第21話:我が儘姫
「神谷さん、大丈夫ですか!」
耳元で名前を呼ばれ、霞がかった意識が目を覚ます。頬をくすぐる芝の感触、澄んだ空気と心地良い香り。重い瞼を開けると、月の光に照らされる千鶴が視界に入った。
「……生きてる?」
「生きてますよ」
「よかった、脱出できたのか」
「いや……」
千鶴の隣で険しい表情をしているマユリは、力を使い切ったのか幾分老いぼれている。
「どうした?」
「動かないで……!」
不穏な気配を伝えるように、樹間を渡る涼風がさわさわと木の葉を揺らし、上空を流れる雲が月を隠した。しっとりと過ぎていく静かな時間に妙な胸騒ぎを感じた瞬間、急に空気が凛と張りつめ、どこからともなく淡く靄を広がっていく。
たちまち視界は悪くなり、生物たちが一斉に息を潜めたのがわかる。俺たちも固まって周囲を警戒した。
「何か、くる?」
「最悪なタイミングだ……」
マユリは何か知っているらしい。しばらくすると、カラカラと音が聞こえ始めた。その乾いた音は木琴を鳴らしたように透き通っていて、心の奥から不安を煽る響き方をしている。四方八方から無数に響く乾いた音は幾重に重なり、ぐわぐわと頭を揺らす。
「何の音?」
「間違いない、木霊だ……」
「コダマ?」
「そう、木霊。魂の導き手とも言われる」
木霊、魂の導き手。その名前の響きに某ジブリの作品に出てくる、あの小さな白い生き物が頭の中に思い浮かぶ。中々愛嬌のある見た目をしていたが、実際に目の前に現れるとなると、少し怖いかもしれない。
「こいつらにはタチの悪い話もあってね。木霊の声を聞いた者は、つまり、その呼び声に応えた者は連れ去られてしまうと」
「所謂、神隠し?」
「僕と似たような存在ではあるが……」
「同業者のよしみで何とかならないの?」
「それは難しい相談だろうね」
「これは……?!」
目の前に現れたのは、正しくあのコダマに似た白い生き物だった。いや、生物と呼んでいいのかはわからない。巨大なてるてる坊主のような姿で、大きな者では三メートル近い高さだ。
小さな者でも1メートルはあり、のっぺりとした白いお面を被っていて表情はわからない。少し腰を屈めて歩く半透明な姿は、白衣装の亡霊を思わせる。
「ひぃぃ」
「お二人とも、動かない方が良いですよ」
何処からともなく次々と現れてくる木霊は、何かに誘われているようにふらふらと近づいてきた。やはり実体がないのか、木々を通り抜けて移動していく。
その殆どは俺たちの存在に気を留めることなく過ぎ去っていくが、何体かは周囲で立ち止まり、じっとこちらを見ていた。目を合わさないように視線を下ろすと、足元には小さな木霊がいて、思わず逃げ出しそうになる。何かをぶつぶつと唱えているのが更に恐怖を煽った。
魂の導き手とも言われる木霊。彼らが現れたということは、近くで息絶えたモノがいるということだろうか。兎に角じっと立ち竦み、きつく瞼を閉じてこの場をやり過ごす。
マユリが言うには、彼らが呼びかける声に答えなければいいそうだ。両手で耳を塞ぎ、出来る限り外界を遮断する。早く居なくなることを願うばかりだった。
どのくらい経っただろうか。ゆっくりと瞼を開けると、木霊が現れる前の生き生きとした森が目の前に広がっていた。安堵で深いため息が出る。
「神谷さん……」
聞き慣れた声がして振り返ると、俺と同じぐらいの大きさをした木霊が背後に立っていた。
「あっ……」
向かい合った途端、のっぺりとしていたお面に漆黒の穴が二つ開き、その奥からこちらを覗く強い視線を感じた。
蛇に睨まれた蛙とはこの事を言うんだろか。身体の支配権は目の前に立つ異類の存在に奪われてしまい、俺はじっと目を見開いていることしかできなかった。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。
どちらがどちらを覗いているのか、たちまちわからなくなった。何かに取りつかれた様に、瞬きも忘れて暗く深い両穴を見つめる。仮面との距離が二十センチほどに迫った時、まるでフラッシュバックするかのように、頭の中に断片的な映像が幾つも流れ込んできた。
どこかに旅立とうとしている少年の後ろ姿。泣き崩れいる男女。甲高い悲鳴と血塗れで力つきる姿。これはコイツ自身の記憶なのだろうか。それとも、この木霊に導かれた魂たちのモノか。
頭の中を覗いているのか覗かれているのか、魂を吸い取られるような感覚に襲われていると、様々な記憶が走馬灯のように流れ出していく。嬉しかったこと、悔しかったこと、悲しかったこと、楽しかったこと、苦しかったこと、様々な感情と共に、忘れていたこと、忘れようとしていたことがはっきりと蘇ってきた。
