第8話 法より先に守るもの
スカイシャイン60の中は、薄暗かった。
昼間ではある。外では六月の太陽が、無人の東京を照らしている。
だが、窓の少ない商業エリアの奥まった通路には、その光はほとんど届かない。天井の照明は落ち、床近くの非常灯と、ところどころ生き残っている店内照明だけが、ぼんやりと空間を照らしていた。
誰もいない巨大商業施設。
閉じたシャッター。案内板。イベント告知のポスター。停止したエスカレーター。誰も並んでいないカフェ。誰も座っていないベンチ。
そのすべてが、妙に現実味を失って見える。
そんな中。
「いやぁ~」
理久の持つリードの先で、ペスだけは異様にご機嫌だった。
チャッチャッチャッ、と小さな足音を立てながら、意気揚々と歩いている。その顔の横からは、また例のふわふわした毛が、細く伸びていた。
インフォファイバー。
電気信号によって形状や密度、伝導率を変えるという、次世代の新素材、らしい。
その毛先は、今、触手のように伸びて、一本のアイスを器用に掴んでいた。
シックスティーンアイス、バニラ味。
通路脇にあった自販機で、理久が小銭を入れて買ったものだ。電子決済は通信が怪しかったので試していない。現金なら、意外にも自販機は普通に動いた。
非常時とはいえ、金を入れずに持っていくのは気が引けた。そのあたり、理久はまだ律儀だった。
「バニラアイスって、こんなお味だったんですねぇ~」
ペスは、触手状の毛でアイスを持ったまま、ぺろぺろと嬉しそうに舐めている。
「乳脂肪の濃厚なコクと、バニリンの甘い香り……そして口腔内の温度による急激な状態変化が、素晴らしい味覚体験を演出してくれてます~」
理久は半目でペスを見下ろした。
「アイス食った感想じゃないだろ、それ……」
「えぇっ!?」
ペスは驚いたように耳を立てた。
「それじゃあ、この味覚受容体が受け取った衝撃と、ウチのこの感動を、何て表現すればいいんですか~!?」
「……『めちゃウマい』とか言っておけばいいんじゃね」
「はぇ~、なるほど~」
ペスは、もう一度アイスをぺろりと舐めた。
「めちゃウマいです~!」
「……」
満足そうに尻尾を振りながら、もふもふ触手でアイスを持って歩くペス。
理久は何とも言えない表情でそれを見つめた。
やっぱり、知識と経験がアンバランスだ。
バニリンだの乳脂肪だの状態変化だの、味覚の仕組みは理解している。けれど、実際に食べて「うまい」と感じた経験は、たった今が初めて。
生まれて数時間のAI犬が、誰もいない巨大商業施設で、バニラアイスを舐めながら歩いている。
状況だけ切り取ると、意味が分からない。
だが、さっきまで「キモい」と言われて丸まっていたペスが、こうして機嫌を直しているのを見ると、理久としては少し安心した。
(……機嫌直ってよかった)
そう思ってしまった自分に気づいて、理久は小さく息を吐いた。
街中の人間が消えている。父も見つかっていない。通信も途絶えている。
それなのに、自分は今、ポメラニアン型クラウドロイドの機嫌を気にしている。
どう考えてもおかしい。
だが、不思議と、それが今の理久を現実につなぎ止めてもいた。
「ご主人ご主人~」
「何だよ」
「アイス、溶けるの速いですねぇ~。これは時間との勝負です~」
「じゃあ歩きながらじゃなくて、立ち止まって食えよ」
「それはそれで、探検が止まっちゃいますので~」
「どっちかにしろよ。行儀悪いぞ」
「物質世界、悩ましいです~」
そんなことを言いながら進んでいくと、やがて二人はエレベーター前に出た。
壁には案内板がある。
スカイシャイン60 展望エリア。
矢印の先には、高層階直通らしいエレベーターが並んでいた。
「なるほど~」
ペスは案内板を見上げた。
「ご主人が言ってた『高いところ』っていうのは、この展望エリアのことだったんですねぇ~」
「そういうこと」
「確かに、地上二百二十六・三メートルの展望台からなら、周辺の様子が一望できそうですもんね~。さすがはご主人!」
「まあ、考えとしては普通だろ」
「でも」
ペスはエレベーターの表示パネルを見た。階数表示は消えている。ボタンを押しても、反応はない。
「エレベーター、動いてないですねぇ~。どうしましょうか~?」
「階段で行く」
「ええぇ~~~~っ!?」
ペスの瞳が青く光った。
「地上二百二十六・三メートルですよぉ~!? ご主人、それを階段で上るつもりですかぁ~!?」
「どこかにスタッフ用の階段があるはずだし、非常階段もあるだろ」
「そんなぁ~!」
ペスはその場でぴょんぴょん跳ねた。
「ウチのめちゃかわボディが、階段で展望台まで上るのに何キロジュールのエネルギーが必要だと思ってるんですかぁ~!? ウチの繊細なあんよが、痛い痛いになっちゃったらどうするんですか~!?」
「クラウドロイドなのに、足痛いとかあんの?」
「痛覚に相当するフィードバックはあります~! でないとボディ損傷に気づけませんから~!」
「そこはちゃんとしてるんだな」
理久はエレベーターの扉を見た。
ペスは文句を言っているが、実のところ、理久だって階段で上りたいわけではない。
地上二百メートル以上。単純に考えて、六十階近い高さだ。
普通に嫌だ。ものすごく嫌だ。
だが、それ以上にエレベーターは怖い。
