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01 アルディーニの娘





「ルクレツィア・アルディーニ侯爵令嬢……僕は君との婚約を破棄したい」


 ルクレツィア十六歳の誕生パーティー。

 夜会服をまとった貴族たちが華やかに談笑し、シャンパングラスの音が優雅に響くなか、豪奢な会場の中央で、それは宣言された。


 きらめくシャンデリアの下、招待客たちの笑みが凍りつく。


 一瞬で、賑やかだった場が静まり返る。


 音楽も止まり、弦楽奏者たちは手を止めて顔を見合わせる。給仕たちは銀のトレイを持ったまま、動きを止めた。


 アルディーニ・ファミリアの構成員たちがすぐさま戦闘態勢に入るのを、ルクレツィアは静かに見つめていた。


 ――彼らはルクレツィアの血を分けた家族ではないが、忠誠で結ばれた『家』を、この国では『ファミリア』と呼ぶ。王国にはいくつものファミリアが存在し、毎日血で血を洗う闘争を繰り広げている。


 構成員たちが、「この無礼者をいますぐ拘束しますか?」「どのような処刑方法を?」「どの地下牢獄にぶち込みますか?」と無言で問いかけてくる。


 パーティーの場にいるアルディーニ家の人間は、いまはルクレツィアだけ。

 黒いドレスをまとったルクレツィアは赤い髪を揺らし、青い瞳で婚約者を見つめる。


 ――ニコロ・ステラマーレ。古い貴族であるステラマーレ伯爵家の跡取り。

 爵位の格はアルディーニ家の方が上だが、ステラマーレも歴史ある名家である。つまり正統な貴族だ。

 二人の結婚は、どちらの家にも利がある、大切な契約だ。


 なのに、彼はこの婚約を破棄しようとしている。


 ――そして、ルクレツィアは知っている。


(わたくしは――この後に起こることを知っている?!)


 動揺を表に出さないように必死に外面を保ちながら、ルクレツィアは考えていた。


 ――この後、ニコロはアルディーニの制裁を受け、海の藻屑と消える。


 そしてアルディーニ家は本格的に内地で勢力を伸ばしていき、数多の暗殺を行い、多くのファミリアを潰し、あるいは傘下に収めていく。


 やがて『血のアルディーニ』と呼ばれ恐怖の象徴になっていき、ルクレツィアはとあるファミリアの生き残りによって攫われ、報復を受け――


 死ぬ。

 殺される。


 ――その瞬間のことは曖昧だけれども、死の事実は鮮烈に記憶されている。


 心臓が恐ろしい速さで警鐘を発している。

 しかし、あまりに長い間黙っているのはまずい。


 沈黙は、それだけで多くの意味を生み、多くのものを動かす。

 特に、アルディーニの娘であるルクレツィアの沈黙は。


 このままでは――記憶と同じ通りになる。

 ニコロはそのまま屋敷から出ていき、海に消える。


 ――それだけは止めなければならない。


「――ニコロ様、どうしてですか?」


 静かに、問う。

 それは記憶にはなかった問いだった。


 記憶の中のルクレツィアは、何も言わずに大広間から離れたから。


 ――ルクレツィアはこの婚約に未練はない。

 自分ではなくて、既に亡くなった祖父の決めた結婚で、ルクレツィアは「そういうもの」だと思って受け入れてきた。


 だが、ずっと結婚すると思っていた相手から一方的に拒否されるのは、さすがにつらかった。

 つらく思うほどには、愛着があった。


 ニコロの握りしめられた手はわずかに震えていた。


 彼は今日、わずかな護衛とともに、アルディーニ家が統べるこのカッシニア島に訪れ、たった一人でこのパーティーに現れた。


 構成員たちに殺気を向けられても、彼は逃げようともしていない。

 殺されるのがわかっていてもなお、婚約を破棄したいのだ。


 いったい何のために? 何が、彼をそこまでさせるのか。


「……好きな人ができたんだ」


 その答えに、ルクレツィアは驚いた。

 心の底から驚いた。


 その言葉の鮮烈さが――ルクレツィアの中でカンパネルラのように鳴り響く。


 ――その、好きな相手と結ばれるために、死を覚悟してここに?


 ニコロが頷く。


「彼女は、貴族でも、どこのファミリアの娘でもない……普通の子だ。僕は彼女の明るさに救われ、恋をした。真実の愛を見つけた以上、自分を偽ったまま、そして君に黙ったまま結婚はできない」


 とても、とても誠実だ。

 その誠実さのために、彼は死んだのだ。


「……そうですか。その方のために、すべてを捧げる覚悟ができたのですね」


 ルクレツィアも小さく頷き、微笑んだ。


「では、いますぐお帰りください。お父様にはわたくしから話しておきます。道を開けてあげて」


 ルクレツィアが命じると、入口を封鎖していた黒服たちが無言で扉を開ける。

 ニコロはひとつ礼をして、出口へと向かった。


「ニコロ様、いままでありがとうございました。次は友人としてお会いしましょうね」


 ルクレツィアの言葉に、彼は振り返ることもなく足早に立ち去っていく。


「――さあ、皆様。パーティーの続きをお楽しみくださいませ」


 音楽が再開され、何事もなかったように――饗宴は続く。


 その中でルクレツィアはそっと広間を抜け出した。



◆◆◆



(――急がないと)


