第57話 付き人としての第一歩(芽吹月十三日・午前)
芽吹月十三日、朝。 私はいつもと違う場所──王城の正面棟、政務官の執務室前の広間に立っていた。
付き人となった初日。 紅茶の時間とは異なる、“公式な付き添い”の一日が始まる。
胸元には昨日渡された任命書。 銀のスプーンは、お守りのようにポケットに忍ばせている。
(失礼のないように、落ち着いて)
私は自分に言い聞かせながら、姫様が来られるのを待っていた。
やがて、足音が近づいてきて──
「待たせたわね、アイリス」
姫様は淡い紫の礼装に身を包み、髪をゆるく結い上げていた。 政務のある日の姿は、紅茶の時間とは違う、どこか凛とした美しさを帯びている。
「おはようございます、姫様。準備は整っております」
「うん。今日からよろしくね、“私の付き人”」
姫様の声は、やさしく、それでいて誇らしげだった。
私は胸に手を当て、深く一礼した。
「……精一杯、務めさせていただきます」
*
午前中は会議の傍らで、議事録の補佐と書状の受け渡し。 姫様の動きに遅れぬよう、静かに、けれど正確に。
王城内を歩く道も、姫様と並んで歩くのはこれが初めてだった。 足音をそろえ、息を合わせ、必要なときだけそっと声をかける。
会議の間、私は周囲の言葉を丁寧に聞き取りながら、姫様の表情にも意識を向けていた。 頷き、書き、目を伏せる姫様。 ひとつひとつの所作が、美しく、そして毅然としていた。
(こんな近くで、姫様のすべてを見つめることになるなんて)
少し前の自分には、想像もできなかった未来だ。
会議の終盤、ふと視線を上げた姫様と目が合った。 ほんの一瞬だったが、彼女は微笑んでくれた。
(……見てくださっていた)
そのたった一度の笑みに、胸の奥がすっとあたたかくなる。
*
公務が終わったあとは、昼食も姫様とともに。
食堂の奥、いつもの紅茶とは違う、政務関係者用の個室にふたりで座る。 食事が運ばれる間、私は自然とテーブルの端を拭き、ナプキンを整えていた。
「午前の書状、完璧だったわ。あなたの補佐、助かった」
「ありがとうございます。姫様のご指示が的確でしたので」
「でも……」
姫様は、少し悪戯っぽく微笑んだ。
「一番うれしかったのは、視線を上げたとき、あなたがすぐそこにいたこと」
私は驚きに小さく息をのんだ。 けれどすぐに視線を落とし、静かに頷く。
「私も……同じ気持ちでした」
昼食の合間、姫様はふと小声で、しかしはっきりと言った。
「……本当に、あなたにして良かった。付き人」
その声には、政務の緊張を少し解いたような柔らかさがあった。
私の中で、緊張と喜びが交差する。
昼食を終えるころ、姫様はゆっくりと椅子を引きながら言った。
「午後は、私室に戻る予定。……あなたも、そばにいてくれる?」
「はい。どこまでも」
姫様の頬が、ほんの少しだけ緩んだ。 その表情が、午後の陽射しよりもやさしく感じられた。
午後の光が差し込む窓辺で、ふたりだけの静かな時間が流れていた。 紅茶がなくても、やさしさの香りに包まれていた。