無意識に涙が溢れ、これ以上はヤバいと直感が告げている。しかし、抗うことはできなかった。視界の端には、同じように記憶を攫われている二人の姿が映っている。次第に意識が薄くなり、いよいよ思考も失いかけた時、辺りを眩い光が包み込んだ。
その暖かな暖色の光を受けると、木霊たちはたちまち水に溶かした綿飴のように消えていく。やがて収縮した光の先には、小さな竹筒が転がっていた。
「……助かった、のか?」
「今のは危なかった……」
力を使ったばかりで弱っていたマユリも、かなりの影響を受けたようだ。疲労困憊といった表情で杖を支えにふらふらと立っている。近くで座り込んでいる千鶴は顔面蒼白で、精神的にダメージを受けたことは明らかだった。
「千鶴、大丈夫か?」
「ちょっと疲れました……」
「少し休もう」
木霊たちはあんな風に人間から魂を奪っているのだろうか。二度と経験したくない悍ましい体験だった。てっきり死んだ生物の魂を案内する存在だと思っていたのだが、自ら狩りに来るなんて死神みたいじゃないか。
「これに助けられたのか?」
「そうみたいですね。でも、一体何が起こったのか」
辺りの安全を確認した後、俺は弱弱しく光を放っている竹製のランタンに近づいた。
「ずっと気にはなってたんだけど、それは?」
「これは……」
マユリは千鶴が抱えるように持っているかぐや姫の竹筒を指差した。竹からこぼれる光は柔らかく、癒し効果もあるのか、千鶴の表情に徐々に血の気が戻っていく。
「かぐや姫です」
「……んっ?!」
「どうかしました?」
「いや、かぐや姫ってあの?」
「はい、そうです」
ランタンを受け取ったマユリは、困惑しながらも竹筒を観察し始めた。自然の中で生きるもの同士、通じ合うところがあるのか、モールス信号のように光が点滅している。やがマユリは恐る恐る耳を近づけると、何やらふむふむと頷き難しい表情で俺たちを見た。
「どうかしたのか?」
「そろそろ限界らしい」
「限界?」
かぐや姫のランタンも、流石に永久機関と言うわけにはいかなかったようだ。地面と切り離されてからは貯えていた力を消費していたが、いよいよ枯渇しそうだという。あの起死回生の照射で力を使い切ってもおかしくない。
「ここのままだと、どうなるの?」
「そのまま中で死んでしまうんじゃ」
「それはちょっと……、ねぇ」
いくら妖精的な存在だとしても、閉じ込めたまま死なれては寝覚めが悪い。ゆっくりとした光の明滅は、中にいるかぐや姫の弱々しい鼓動のようだった。
「開けましょう」
「それが良いと思うけど、ちょっと慎重に……」
「大丈夫ですよ」
マユリの心配をよそに、鉈を手にした千鶴は慣れた手つきで竹の節をスパンと切り落として見せた。その瞬間、眩むほどの閃光が辺りを包み込んだかと思うと、小さな何かが俺に向かって勢い良く飛び出してくる。
「ぐはっ!」
「神谷さんっ?!」
「あー、やっぱり……」
近距離で真っ直ぐ向かってきた光源を避ける余裕はなく、その突撃を顔面で受けた俺は、頭を撃ち抜かれた兵士のように地面に倒れた。
「いだだだだだだっ!!!」
「神谷さん、大丈夫ですか?!」
映画エイリアンに出てくるフェイスハガーのようにがっしりと顔面に張り付いている小さい何かは、大声で喚きながら俺の瞼や唇を引っ張り始めた。
「この無礼者っ!!」
「いだだだだだだだっ!!」
「あああ、神谷さん!」
「だから慎重にと……」
と言いながら、マユリは俺の顔面で暴れている何者かをつまみ上げた。ジンジンと痛む顔に手を当てながら見ると、着物に身を包んだ小さな女の子がバタバタと手足を動かしている。
「このぉぉぉ、離さんかぁあああ!!」
「もしかして、こいつが?」
「そう、かぐや姫」
話に聞いていた以上にお転婆娘なかぐや姫は、つまみ上げているマユリの指に噛みつくような勢いだ。弱っているという話は、一体何だったのだろう。
「めっちゃ元気じゃん」
「騙されましたね」
「無礼者ぉぉお!!」
「どうしましょうか?」
「離さんかぁぁぁあああ!」
「かぐや様、少し落ち着きましょうか」
これでは会話にならない。マユリがひとまず地面に降ろそうとすると、手のひらサイズの我が儘娘は、着物が汚れるから畳を用意しろと注文した。
「そんな物がここにあると思うか?」
「ならばお主が支えよ」
「わ、わたし?」
指名された千鶴が水を掬うように両手を合わせると、かぐや姫はその上に行儀よく座った。その姿は雛人形のように美しいが、落ちついたのは動きだけで、口の勢いは収まることはない。これまでの不当な扱い(ランタン扱い)に対して、啖呵を切ったように文句を言い始めた。
千鶴は掌で暴れる小さな姫君を観察しながら、「ね、面倒でしょ」と言わんばかりの表情でうんざりしている。