 ルクレツィアは黒いドレスの裾を持ち上げ、屋敷の廊下を早足で進んだ。


 心臓がうるさいほど鳴っている。耳の奥で血の音が響き、さっきまでの大広間の音楽がもう遠い。

 急がなければならない。父と兄がいる居間へ。アルディーニ・ファミリアがニコロを殺す前に。


 角を曲がるたびに、黒服の構成員たちが無言で道を開ける。

 その顔にはすでに、何かを知っている者の張りつめた気配があった。


 ――知らせは、もう行っている。


 居間の扉の前まで来た瞬間、中から兄の怒声が響いた。


「あの野郎、殺してやる!」


 ルクレツィアは一度だけ息を整え、そのまま扉を押し開けた。


「お待ちください、お兄様」


 豪奢な絨毯が敷かれた居間の空気は、先ほどまでの夜会とは別の意味で重かった。


 どっしりとした椅子に腰を下ろし、葉巻をくゆらせているのは、ルクレツィアの父であり、アルディーニ家当主にして侯爵、そしてファミリアの首領ドン

 その隣で今にも飛び出しそうな勢いで立ち上がっているのが、兄のレオナールだ。


「ルル! これが待っていられるか!」


 赤毛を逆立てる勢いで怒鳴る兄の声に、背後に控える黒服たちがわずかに身を引いた。


「よりによって、お前の誕生日に恥をかかせてきたんだぞ!? あの野郎、ぶっ殺してやる! 船を沈めさせる。爆破だ。派手に報復だ。アルディーニ家を甘く見た報いを――」

「やめてください、お兄様」


 ルクレツィアは一歩進み、兄の真正面に立った。


 そんなことをすれば、記憶の中の未来どおりになってしまう。

 ニコロは海の藻屑と消え、それを合図にするようにアルディーニ家は内地で牙を剥く。血を重ね、敵を増やし、やがて自分もまた報復の連鎖の中で死ぬ。


 その未来だけは、ここで断ち切らなければならない。


「ルルの可愛い顔に泥を塗られたんだぞ?! 何もせずにいられるか!」

「ニコロ様は筋を通されました」


 ルクレツィアは真っ直ぐに兄の目を見て言い切った。


「わたくしは皆様の前で彼を送り出しました。未来の再会の約束もしました。これで沈めたら、それこそ狭量というもの。アルディーニ家の威光にかかわりますわ」


 声は静かに。

 だが、一音たりとも揺らさないように。


「それに、下手をすれば戦争になります。ならばここは恩を売っておいた方が、ステラマーレ伯爵家への大きな貸しとなるでしょう」


 兄が言葉を呑む。

 ルクレツィアはその隙を逃さなかった。


「船に乗っているのは元婚約者だけではありません。無関係の方々を巻き込むのは流儀に反しますわ」


 レオナールは悔しげに奥歯を噛みしめ、拳を握る。

 けれど、反論はできない。


 ルクレツィアは淡く微笑んだ。


「それよりも、わたくしがもっと幸せな結婚をするのが一番の報復になります」


 そう言って、くるりとスカートを翻し、今度は父の前で一礼する。


「――と、いうことでお父様。わたくしを王都の王立学園に通わせてください。そこで見聞を広め、そして『真実の愛』を見つけてまいります!」


 部屋に沈黙が落ちた。


 葉巻の煙だけが、ゆるやかに揺蕩っている。


「――真実の、愛……?」


 レオナールが呆れと困惑の入り混じった顔で妹を見る。


「ルル、お前本気か?!」

「はい。お兄様はすでに大好きな方と結婚していらっしゃるんですから、わたくしも大好きな人と結婚したいです!」


 本気も本気である。

 ひとまずニコロ抹殺は阻止できた――と思いたい。


 だがきっと、自分の――ファミリアの娘としての運命は、あの記憶の中の未来と大差ない。

 ならばもっと大きく変えなければ。


 それにルクレツィアも、恋をしてみたい。恋をしてまっすぐに生きたニコロのように。

 自分も、胸の鐘を鳴らすような恋をしてみたい。


 そして――……


「…………」


 父は無言のまま葉巻を灰皿に押し付けた。

 火が潰れ、細い煙だけが立ちのぼる。


「……好きにしろ」

「お父様……! ありがとうございます!」

「親父っ?!」

「――ただし、一つだけ条件がある」


 その声の重さに、ルクレツィアは思わず息を呑んだ。


護衛騎士カヴァリエーレを選び、連れていけ」

「うっ……そ、それは……」


 ――護衛騎士カヴァリエーレ


 剣と鎧ではなく、火薬と謀略のこの時代にふさわしくない、古めかしい呼び名。

 だがそれは、ただの護衛でも騎士でもない。


 アルディーニ・ファミリアに古くから伝わる制度であり、一族の人間は必ず専属の一人を選ぶことになっている。

 側近中の側近であり、盾の中の盾であり、武器。主人――ルクレツィアに何かあれば、その護衛騎士が責任を取ることになる。主人がかすり傷一つ負うだけで、首が物理的に飛びかねない危険な役割だ。


 ルクレツィアは、ずっとその指名を避けてきた。


 誰か一人の人生を、自分のためだけに縛りつけるようで嫌だったから。

 けれど、王都へ行くなら、そんなことも言っていられない。


「……わかりました。すぐに決めてまいります」


 優雅に一礼し、ルクレツィアは居間をあとにした。


 扉が閉まると、廊下の向こうから大広間の音楽がかすかに流れてくる。

 何事もなかったように続いている饗宴の音だ。


 けれどルクレツィアの中では、もう別の歯車が回り始めていた。


 黒いドレスの裾を引き、静かな廊下を歩きながら、ルクレツィアは考える。


(わたくしの、護衛騎士カヴァリエーレ……)


 選ぶ人は、ひとりしかいない。





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