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第0話 人類が消えた日

2035年、6月11日。

日本時間、午前三時三十八分。


人類は、地球上からその姿を消した。


それは戦争ではなかった。

疫病でも、天災でも、神の怒りでもなかった。


ただ、消えた。


七十億を超える人間が、まるで最初からそこに存在していなかったかのように。




 ◇◆◇




すべての始まりは、その数時間前にまで遡る。


地球近傍天体、仮称KX-35。


数日前から世界各国の天文機関が注視していたその小惑星は、日本時間の午前三時三十八分頃、太平洋上に落下すると予測されていた。


発見当初こそ、ネット上では

「人類終了のお知らせ」

「令和版ノストラダムス」

「隕石落ちるのに明日も出勤とかマジですか?」

などと半ば冗談めかした言葉が飛び交っていた。


各国のニュース番組も、こぞって特番を組んだ。

専門家がCG映像を使って落下予測を解説し、コメンテーターが神妙な顔で「過度な不安は必要ありません」と繰り返した。


実際、小惑星の質量はそこまで大きくなかった。

大気圏突入時に一部は燃え尽き、残った破片が海洋に落下する。

最悪の場合でも、懸念されるのは局地的な津波、海底ケーブルの損傷、通信衛星への一時的な影響。その程度だと考えられていた。


少なくとも、地球規模の破局を引き起こすような天体ではない。

それが、専門家たちの一致した見解だった。


けれど、完全に安全と言い切れる者もいなかった。

推定落下地点は、北緯十六・六九一一度、東経百四十七・八〇三四度。

日本列島からは十分に離れている。


だが、海という場所は厄介だった。

衝撃が海面を叩けば波が生まれる。

海底の地形によっては、その波は思わぬ方向へ伸びる。

人類は宇宙から落ちてくる石の軌道を計算できても、海の機嫌までは完全には読めない。


だから、その夜、日本では深夜にもかかわらず、多くの機関が眠らずにいた。

防衛省、気象庁、内閣危機管理関連の部署、大学の天文研究室、海洋研究機関。

衛星映像、赤外線観測データ、海上ブイの波高情報、地震計、海底ケーブルの通信状態。

それらが無数のモニターに並べられ、暗い部屋の中で青白く光っていた。


ある危機管理センターでは、官僚たちと研究者たちが、無言に近い緊張の中で画面を見つめていた。

深夜の空気に、コーヒーの匂いと機械の排熱が混じっていた。

誰かが小さく言った。



「落下まで、あと十分です」



返事はなかった。

皆、分かっていたからだ。

数字の上では、危険は限定的。

それでも、自然現象は人間の予測を平然と踏み越える。


別のモニターには、アメリカの観測施設から送られてくるデータが表示されていた。


さらに別の画面では、イギリスのテレビ局が特番を流している。司会者が緊張を隠した笑みを浮かべ、隣の専門家が落下予想図を指し示していた。


中国の観測施設、欧州宇宙機関、民間の天体観測ライブ配信。

世界中が、同じ空の一点を見つめていた。


人々は不安を抱きながらも、どこかでそれをイベントのように消費していた。


真夜中の日本でも、眠らずに配信を見ている若者たちがいた。


隕石落下カウントダウンと題したライブ配信。

コンビニの駐車場で空を見上げる動画。

「隕石落ちたら起こして」と書き込んで寝落ちする者。

「隕石より明日の小テストの方が怖い」と笑う学生。



世界はまだ、世界が終わるとは思っていなかった。

 


 ◇◆◇



午前三時三十七分。

危機管理センターの空気が、さらに張り詰めた。



「大気圏突入を確認」


「輝度上昇。主破片、予測軌道を維持」


「分裂反応あり。想定範囲内です」


「海洋到達まで、二十秒」



淡々とした報告だけが室内に響く。

誰も大声を上げなかった。

誰も祈らなかった。


科学者たちは数字を見つめ、官僚たちは被害想定の表を握り、防衛省の職員たちは次の指示を待っていた。


「10秒」


全員の視線が、正面の大型モニターへ集中した。

衛星映像の中で、白く燃える点が暗い海へ落ちていく。



「5、4、3、2、1 ──落下」

 


