
「……そうね。あなたが言うと、現実のように思える」
そのまま、ふたりで小さく笑い合った。
*
その後、姫様が懐かしげに笑って言った。
「この部屋、昔は姉様と使ってたの。けれど政務の時間が増えて、自然と別々になって……気づいたら、ひとりだった」
「……寂しかったのですね」
「そうね。でも、寂しいって口に出すと、余計に胸がきゅっとなって……」
私はそっと、姫様の手元にあった書類の角を揃えた。
「今は、寂しくないのですか?」
「……いまは、あなたがいるから」
そう言って姫様は、小さな菓子箱を私に差し出した。
「母様がよく買ってきてくれた焼き菓子なの。もう宮廷にはいらっしゃらないけど……この味だけは、ずっと覚えてる」
「いただきます」
ふたりで小さく焼き菓子を口に運ぶ。甘さは控えめ、けれどどこか懐かしい味。
「美味しいですね」
「でしょう? また取り寄せておくわ。ふたり分」
姫様は当たり前のように言った。けれど、それは私にとって特別な響きだった。
*
さらに姫様が少し悪戯っぽくこちらを見た。
「……ねえ、アイリス。髪を結ってくれる?」
「えっ……よろしいのですか?」
「あなたの指先、丁寧で好きなの。今朝の襟元を整えてくれたとき、ちょっと、くすぐったくて」
私は赤面しながら、姫様の後ろに回る。白銀の髪はさらさらと柔らかく、手に取るのも恐れ多いほどだった。
「……不思議ね。誰かに髪を結ってもらうなんて、いつ以来かしら」
「緊張します……けれど、光栄です」
静かに髪を結いながら、私はふと思う。この光景が、ずっと続けばいいのにと。
「できました」
「……ありがとう。うん、とても良いわ」
姫様は鏡を見ながら、優しく微笑んだ。
私は知らなかった。髪を結うという行為が、こんなにも距離を近づけるものだったなんて。
「ねえ、アイリス」
「はい、姫様」
「今夜も、来てくれる?」
「……はい。わたくしでよろしければ、いつまでも」
ふたりの笑顔が、静かな空間に浮かぶ。
夕刻の光が、ふたりの影を長く引き伸ばしていく。
言葉は少なく、けれど確かに、心は寄り添っていた。
──この午後の時間は、誰にも奪われることのない、ふたりだけのものだった。




