第8話:メイドの川流れ
一時間近くかけて灯した命の炎が、柔らかな繊維を燃やし尽くして力を失っていく。その姿はまるで、食べ物が見つからず衰弱していく未来の俺を暗示しているようで、心まで暗くなる。組み上げた薪の中へ焼べようにも、視線が気になって動けなかった。
くっそ、何でこのタイミングなんだ……。
距離にして二十メートルもないだろう。砂利の多い川岸と植物が覆い茂る森とを分ける境界の向こう、木々の後ろからこちらを窺っている生き物の気配がある。
只の動物だったらいいが、生憎今日は怪物の姿しか見ていない。アステリオの可能性も考えたが、彼なら普通に声をかけてきてくれるだろう。
狙いはなんだ……?
どうすればいい……?
熊と遭遇した時は死んだふりをしろと言うが、実は非常に危険な回避方法だとネットの記事で見たことがある。寧ろ、熊を誘き寄せる危険性があるらしく、じっと目を合わせながら後退し、速やかに物陰に隠れる方が良いそうだ。
「へぇ、まあ俺は登山とかしないし、熊がいる地域に住んでないから関係ないな」と他人事のように読んでいた自分に今の姿を見せてやりたい。熊が出たってレベルの騒ぎじゃねぇぞ……!
異世界転移前に獲た知識がようやく役立つ場面ではあるが、あいにくここは見晴らしのよい川岸だ。隠れられそうな場所はない。
「ああ、またしっぱいしちゃったなあ……」
まずは、俺が相手に気づいたことを感づかれないようにしなければならない。幼稚園のお遊戯会で拍手喝采を浴びた天才的な演技を披露しながら、俺は火起こしを諦めた体で次の行動に移った。
まだ湿っている服に身を包み、ボードを小脇に抱えた俺は、そのまま川沿いを歩いた。夜の散歩を楽しむ貴婦人のような軽やかさで、花や小動物に語りかけるプリンセスのような陽気さで。
急な動きで相手を刺激しないように、俺はさも何事もなかったかのような振りをしながら距離をとる。
一体いつから狙われていたのだろう。
緊迫した空間に、呼吸が早くなる。
やらなきゃ、やられる……。
精神をすり減らす状況は、強気な賭けに出なければいけないという思いを抱かせる。ボードを陰にファンガーリングをはめ直した時、俺は奴の狙いに気がついた。
「あっ!!」
思わず声を出して振り返ると、まさに地獄鶏の卵が盗まれようとしている瞬間だった。暗くてよく見えないが、人のような体型をした黒ずくめのシルエットが、卵に手を伸ばしている。
「泥棒っ!」と指をさしてしまいそうになるが、時系列的にはある意味俺も泥棒な訳で、むしろ被害者の関係者が取り返しにきた可能性もゼロではない。
その場、俺がお咎めを受ける立場になるわけだが、果たしてこの世界には警察のようや組織があるのだろうか(数少ない俺の実体験からは、無法地帯という言葉しか浮かんでこないのだが)。
それはさておき、ひとまず俺の命を狙っていた訳ではなさそうなことに安心しよう。
しかし、窃盗犯と対峙している最悪な状況であることは変わりない。犯行の瞬間を見られてしまった犯人も、アメフト選手がプレー開始前にボールを構えているような体制でこちらをじっと見据えていた。
暗闇の中で光る目は、俺の動きを牽制している。まさかこのまま戦闘という名の試合が始まったりしないよな。
手に汗を握っていると、川上の方から甲高い悲鳴が響き渡った。
「きゃぁぁあああっ!」
試合開始を告げるホイッスルのような悲鳴に、枝に止まっていた鳥類がバサバサと羽音を立てて飛び去っていく。その声を合図に、窃盗犯は卵を抱えて薄暗い森の中へと一目散に駆けていった。
後を追いかけるか?!
