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第10話:この世界のこと、自分のこと


「それは?」

「専用の洗浄液です」

「何だ、ちゃんとあるんじゃん」

「いやそれが……」


 千鶴から小瓶を受け取った俺は、早速液体を両手に取って泡立ててみる。少量ではなかなか泡が育たないので、結局全て使い切ることになった。


「あの、痒みとか、大丈夫ですか?」

「うん、平気。結構いい匂いだね」


 パチパチと泡が弾けると甘い香りが広がる。肌触りのよいしっとりとした濃密クリームで両手を包むように泡立てていくと、色素が溶けているのか、白かった泡は徐々にピンクへと染まっていく。これは期待できそうだ。


「そろそろお湯で流しましょうか」

「さあ、どうかな……?」


 モコモコの泡を流しきると、そこには元の色合いに戻った両手がある。保湿効果も高いようで、しっとりスベスベ肌に生まれ変わっていた。


「凄い、落ちてる!」

「わあっ、良かったです」


 洗浄液の経年劣化によって効果は少し弱まっていたようだが、赤い染色は十分綺麗に取れていた。


「アレルギー反応もなさそうですね」

「うん。それじゃあ、早速全身を洗いたいんだけど」

「それが……」

「ん?」

「今のが全部です」

「……は?」

「家に残っていたのはさっきの小瓶の分しかなくて、だから今のでなくなりました」

「ええええ?!」


 俺は思わず、洗面台を流れていく泡に手を伸ばした。しかし、時すでに遅し。育て上げた濃密泡の殆どは排水溝に吸い込まれた後だった。


「もっと早く言ってよ!」

「だって鳴瀬さん、直ぐに使っちゃったから」

「じゃあ、どうすればいいの? どこか店に売ってるの?」

「それが非売品でして」

「非売品……!」

「でも大丈夫です! レシピは家にあるので、自分たちで作ることが出来ます」


 と言うことで、千鶴は家の奥にある書庫に俺を案内した。中庭を望む縁側を通り、一度草履に履き替えて向かった離れは、一棟を丸ごと倉庫として使っているそうだ。一階には様々な薬品や素材、道具が所狭しと置かれており、どこか研究室のような雰囲気がある。その二階が書庫になっていて、階段を上がると少し埃っぽい独特の匂いが充満していた。


「散らかってて、すみません」

「なんだここ……」


 書庫と言っていたので小さな部屋を想像していたのだが、整列した無数の本棚には隙間なく書籍や書類が並んでいた。図書室と言っても過言ない広さで、蔵書の数も種類も圧巻だ。


「これまで作成してきた服のデザインをまとめたファイルとか、衣類に関する書籍とか、この呉服屋の歴史が集まった場所です」

「こんな大事な場所に、部外者の俺を招き入れてもいいの?」

「多分、平気だと思います」


 後でお爺さんたちに怒られないか心配だ。極力置いている物に触れないように気をつけながら、恐る恐る本棚を眺めている間に、千鶴は更に奥の部屋へと向かった。


「昔、お爺ちゃんも同じ目に遭ったらしくって」

「あはは、そうなんだ」

「お婆ちゃんはちょっとの辛抱だから別にいいじゃないって笑ってたらしいんですけど」


 サンプルとして残っていたのは、俺と同じ唐辛子色に染まった若かりし頃のお爺さんが自力で編み出した薬品の余りで、その時に作成した専用洗剤の調合レシピが紙にまとめられているらしい。


 引き出しを漁ったり、棚を動かしたりしているようで、時々書類が崩れる音に紛れて「あっ、やば」と千鶴の声が聞こえてくる。


「大丈夫?」

「大丈夫ですよー!」


 しばらくして埃と共に戻ってきた千鶴は、丸められた古い用紙を手にしている。書庫の中央に置かれた長机の上に広げてみると、確かに材料や配合レシピが書かれているようだったが、素人目には何が何やらさっぱりだ。


「んー、大体の材料は家にありますけど、在庫がない物も幾つかありますね」

「どこかに売ってたりはしないの?」

「街に行けばあるかもしれませんけど、足りないのは結構珍しい物ばかりですからね。値段もしそうだし、お金ってあります?」

「えっ、お金?!」

 

 この世界にもお金という概念はあるらしい。しかしながら、俺の財布は友人に預けた鞄の中だ。そもそも、日本円がこの世界でも通用するかも怪しい。何か金になりそうな物と言えば、祖父から貰った腕時計ぐらいだが……。


「ないなら身体で払ってもらうしか」

「いやぁ、それは……」と俺は胸の前で両腕をクロスする。

「あははは、冗談ですよ。鳴瀬さんにお金を無心するなんてしません。でも、材料が集まらないと洗浄液は作れないし。自分で探しに行った方が早いかもしれませんね」

「自分で探すの?」


 この世にまだ無いモノを生み出すデザイナーという仕事をしていると、まず必要な材料が無いのは当たり前で、自分で探したり集めたりするのが普通みたいだ。


 ネットショッピングなら365日24時間、実店舗に行かなくてもボタン一つで購入できるし、その後は商品を自宅まで届けてくれる。スマホ一台で何でも買える生活に慣れていると、無いモノを自分で作ったり取りに行ったりという発想は中々出てこない。