次の瞬間、海が光った。

夜の太平洋に、巨大な白い花が咲いたようだった。

遅れて、観測値が跳ね上がる。

海面の膨張。

水柱。衝撃波。

波高データの上昇。

地震計の反応。

だが、数値はまだ予測の範囲に収まっていた。



「落下確認」


「衝撃波、想定内」


「津波解析に移行」


「海底ケーブル、一部に通信遅延。ただし断線は確認されず」



室内に、ごくわずかな安堵が流れかけた。




その時だった。




部屋の中央に、"黒い点"が生まれた。

最初、それに気づいた者は少なかった。

モニターの不具合か、照明の影か、疲労による錯覚か。

けれど、その点はすぐに大きくなった。

空中に浮かぶ、握り拳ほどの"黒い球体"。

完全な球ではなかった。

表面はゆっくりと波打ち、膨らみ、縮み、まるで何かの心臓のように小さく脈動していた。

光を反射していない。だが、影とも違う。

黒い液体が丸まっているようにも、空間そのものに穴が開いているようにも見えた。


誰も動けなかった。

報告の声も、キーボードを叩く音も、すべて止まった。


それは生き物のようだった。

だが、生き物と呼ぶには、あまりにも静かだった。

球体の周囲だけ、空間がわずかに歪んでいた。

輪郭が滲み、映像の解像度がそこだけ落ちたかのように見える。


ある科学者が、椅子からゆっくりと立ち上がった。

彼は白髪混じりの男で、長年、天体物理を研究してきた人物だった。

その顔には恐怖が浮かんでいた。

だが、それ以上に、抑えきれない好奇心があった。



「何だ……? これは……?」



誰かが止めようとした。

近づくな、と言ったのかもしれない。

危険だ、と叫んだのかもしれない。

けれど、その言葉は最後まで形にならなかった。


科学者は、黒い球体へ手を伸ばした。

指先が触れる寸前、球体の脈動が速くなった。

そして、音が鳴った。



ヴヴヴヴヴヴヴヴッ──。



それは機械音にも聞こえた。

虫の羽音のようにも聞こえた。

あるいは、空間そのものが細かく震えている音にも聞こえた。


科学者の指先が、緑色の光になった。

皮膚が剥がれたのではない。

血が流れたのでもない。

そこにあった人間という形が、無数の緑色の粒子へと置き換えられていった。


指。手首。腕。

肩。胸。顔。


彼は何かを叫ぼうとした。

しかし声もまた、途中で細かな粒となり、黒い球体へ吸い込まれていった。

その場にいた誰一人として、その現象を理解することはできなかった。


現象は一人で止まらなかった。

官僚の身体が揺らぎ、緑色の粒子に変わる。

防衛省の職員が机にしがみつこうとして、その手ごと光になって崩れる。

通信担当者がヘッドセットを押さえたまま消える。

警備員が駆け出す前に、足元から粒子となってほどけていく。


助けを求める声はなかった。

恐怖する時間さえ、ほとんどなかった。

数秒後、危機管理センターには誰もいなくなっていた。

椅子だけが倒れ、コーヒーカップが床に転がり、モニターだけが落下後の海洋データを映し続けていた。




そして、同じことが世界中で起きていた。


アメリカの観測施設では、研究者たちがモニターの前で緑色の粒子となって消えた。

飲みかけのコーヒーが床に落ち、紙コップから黒い液体がゆっくりと広がった。


イギリスのテレビ局では、生放送中のアナウンサーが言葉を途中で失った。



「ただいま、スタジオ内に不可解な──」



その先はなかった。

彼女の身体が光の粒となり、隣の専門家も、カメラマンも、照明スタッフも、同じように消えた。

カメラは誰もいないスタジオを映し続けた。


中国の観測施設では、軍服姿の男が指示を飛ばそうとした瞬間、顎の先から粒子に変わった。

