第2話 誰もいない朝
シャワーを浴び終えた理久は、洗面所の鏡の前で髪を拭きながら、もう一度だけ深く息を吐いた。
状況は、控えめに言って意味が分からない。
バルゴは沈黙。
ネットは不通。
地上波も映らない。
外には人影がない。
そして、東京の朝とは思えないほど静かだ。
「……よし」
理久はタオルを洗濯機の上に投げ、部屋に戻った。
まずは服を着る。
寝間着代わりのTシャツではなく、外に出られる服。パーカーに、動きやすいパンツ。足元は履き慣れたスニーカー。
次に、リュックを引っ張り出す。
スマホ。モバイルバッテリー。
充電ケーブル。水のペットボトル。
カロリーバー。小型ライト。
メモ帳。筆記具。常備薬。
そして、机の上に置かれていた古いデバイス。
手のひらより少し大きい、黒い板状の機械だ。数日前、父から渡されたものだった。
『持っておけ』
それだけだった。
使い道の説明はない。
電源を入れても、まともなメニュー画面すら出ない。
理久が「何これ?」と聞いても、父は「お守りみたいなものだ」とだけ言って、また研究所に戻っていった。
「お守りって感じじゃねぇんだよな、これ」
理久は古いデバイスを軽く振ってから、リュックの内ポケットに入れた。
それからスマホを取り出し、父の番号へ発信する。
数秒。十数秒。
繋がらない。
圏外表示のまま、通話は失敗した。
「出ない……いや、アイツは出ないか。平常時であっても」
理久はそう呟いた。
父親は研究者だ。
大学の研究室に泊まり込むことが多く、家に帰ってこないことも珍しくない。電話に出ないことも、メッセージの返信が数日遅れることも、まあまあある。
だから、父と連絡がつかないこと自体は珍しくない。
珍しくはない、のだが。
「いつものこと、ならいいんだけどな」
理久はスマホをポケットに押し込んだ。
玄関へ向かい、ドアの前で一度立ち止まる。
いつもの朝なら、廊下から何かしら音が聞こえる。
隣室のテレビ。
どこかの部屋の洗濯機。
小学生の足音。
急いで出勤する人のドアの開閉音。
だが、今日は何もない。
理久はドアスコープを覗いた。
廊下には誰もいない。
「……まあ、そりゃそうか」
鍵を開ける。
ゆっくりとドアを開いた。
マンションの廊下は、いつも通りだった。
白い壁。非常灯。
並んだ玄関扉。朝の光。
ただし、音だけがない。
理久は廊下へ出て、左右を見た。
誰もいない。
ドアの前に置かれた宅配の箱が一つ、ぽつんと残っている。回収される気配はない。
少し先の部屋の前には、可燃ごみの袋が置かれていた。おそらく朝に出すつもりだったのだろう。
「なんか……全部途中で投げ出されたみたいな……」
理久は小さく呟き、エレベーターの方へ歩いた。
ボタンを押す。
すぐに階数表示が動き、エレベーターが三階に到着した。
扉が開く。
中は空だった。
電気は生きている。
機械も生きている。
けれど、人間だけがいない。
理久は一歩踏み込みかけて、やめた。
「……いや、途中で止まったら普通に詰むな。三階だし、階段でいいか」
そう言って、非常階段へ向かう。
階段を降りる足音だけが、コンクリートの壁に反響した。
一階。エントランスに出る。
管理人室の窓口は開いていた。
中には椅子が一脚、少し後ろに引かれたまま置かれている。机の上にはマグカップ。中身はもう冷めているだろう。
掲示板には、マンションの点検予定と、防犯注意のポスター。
郵便受けには、昨夜か今朝に届いたらしいチラシが何枚も突き刺さっていた。
「……なんだ、この異様な静けさ……」
理久の声は、思ったより小さく出た。
自動ドアが開く。
外へ出た瞬間、朝の空気が肌に触れた。
国道沿いの道。
いつもなら車の走行音が絶えない場所だ。
だが、今は風の音の方が大きい。
道路には、車が何台か残されていた。
ただし、思ったより数は少ない。
朝七時前の国道としては、明らかに少ない。
停まっている車のほとんどは、車線の途中や路肩に不自然な形で残されていた。中には縁石に軽く乗り上げた車もある。だが、大規模な玉突き事故のような惨状ではない。
