第30話 午後の風と、特別の温度(芽吹月七日・午後)
午後の陽は、朝よりもやさしく、すこし柔らかな色をしていた。
私はひとり、東庭にふたたび足を運び、控えめにティーセットの準備を始める。
姫様が「午後、顔を出してもいい?」と告げてくださったのは、朝の別れ際。
確約ではない。
けれど私は、信じることにした。
いや、信じたいと思っていた。
風に揺れる花と、紅茶の湯気。
ブレンドは今朝の“遠くの記憶”に、午後の空気を加味したアレンジ。
淡く、柔らかく、それでいてほんの少し、切なさを含んだ香り。
ふと、背後で足音が止まる。
「……こんにちは、アイリス」
「姫様」
「来てもいい、って言ったのは私だけど……本当に準備してくれてたんだ」
「はい。お待ちしておりました」
姫様はふっと笑みを浮かべ、席に腰を下ろす。
「午後の空気って、少し違うね」
「はい。光の差し方、風の向き、温度……すべてが、ゆるやかになります」
「じゃあ、それに合わせて紅茶も……?」
「今朝のブレンドを基に、少し丸みを加えました。午後に似合うように」
「……すごい。もはや、芸術だね」
「芸術などとは」
「違うの、これはね。私とあなたの、“ふたりだけの午後”なんだよ」
その言葉に、私は思わず目を伏せた。
姫様の指が、そっとカップの取っ手に触れる。
「ねえ、アイリス」
「はい」
「この紅茶、なんだか不思議。優しくて、あたたかくて……だけど、どこか寂しさもある」
「……“午後の記憶”と、名づけましょうか」
「うん、それ、いい名前」
午後の紅茶は、ふたりきりの空間を包むように、静かに流れていく。
カップを傾けるたび、紅茶の香りが胸の奥に染み込む。
言葉が途切れても、沈黙は気まずくならなかった。
むしろ、ふたりで過ごす静けさが、心地よくすらあった。
「ねえ、アイリス。こうしてると、不思議だよね」
「何が、でしょう」
「朝と午後で、同じ場所なのに、まったく違う時間みたい。……私、あなたと一緒にいると、時間の感覚がおかしくなる」
「おかしい……とは、良い意味で、でしょうか」
「もちろん。……だって、ずっとこうしていたくなるから」
私は、カップの中の琥珀色を見つめた。
この一言に、何と返せばいいのか。
「……ありがたく、受け取っておきます」
「もう……本当にアイリスって、そういうとこ好き」
姫様が笑う。
私はまだ、その意味を、きちんとは理解していない。
けれど、その笑顔がただ、嬉しくて。
静かな午後の陽に照らされた時間が、いつまでも続いてほしいと──心から、思った。