「森の少し奥まで行けば、全部揃うと思います。かなり歩き回りますけどね」

「わかった……」


 俺が騒ぎ始めたことで話が進んでしまった手前、そこまでしなくてもいいとは今更言いづらい状況だ。それに千鶴一人に任せてしまうのも心苦しいので、「俺も一緒に行かせてくれ」と言わざるを得ない。


「でも、鳴瀬さんはまだ安静に」

「体調は殆ど大丈夫なんだ、後は筋肉痛ぐらいだよ」

「わかりました。でも無理はしないでくださいね」

「うん」


 明日からはしばらく天気が崩れるらしく、出発は早くても五日後になるとのことだった。千鶴が登山の準備を進める間、俺は体調の回復に専念すれば問題ないだろう。


 予報通りに、その日の夜中から雨が降り始めた。翌日も三人が朝から忙しそうに働いているのを余所に、俺は軒先をたたく柔らかい雨音を聞きながら、看病と言う名の堕落した生活を過ごした。至れり尽くせりの毎日で、まさに実家のような快適さ。端から見れば、老夫婦に寄生して寝ては食べてを繰り返す、ごく潰しのようだろう。


 そうして数日が過ぎ、普通に起き上がれるようになると、流石に申し訳なさが強まってくる。千鶴は登山に行っている間の仕事を前もって処理しているようで、一日中忙しそうに動き回っていた。


「何か手伝えることないかな?」

「そうですねぇ」


 呉服屋の商品や商売に詳しい訳ではないが、荷物を運んだりはできるはずだ。


「お店の方は私たちで回せていますし、登山の準備も大体終わってますからねぇ。うーん……」

「それじゃあ、何かまとめるとか、整理するとか」

「在庫整理もいきなりは難しいでしょうし」

「そう、だよね」

「何か手伝えることかぁ。うーん……」


 と眉間に皺を寄せる千鶴。かえって悩み事を増やしてしまったようだ。これは大人しく籠もっていた方がいいなと部屋に戻ろうとした時、「あっ、そうだ」と千鶴が手を叩く。


 俺を連れて再び書庫に向かった千鶴は、まだファイリングできていないスケッチや床に積まれた書籍たちを指さした。多分、調合レシピを探した時に崩してしまったものだ。


「書庫の片付けを手伝ってくれませんか」

「でもこれ、勝手にまとめていいの?」

「全然良いですよ、何十年もそのままだったわけなんで。むしろざっくりとでも分かれていた方が、本当に探す時に手間が省けますんで」


 乱雑に積まれた書物を分類し、関連する場所にしまっていく簡単なお仕事。これなら俺でもできそうだ。


「それならいいんだけど」

「お洋服については、そんなに詳しくないですよね……?」


 と千鶴は遠慮がちに聞いてくる。もちろんその通りなのだが、やっぱりそういうオーラが出ているのだろうか。千鶴にはボロボロの制服姿か、ここで借りた部屋着姿しか見せていないのだが、センスの無さというものは何を着ていても伝わってしまうのか。それともデザイナーの直観か。


「まずは和洋中とか、何となくの大きなジャンルで分けてください。あと、用紙の右上にデザインした日付が記されているはずなので、古い順に並べていただければ」

「おっけい……」

「書籍の方は、似たような分類で固まっている所に突っ込んでもらえれば助かります!」

「わかった」


 作業の説明を手早く終えると、千鶴はすぐに去っていく。扉が閉められたら後、バンダナをマスク代わりに装着した俺は、棚で埃をかぶっていた羽毛の埃取りを手に、早速書庫の整理を始めた。


「この店、一体いつから経営してんだ?」


 ロール状に丸められ、籠に詰め込まれた用紙を開くと色鮮やかなデザインが描かれている。和風や洋風、中華風などジャンルや系統に縛られることはなく、顧客の注文やその時代に合わせて作られてきたことが一目でわかる。着物であったり軍服であったり、時には十二単まであったりして、創業何百年とかいうレベルじゃない。


「そりゃ図書室みたいになるわな」


 雨が降っていなければ本の虫干しもしたいところだが、外は生憎の雨模様だし、千冊は優にありそうな蔵書を全て動かすのは骨が折れるだろう。今回は未整理な物だけに手を付けると決めて、俺は働き始めた。


「これは……?」


 作業の片手間に、気になる本をパラパラと眺めてみる。巻物のような古い書物はいわゆる古文と呼ばれる流麗な草書体で記されており、まさに異世界の言葉で書かれているように見えた。


 しかし、年代が進むにつれて、その多くは俺が良く知る日本語で書かれるようになっていた。異世界生活で困らないように、話したり読んだりはできるように神様が調整してくれとか? 


