第29話 交わされた約束と、胸のどこかで(芽吹月七日・午前)
“遠くの記憶”を飲み終えたあとも、ふたりはしばらくその場に残っていた。
東庭の花々は風に揺れ、空はゆっくりと明るさを増していく。 けれど、ふたりの時間だけはその流れとは別に、静かに止まっているようにも思えた。
「アイリス、今日もありがとう」
「こちらこそ、姫様。お口に合ったようで何よりです」
「ううん、それだけじゃないの。今日の紅茶は……言葉にしにくいけど、とても大事なものを思い出させてくれた気がするの」
私は姫様の横顔を見た。 いつもより少し真剣な、でもどこか柔らかい表情。
「それが、“遠くの記憶”という名前に込められていたのかもしれません」
「そうかもね。……ねえ、アイリス」
「はい」
「私ね、これからも毎日、ここに来たいの。できるだけ、ずっと」
「……ええ。お待ちしております」
「ほんとに? 迷惑じゃない?」
「決して」
姫様はふわりと微笑んだ。 その笑顔が、まるで陽の光のように私の胸を照らす。
「じゃあ、約束ね。明日も、明後日も、その先も──あなたが淹れる紅茶を、わたしは飲みにくる」
「承知いたしました。必ず、ふたり分をご用意しておきます」
ふたりの間に、目に見えない“約束”が交わされた気がした。 それは紙でも印でもなく、ただふたりの言葉と、互いの気配によって結ばれるものだった。
そして──
「……そろそろ、戻らなきゃ」
「お時間ですか」
「うん。今日は視察じゃなくて、お姉様方との午餐があるの」
「では、どうかお気をつけて」
「ありがとう。……それと、今日の午後はもし来られたら、少しだけ、顔出してもいい?」
「もちろん。お待ちしております」
姫様は立ち上がり、ふわりとスカートの裾を払った。
「じゃあ、またあとでね」
その背を見送った私は、紅茶の片付けを始めながら、心の奥であることに気づいていた。
──この時間が、当たり前になってきている。
けれど、その“当たり前”の中に、ひとつだけ確かなことがある。
毎朝、姫様を迎える準備をする。 それが、今の私の日常の一部となっている。
それだけのことが、なぜかとても嬉しく思えた。