いや、あの早さには追いつけないだろう。
それに対峙したとして勝てる見込みもない。だとしたら……。
危機は脱したと判断した俺は、すぐに悲鳴が聞こえた方へと走った。
「だっ、誰かぁあっ!!!」
「今行きますっ!」
川沿いを走って直ぐに、白波を幾つもうねらせる渓流の中に人の手が見えた。流れは急であり、浮き沈みする女性は俺の目前を通り過ぎると、あっという間に小さくなっていく。
溺れていると察するや否や、俺はそのまま川へと飛び込んだ。激しい流れに乗って、彼女の下へ泳いでいく。しかし、俺が到着する寸前に力尽きてしまったのか、水の中へと沈み込んでしまう。
「ふー。すぅっ……!」
見失ってしまう前に大きく息を吸い込んだ俺は、勢いよく水の中へ潜った。川の中は予想以上に深く、川底は全く見えない。それでも諦めずに潜水すると、水沫で乱れる視界の中に、彼女の白い服が漂っているのを捉えた。
それがメイド服であることにはつっこまず、バタ足に力を込めた俺は、水流を利用して近づいていく。抱きかかえようと手を伸ばした時、彼女の足元に黒くて太い何かが巻き付いているのが見えた。
何だ、あれ……?!
ゴツゴツとした鱗と、三角の頭にギロリと光る眼。それは成人男性の腰回りと変わらない太さをした巨大な蛇だった。全長は優に五メートルに以上あるだろう。彼女の細い足に幾重にも巻き付き、泳げないように固定している。
大蛇も潜水する俺に気づいたのか、威嚇するように口を開けると、赤い舌と鋭い牙をちらつかせた。俺は一旦近づくのを止め、距離を保った。大蛇はその間も、自由の利く胴体から尾尻を器用に動かし、彼女を川の底深くへ連れ去ろうとしている。
彼女は気を失っているのかぐったりとしており、迷っている時間はなかった。素早く靴を脱いだ俺は、それをグローブのように手に嵌めると一気に間合いを詰めた。
大蛇は首を窄めるとスプリングのように力を溜め、いつでも飛びかかれるように準備している。その視線は常に俺をロックオンしており、噴気音を出しているのか鼻のあたりからは勢いよく水流が生まれている。
競泳選手ではない俺の息は、そう長く続かない。チャンスは一度きりだ。
水泳の授業をまじめに受けておけば、こういう時に何か役に立つ知識が得られたのだろうか。いやいや、誰が水中で巨大な蛇と闘うことを想定するんだ。
意を決して再接近を試みた俺は、靴を嵌めた左手を盾のように前に出し、弾丸のように打ち出される大蛇の頭部を迎え撃つ。
靴に牙が食い込む瞬間、素早く手を引き抜いた俺は、持っていた靴紐で噛みついた口を縛り上げた。そのままフィンガーリングで両目を抉ると、激痛に悶える大蛇は血の涙を流して暴れ出す。
彼女の拘束が解けた隙を逃さず、俺は漂っている着物の一部を腕に巻きつけると、力の限り引き寄せた。手元まで来た華奢な体を抱きかかえ、水面へ一気に浮上する。
「ぶぁっはぁぁあ!!!」
大きく口を開けて呼吸し、息を整える。すぐに彼女の意識を確かめると、生気を失った顔は陶器のように白く、真っ青な唇が横一線に結ばれていた。呼吸をしていないのは明らかで、すぐに心肺蘇生が必要だ。
「聞こえますか?! 気を確かに……!」
声をかけながら近い川岸の方へ泳いで向かい、ようやく川底に足が着いた時、ぐっと左足が重くなった。その瞬間、勢いよく引っ張られた俺は水中へと引き戻されていく。振り返って見ると大蛇が足に巻き付いていた。
「クッソ、しつこいなぁ!!」
爬虫類よりも視力の弱い蛇には、それを補うようにピット器官と呼ばれる赤外線を感知する器官が上唇の近くにある。その熱感知能力によって、視力を失っていても俺の居場所を察知したのだろう。流石は執念深いと言われる生物だ。
ギリギリと俺の身体を締め付けながら、大蛇は川の深くへと潜っていく。フィンガーリングの爪を立てるが、堅い鱗にいくつか傷が入る程度でダメージは殆どない。
いよいよ水面が遠くなり、息が苦しくなってくる。このままじゃ死ぬ。堪えられず吹き出した呼気が浮かび上がる瞬間、突如、無数の気泡と共に一匹の白毛の牛が水中に現れた。
