第28話 ふたりで名付ける朝(芽吹月七日・朝)
芽吹月七日、朝。
まだ空が薄い青に染まるころ、私は東庭へと足を運んでいた。 小鳥たちのさえずりが風に乗って聞こえ、花々の香りが静かに漂っている。
紅茶の支度を終え、私はポットの中で茶葉がゆっくりと開いていくのを見つめていた。
「……今日は、まだ名前がない紅茶です」
昨日の夜に選んだ“未命名”のブレンド。 甘さのあとにふっと広がる、淡い苦味と香ばしさ。それは、なにかを伝えようとしているようで──でも言葉にならない。
ふと、足音。 振り向かなくても、誰かが来たことがわかった。
「おはよう、アイリス」
姫様の声。 いつもより少し早く、そしてやさしく響いた。
「おはようございます、姫様。本日も、ありがとうございます」
「ううん、こちらこそ。今日は、なんだかいい日になりそうな気がして」
姫様はいつもの場所に腰を下ろし、私がそっと差し出したカップを両手で受け取った。
「……今日のは、なんだか新しい香りがするね」
「はい。まだ、名前はつけていません」
「ふたりで名づけていい?」
「……はい」
姫様は目を閉じ、ゆっくりと紅茶を口に含む。
「……ああ、これ……なんて言えばいいんだろ。柔らかくて、でもちょっとだけ切ない感じがして……」
「私も、言葉にできずにおりました」
ふたりは少し沈黙する。 その間にも、風が木々を揺らし、紅茶の香りが空へと溶けていく。
「……“遠くの記憶”っていう名前は、どう?」
「……記憶、ですか」
「うん。なぜか分からないけど、飲んだ瞬間に“懐かしい”って思ったの」
私は少しだけ考えてから、そっと頷いた。
「それでは、今日のブレンドは“遠くの記憶”といたしましょう」
姫様は満足そうに笑い、紅茶をもうひと口飲んだ。
「ねえ、アイリス」
「はい」
「こうして毎日、一緒に名前をつけていくのって……すごく特別なことだよね」
「はい。紅茶に限らず、名をつけるという行為には、意味と想いが宿るものです」
「……じゃあ、いつか“私たちだけの名前”も、できるのかな」
「……それは、どういう意味でしょうか」
「なんでもない。ふふ、まだ秘密」
姫様は肩をすくめるように笑い、カップの底を覗き込んだ。
「今日の“遠くの記憶”、とても気に入った。アイリス、またブレンドしてくれる?」
「もちろん。レシピを記録しておきます」
「ありがとう。……でも、レシピだけじゃ足りないかも」
「と、言いますと?」
「あなたが淹れるから、こういう味になるんだと思うの」
私は一瞬だけ言葉を失い、そして静かに微笑んだ。
「それは、光栄に存じます」
ふたりで、そっとカップを傾ける。
“遠くの記憶”という名前。 それがこの朝を、未来のどこかでもう一度思い出すとき── きっと、今日の静けさとやさしさごと、ふたりの胸に残ることになるだろう。




