↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/100

第58話 午後の私室と、気づけば隣(芽吹月十三日・午後)

 午後の陽が差し込む中、私は姫様の私室の前で静かに扉を開けた。


 「どうぞ。入って」


 姫様の声が、窓辺の方から聞こえた。


 いつもなら紅茶を運ぶだけの場所。  けれど今日は、“付き人”として、初めてこの部屋に同席する。


 私室の中は静かで、カーテン越しの光が柔らかく広がっていた。  文机の上には書類の束と、読みかけの本。そして──  朝に使った銀のスプーンが、小さな皿の上に置かれていた。


 私は部屋の隅に立ち、姫様の指示を待つ。


 「そんなに堅くならなくてもいいのよ」


 姫様は、窓際の椅子に腰掛けながら微笑んだ。


 「ここでは“ふたり分”の時間、続行中だもの」


 私は少し頬を染めながら、軽く会釈をしてその傍に座った。


 「何か、飲み物をお持ちしましょうか?」


 「ううん。……今日は、あなたがそばにいてくれるだけでいい」


 それだけで胸の奥に、静かな鼓動が響く。



 姫様は書類を読みながら、時折ペンを走らせていた。私はその隣で、予備のインクや書類を差し出すだけ。  それだけなのに、不思議と心は満たされていた。


 時折視線が重なり、どちらからともなく微笑む。  会話は少ないけれど、空気がやさしかった。


 「……ふふ」


 姫様が小さく笑った。


 「こんなふうに、誰かと一緒に書類仕事をするの、久しぶりなの」


 「そうなのですか?」


 「ええ。付き人はいたけれど……こんなふうに“静かな時間”を分け合えたことは、なかった」


 私は、その言葉がうれしかった。  同時に、少しだけ胸が切なくなった。


 姫様は、どれだけの孤独を、この部屋で抱えてきたのだろう。


 私はそっと、姫様のカップに白湯を注いだ。  香りも味もないけれど、ぬくもりだけは伝えられるように。


 「……ありがとう。優しいのね、アイリス」


 「いえ。これは、わたくしの勝手な判断で」


 「でも、嬉しいの。そういう“勝手”は、私は好きよ」


 姫様はそのまま、文机から身を離し、ソファに腰を下ろした。  私も促されるように、その隣に座る。


 「……昔は、この部屋に入る人も限られていてね。  一緒に静かに過ごす相手なんて、ずっといなかったの」


 「姫様……」


 「だから、今こうして誰かがいてくれると、時々、不思議な気持ちになるの。  これは夢なんじゃないかって」


 私はそっと息を飲み、視線を合わせた。


 「これは、夢ではありません。姫様が、ご自身で選ばれた“現実”です」


 姫様は、わずかに目を丸くして──やがて、ゆっくりと頷いた。


 「……そうね。あなたが言うと、現実のように思える」


 そのまま、ふたりで小さく笑い合った。



 その後、姫様が懐かしげに笑って言った。


 「この部屋、昔は姉様と使ってたの。けれど政務の時間が増えて、自然と別々になって……気づいたら、ひとりだった」


 「……寂しかったのですね」


 「そうね。でも、寂しいって口に出すと、余計に胸がきゅっとなって……」


 私はそっと、姫様の手元にあった書類の角を揃えた。


 「今は、寂しくないのですか?」


 「……いまは、あなたがいるから」


 そう言って姫様は、小さな菓子箱を私に差し出した。


 「母様がよく買ってきてくれた焼き菓子なの。もう宮廷にはいらっしゃらないけど……この味だけは、ずっと覚えてる」


 「いただきます」


 ふたりで小さく焼き菓子を口に運ぶ。甘さは控えめ、けれどどこか懐かしい味。


 「美味しいですね」


 「でしょう? また取り寄せておくわ。ふたり分」


 姫様は当たり前のように言った。けれど、それは私にとって特別な響きだった。



 さらに姫様が少し悪戯っぽくこちらを見た。


 「……ねえ、アイリス。髪を結ってくれる?」


 「えっ……よろしいのですか?」


 「あなたの指先、丁寧で好きなの。今朝の襟元を整えてくれたとき、ちょっと、くすぐったくて」


 私は赤面しながら、姫様の後ろに回る。白銀の髪はさらさらと柔らかく、手に取るのも恐れ多いほどだった。


 「……不思議ね。誰かに髪を結ってもらうなんて、いつ以来かしら」


 「緊張します……けれど、光栄です」


 静かに髪を結いながら、私はふと思う。この光景が、ずっと続けばいいのにと。


 「できました」


 「……ありがとう。うん、とても良いわ」


 姫様は鏡を見ながら、優しく微笑んだ。


 私は知らなかった。髪を結うという行為が、こんなにも距離を近づけるものだったなんて。


 「ねえ、アイリス」


 「はい、姫様」


 「今夜も、来てくれる?」


 「……はい。わたくしでよろしければ、いつまでも」


 ふたりの笑顔が、静かな空間に浮かぶ。


 夕刻の光が、ふたりの影を長く引き伸ばしていく。


 言葉は少なく、けれど確かに、心は寄り添っていた。


──この午後の時間は、誰にも奪われることのない、ふたりだけのものだった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。