泳ぐというよりも華麗に水流に乗っている白牛は、俺を縛りつけている大蛇に突撃を食らわせる。勢いの乗った一撃により、鋭い角は硬い鱗を突き破り、その下の筋肉へと食い込んでいく。
「ブハッァアア! ハァ、ハァ……」
大蛇と白牛が争っている隙に、浮上する気泡を追いかけて水面に顔を出した俺は、せき込むように激しく息をした。
立ち泳ぎをしながら周りを見ると、少し離れた所に彼女が仰向けで浮いている。メイド服のヒラヒラが岩肌に引っかかっているようで、そう遠くまで流されていなかった。俺は最後の力を振り絞り、彼女を抱えて川岸へと向かった。
何とか川から引き上げ、すぐに状態を確認する。意識はない、呼吸も止まっている。俺は直ぐに心肺蘇生を始めた。もしもしかめよのリズムで心臓マッサージを行う。
「ッ!? ゴホッ、ゴホッ!!」
暫して意識を取り戻した彼女は、水を吐いて咳き込んだ。良かったと安堵したことで緊張が途切れたのか、ちょうど限界が来た俺は、そのまま河原に倒れ込んだ。
……
パチパチと火の爆ぜる音に、誰かの鼻歌が聞こえる。意識を取り戻した俺が目を開けると、うっすらと赤く染まる空が見えた。もう夜が空けようとしているのだろう。起き上がろうとしたが、身体が重くて言うことを聞かない。すると直ぐ隣から声が聞こえた。
「あっ、良かった! 目が覚めましたか?」
「君は……」
「アナタが助けてくれたんですよね?」
「まぁ、そうではあるけど」
風邪を引いたように、酷く体が熱っぽい。彼女もその事に気づいたのか、薄い手のひらを俺のおでこに当てると熱を計った。ひんやりとした感触が何とも心地よく、ぼーっとしてしまう。メイドのいる生活って最高だなと、身体が熱くなる。
「大変、凄い熱! もしかして蛇の毒に……」
「……え?」
俺はその言葉に、痺れるような痛みを訴える左腕を持ち上げた。囮にした靴を噛まれる瞬間に手を引き抜いたつもりだったが、どうやら失敗していたようだ。
手の甲に噛み傷が残っており、患部は痛々しく紫色に腫れ上がっている。よく見ると身体全体が変色しているようで、毒が全身に回っているのではないだろうか。
「えっ。これ、やばくない……?」
「直ぐに助けを呼んできますから!」
助けを呼びに行こうにも、こんな森の中に意識がない人間を独りしていくことはできなかったのだろう。かといって一人では俺を担いで運ぶことも難しい。だからひとまず、俺が目覚めるまで傍に居てくれたらしい。
「そのまま動かないでくださいね!」
「わかった」
まあ、動きたくても動けないんだけど。俺がはっきりと意識を取り戻したことを確認した彼女は、風のように駆けていった。
どうやら川岸から少し離れた場所に横たわっているようで、足下から清流のせせらぎが聞こえる。ちょうど木の陰になっており、枝葉の隙間から鳥類が飛んでいるのが見えた。ここが異世界ではなく、蛇毒でダウンしてさえいなければ穏やかな時間が流れている。
毒にやられているのなら、無理に動かない方が良いだろう。しかし、目を覚ましたことで血液がより活発に流れ始めたのか、次第に視界がぐわんぐわんと回り始めた。焚火に当たっているが、悪寒と全身の震えがどんどん酷くなってくる。
あれ、これはいよいよやばいか?
このままお迎えが来て、三途の川を渡ることになるのでは……?
目を閉じて吐き気を堪えていると、朦朧とし始めた意識が砂利を踏みしめる足音を捉えた。彼女が戻って来たのだろうか。それを確かめる元気もなかれば、呼びかけに応えるのも億劫だ。遠退いて行く意識の中で微かに会話が聞こえる。
「こりゃ酷い、全身真っ赤じゃ」
えっ、全身が赤いの? そんなことある?
「蛇血清が間に合えばよいが……」と咬傷のある腕に何かを刺されるような感覚があった。
「にしても貧相な身体じゃな」
それは今どうでも良いでしょ。
「あとはこの方の体力次第か。一緒に解毒剤も飲ませておこう」
反応が鈍い俺の頭を、誰かがそっと抱き上げるのがわかった。口元に竹のように筒を傾けられ、飲むように言われる。流れ込んでくる液体を何とか口にするが、その余りの苦さに俺はとうとう気を失った。