万が一、途中で止まったらどうする。中に閉じ込められたら、誰も助けに来ない。スマホは圏外。外部通信も死んでいる。ペスがいるとはいえ、エレベーターの箱の中に閉じ込められるリスクは大きすぎる。
理久はため息をついた。
(仕方ない……ペスは俺が抱えて上るか)
そう覚悟しかけた、その時だった。
「ここはウチに任せちゃってくださいよ~!」
ペスが、ふんす、と鼻息を鳴らした。
「……まさか」
理久が嫌な予感を覚えた瞬間、ペスの顔横の毛が、また淡く光った。ふわふわの毛が細く伸び、触手状に形を変え、エレベーター横のコントロールパネルへ向かってにょろにょろと伸びていく。
「ちょちょちょ! お前、またトリミング・ハックとかいうので、エレベーター動かす気かよ!?」
「いいからいいから~。ウチにまかせて〜」
ペスは呑気に答えた。
「いやいやいや!」
理久は慌ててしゃがみ込み、ペスの前に回った。
「お前AIだよね!? そんな簡単にシステムにハッキングなんかして、順法精神とかプログラムされてねぇのかよ!?」
ペスは、きょとんとした顔で理久を見上げた。
「順法精神ですかぁ~?」
「そうだよ。勝手に建物のシステムいじるのは、普通にアウトだろ」
「う~ん」
ペスは少しだけ耳を傾けた。
「でも、今って、明らかに非常時ですよねぇ?」
「……まあ、それはそうだけど」
「そうなると、明らかに法よりも先に守るべきものがあるんじゃないかって、ウチは思うんですけど~」
理久は言葉に詰まった。
ペスの口調は相変わらずのんびりしている。だが、言っていることは妙にまっすぐだった。
「……お前にとって、法よりも先に守るべきものって何があるんだ?」
「え?」
ペスは当然のように言った。
「それはもちろん、ご主人ですけど~」
「……」
あまりにもサラッと言われて、理久は一瞬、反応できなかった。
ペスはそのまま、何でもないことのように続ける。
「ご主人は今、誰も人がいないことに困ってるんですよねぇ~?」
「……ああ」
「それで、状況を確認するために、高い場所へ行こうとしているんですよねぇ~?」
「ああ」
「でしたら、この異常事態に対応するなら、多少の行為は緊急避難ということで目を瞑るのが合理的かな~って」
ペスの毛先は、すでにコントロールパネルの隙間へ入り込んでいた。基盤の奥へ、配線の間へ、光る細いインフォファイバーが伸びていく。
「もちろん、目的外の破壊や不必要な侵入は避けます~。非常電源は生きてますし、制御ログを見る限り、停止理由は単なる休止モードっぽいですねぇ~。ワイヤー異常も、今のところ検知されません~」
「そこまで分かるのか」
「はいな。トリミング・ハックですので~」
「その名前で安全確認までされると、逆に不安になるな……」
理久は額を押さえた。
だが、確かに一理ある。
これは、平常時ではない。人類消失。通信遮断。警察も消防も動いていない。父も見つからない。
その状況で、高所から街を確認するのは合理的だ。
そして、そのために施設のエレベーターを一時的に動かすことが、絶対に間違っているのかと問われると、即答はできない。
法を守るために命を危険に晒す。それは本末転倒だ。
けれど。
理久の胸の奥に引っかかったのは、そこではなかった。
ペスは言った。
法より先に守るべきものは、ご主人だと。
つまり、理久だと。
それが当たり前だという顔で。
理久はペスを見下ろした。
ふわふわのポメラニアン。口うるさい。俗っぽい。落ち込みやすい。アイスを食べて機嫌を直す。生まれてまだ一時間少し。そのくせ、得体の知れない新素材の体を持ち、ハッキングまがいのことまでできる。
何なのかは、まだ分からない。
父が何を考えていたのかも、分からない。ペスの本体AIがどこにあるのかも、通信がどうなっているのかも、何一つ分からない。
だが。
(……こいつが、俺の味方って点に関しては)
ひとまず、信用してもいいのかもしれない。
そう思った。
理久は少し間を置いてから、ぼそりと言った。
「……エレベーターの中で、お前がバッテリー切れでも起こしたら、普通に詰むんだけど」
ペスの耳がぴょこんと立った。
「あ、ウチのバッテリーのこと、気にしてらしたんですねぇ~!」
「いや、別に、そういうわけじゃ……」
「大丈夫です~! まだ九十パーセント以上残ってますから、心配なさらず~!」
ペスはハッハッハッと舌を出して笑った。
「さっきアイスも食べましたし~!」
「アイスとバッテリー関係ある?」
「バイオマス変換により、補助エネルギーにはなります~。めちゃウマい補助エネルギーです~」
「気に入ったんだな、その言い方」
「はいな。めちゃウマかったです~」
理久は少しだけ黙り、それからふっと笑った。
「それじゃ、頼りにさせてもらうよ、ペス」
ペスの瞳が、ぱっと明るく光った。
「はいな! ご主人!」
次の瞬間。
ピン、という電子音が鳴った。
消えていた階数表示に光が戻る。どこか上の階に止まっていたらしいエレベーターが、低い駆動音を立てて動き始めた。
数十秒後。
ウィーン、という音とともに、目の前の高層エレベーターのドアが開いた。
中は無人だった。
鏡のような壁面。足元の照明。展望エリアへ向かうための案内表示。
理久は、開いた扉の向こうを見つめた。
そして、リードを握り直す。
「行くか」
「はいな!」
アイスを食べ終えたペスが、尻尾を振って答えた。
理久とペスは、誰もいない高層エレベーターへと足を踏み入れた。