2035年の車は、運転支援システムや緊急停止機能がかなり普及している。
何かの異常を検知して、自動停止した車もあるのだろう。
それでも。
運転席には誰もいなかった。
「おーい!!」
理久は声を張り上げた。
反応はない。
「すみませーん!! 誰かいませんかー!!」
声はビルの壁に跳ね返り、少し遅れて戻ってきただけだった。
遠くで、鳥の鳴き声がした。
それ以外、何も聞こえない。
「避難訓練……じゃ、ないよな。でも……」
理久は近くの車へ歩み寄った。
黒いコンパクトカー。
エンジンはかかったままだった。
低い振動音が、わずかに車体から伝わってくる。朝なのにヘッドライトも点いたままだ。
「エンジンつきっぱなし。ライトもつきっぱなし。朝っぱらから……?」
運転席を覗く。
誰もいない。
助手席にも、後部座席にも、人影はなかった。
ただ、運転席のシートベルトだけが少し引き出された状態で残っていた。
「──まぁ、災害から避難する時は、車のキーは車内に残しておく、ってのがマナーらしいし……」
理久は自分に言い聞かせるように呟き、運転席側のドアノブに手をかけた。
開かない。
「……ん?」
もう一度引く。
やはり開かない。
内側からロックされている。
理久の指先が、ドアノブから離れた。
エンジンがかかっている。
キーは車内にある。
なのに、ドアは内側からロックされている。
避難したのなら、外へ出るためにドアを開ける必要がある。
外へ出たなら、内側からロックはできない。
いや、できる車種もあるかもしれない。スマートロックの誤作動もあり得る。
だが──
「……どうなってんだ、これ」
理久は別の車へ向かった。
白いワゴン車。
こちらもエンジンがかかったまま。運転席は空。ドアは開かない。
さらにもう一台。
青い軽自動車。
ハザードランプが点滅している。中に人はいない。ドアはロックされている。
次の車も、その次の車も、似たような状態だった。
理久は道路の中央に立ち尽くした。
信号が青に変わる。
横断歩道を渡る人間は、誰もいない。
数十メートル先のコンビニは、照明がついていた。
自動ドアも開いたままになっている。
だが、店員の姿はない。
レジの電子音だけが、遠くからかすかに聞こえた。
「エンジンがかかったままの車。キーは車内。ドアはロック。運転手はいない。事故じゃない。避難でもない。誘拐にしては痕跡がなさすぎる」
声に出して整理する。
そうしないと、思考が嫌な方向へ滑っていきそうだった。
理久は目の前の道路を見た。
車。信号。
コンビニ。マンション。
看板。自動販売機。
すべてある。
人間だけがいない。
「まるで、運転中に運転手だけ消えちまったみたいな……」
自分で言った言葉に、背筋が冷えた。
理久は口を閉じる。
その仮説は、あまりにも馬鹿げている。
けれど、目の前の状況を一番素直に説明してしまう。
理久は額を指で押さえた。
「……間違いなく、何かしらの異常事態ではあるな、これは」
そして、リュックの肩紐を握り直す。
普通なら、警察か消防に連絡する。
だが、スマホは圏外。
バルゴも沈黙。
テレビもネットも死んでいる。
父には繋がらない。
なら、次に行くべき場所は一つしかなかった。
「──行ってみるか。親父のとこ」
父の研究室は、ここからそう遠くない。
大学の理学部校舎内。
理久は高校から父の都合で東京へ来た。
それなのに、人混みが苦手で、東京の街をまともに見て回ったことはほとんどない。
池袋も、新宿も、渋谷も。
いつでも行けると思っていた場所は、結局、いつまでも行かない場所になっていた。
それが今、目の前にある。
誰もいない東京として。
「人混み消失だけ切り取れば、正直ちょっと助かる。……いや、助かってる場合じゃねぇけど」
理久は、自分の軽口に少しだけ苦笑した。
信号が、また赤に変わる。
車は動かない。
人もいない。
それでも街だけは、いつも通りに朝を続けている。
理久は誰もいない国道を、父の研究室へ向かって歩き出した。