叫び声は音にならず、警告表示だけが赤く点滅し続けた。


日本のどこかのマンションでは、ライブ配信中の若者がスマートフォンに向かって笑っていた。



「やば、隕石落ちたっぽい! てか、部屋に変なの出て──」



コメント欄が流れた。


『え?』

『なにそれCG?』

『逃げろ』

『演出?』

『ガチ?』

『グエー死んだンg』


次の瞬間、配信者は緑色の粒子となって消えた。

スマートフォンだけが机に倒れ、天井を映し続けた。

コメント欄は数秒だけ動き、その後、誰からも新しい言葉は届かなくなった。


病院では、夜勤の医師がカルテを開いたまま消えた。

看護師も、患者も、付き添いの家族も消えた。

点滴だけが規則正しく滴り続けた。


深夜のコンビニでは、店員がレジの前で消えた。

客が持っていたペットボトルは床に落ち、電子音だけが空しく鳴った。


走行中の電車では、運転士も乗客も消えた。

車両は自動制御のまましばらく走り、やがて非常停止した。


航空機の操縦席は空になった。


高速道路の車列から人だけが消えた。


港のクレーンも、工場のラインも、オフィスのパソコンも、すべては動きかけたまま、使う者だけを失った。



 ◇◆◇



黒い球体は、世界中に同時に現れていた。

都市にも、村にも、海上の船にも、地下鉄のホームにも、研究室にも、寝室にも。

それらは生き物のように脈動し、人間だけ(・・・・)を緑色の粒子へ変え、吸い込んだ。

服は残らなかった。

血も残らなかった。

悲鳴も、記録も、抵抗も、ほとんど残らなかった。

ただ、人間という存在だけが、この世界から抜き取られていった。


午前三時四十二分。

首都高速道路には、誰も乗っていない車がいくつも残されていた。

赤いテールランプだけが、無人の道路に点々と灯っていた。


午前三時四十四分。

日本中のスマートフォンが、持ち主のいない通知を鳴らした。

メッセージアプリの未読表示。

天気予報の通知。

ニュース速報。

アラーム。

それらはすべて、受け取る人間を失っていた。


渋谷のスクランブル交差点では、信号だけが規則正しく色を変えていた。

大型ビジョンには、無人になったニューススタジオが映っていた。


新宿駅の電光掲示板は、次に来るはずの電車を告げていた。


学校の教室には、机と椅子が並んでいた。

病院の廊下には、消毒液の匂いだけが残っていた。

マンションの一室では、食べかけの夜食が冷めていた。


世界は、しばらくの間、人間がいなくなったことに気づいていないかのように動き続けた。


そして、黒い球体は役目を終えたように消えた。

脈動が弱まり、表面がほどけ、最後には黒い点となって空間の奥へ沈んでいった。

まるで最初からそこには何もなかったかのように。


午前三時四十五分。

日本は、無人になった。



──ただし、完全にではない。




 ◇◆◇




東京豊島区にある、一人暮らし用の小さなマンション。


その一室では、机に突っ伏した少年が眠っていた。

男子高校生。

机の上には、分解された電子機器、工具、ノート、参考書、古い端末が散らばっていた。


部屋の空気には、一瞬だけ緑色の光が残っていた。


少年のすぐ近くで、黒いノイズのようなものが小さく揺れた。


しかし、それは少年を飲み込まなかった。

代わりに、机の上の古い端末が一度だけ淡く光った。


それきり、部屋は静かになった。

少年は何も知らずに眠っていた。

人類が消えたことも。

世界が空白になったことも。

自分が、なぜ消えなかったのかも。



その夜、世界は終わった。



けれど、少年のアラームは予定通り、午前七時に鳴ることになる。

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