「いや、やっぱりこの世界は、俺のいた世界とどこかで分岐した並行世界という可能性が一番高いか?」


 この家にある書籍の多くは、服飾や植物に関するものだ。でもどこか別の場所には、それこそ街の図書館や学校には異世界転移に関連する情報が記載された書物があるかもしれない。これは大きな収穫だ。この世界の歴史に関係しそうな本をピックアップしながら、書庫の整理を淡々と進めていくことにした。


 それから出発の日まで、俺はひたすら書庫の整理を行った。床に置かれていた書籍は本棚に並べ、束になっていたデザイン画はジャンル別にファイリングし直した。休憩時間には図鑑を読んでこの世界の生態系について勉強をする。これから森に入るので、万が一に備えて食べられる動植物の知識をメインに蓄えていく。


 ざっと図鑑を眺めて分かったことは、やはり俺がいた世界と非常に似ている点が多いと言うことだ。動植物の名前や気候、日や月が動く間隔や文化など、ベースとしている世界観が共通しているようで違和感がないことが逆に変に思える。


 雑多だった書庫は最低限の体裁を取り戻し、落ちついて調べ物をしたり、考えて事をしたりするのに最適な場所になった。寝室として与えられた部屋の次に入り浸っている場所なので、自分が過ごしやすいようにも整えたくなる。次は書籍を著者名順に並び替えたり、本棚のレイアウトを変更したりと、手を入れたい場所はまだまだあるが、ひとまず与えられたらミッションは達成できた。


「調子はどうですか?」

「まあ、ぼちぼち……」


 出発を翌日に控えた夕方、書物を眺めていると千鶴が書庫にやってきた。


「鳴瀬さんにお客様ですよ」

「俺に客?」


 この世界の知り合いは、ノバラ姉ちゃんかハヤサぐらいだ。ここは有名な呉服店だから、SM関連の服も取り扱っていて、俺の話が出たとか? 立ち上がって見ると、千鶴の後ろから大きな影が部屋に入ってくる。


「よう、元気になったようだな」

「あなたは……!」


 その声は、大蛇に噛まれて瀕死の状態になった俺をこの家まで運んでくれた大男のものだった。身長は二メートル近くあるだろうか。大きく実った胸筋でスーツはパツパツになっており、その存在感を隠しきれていない。あの日は目が回っていたので姿は殆ど見えなかったのだがが、これだけ体格が良ければ、二人を抱えて山を走れるよなと納得できる。


「助けていただき、ありがとうございました」

「いやいや気にするな。当たり前の事をしたまでだ」

「鳴瀬さんがまだ目を覚まさない時も、先生はお見えになられていたんですよ」

「そうだったんですか」


 千鶴が先生と呼ぶことは、裁縫でも教えているのだろうか。明らかに肉体派の見た目からは想像できないが、人は見かけに依らないと言うし、意外と手先の細かな作業が得意なのかもしれない。大男が編み物なんかをしている姿は中々のギャップだ。ラグビー選手のような肉体で威圧感はあるが、円らな瞳で愛嬌があった。

 

「千鶴から話は聞いている。記憶を失っているとか」

「そう、ですね……」


 お世話になっている呉服屋の三人にも、異世界転移してきたことは詳しく話をしていない。体調が良くなってから、あの森で何があったのか尋ねられたが、どこまで正直に話すか言葉に詰まった。


 どう答えるべきか返事に迷っていると、その沈黙を蛇毒の影響で記憶障害になったと解釈したようだった。こちらとしても都合の良い勘違いなので、記憶がないということでやり過ごしている。


「それで、どこまで覚えているんだ?」

「どこまで……」

「自分が学生だということは?」

「まあ、それは」


 確かに元の世界では高校生だったわけで、嘘はついていない。問題はどこの学生かと言うことだ。


「学校で学んでいたことは?」

「学んでいたこと?」 


 高校一年生という身分なので、一応は国数英理社と受験勉強に励んでいたが、果たして学んでいたという表現は正しいのだろうか。これまた返事に困っていると、先生と呼ばれる男も俺の沈黙を好意的に解釈してくれた。


「そうか。無理に思い出そうとしなくいい、顔色もまだ悪そうだしな」

「あっ、いや、これは」

「体調が良くなるまでは呉服屋でお世話してもらえる事になったから、今はゆっくり休め」

「あぁ、はぁ」


 何か、俺の知らない所で話が進んでいそうな雰囲気だ。確かに、怪我が治った後のことも考えておくべきかもしれない。このままでは身元不明人として、警察のような組織にでも連れて行かれるのだろうか。それはそれで面倒だし、頃合いを見て逃げることも選択肢の一つとして持っておく必要がありそうだ。


 この世界に住むすべての人々が、呉服屋の三人のように良い人とは限らないだろうし、初日に襲われた白陣兵のこともある。どうにかしてノバラ姉ちゃんと連絡を取れないものだろうか。一度、街に下りてみる方が良さそうだが、まずはこの染色問題を解決しないと自由に動けない。こんな状態で街に行ったら怪物が出たと騒ぎになるかもしれないからな。



 


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