佐竹崩れ
一部修正しました。
下野国 祇園城 小山晴長
佐竹義篤が死んだ。
まさかの事態に思わず絶句する。それは家臣らも同様だ。
たしかに今回の部垂攻めは佐竹からしたら大規模なもので、義篤が出陣していることは把握していた。だが、まさか戦に敗れるどころか、総大将が討死するとは。
誤報を疑い、確認をおこなったところ、間違いなく義篤は討死していた。首も部垂義元のもとへ届けられたらしい。
「これはまた、驚いたな」
「ですが、これで北常陸の均衡は崩れましたな」
それが良い方に転がればいいが。
茂木からの伝令によれば、佐竹勢は序盤こそ義元が籠る部垂城攻めを優勢に進めていたが、小山からの援軍が後詰として到着したことで動揺し浮き足立ってしまったらしい。好機と見た義元は一気に城外へ突撃。混戦の最中、義篤は矢に射抜かれて落馬したところを討ち取られたという。
総大将を討たれた佐竹勢は敗走。佐竹の殿を務めた大山因幡守と石塚大膳亮も討死した。義元は深追いせずに一度城に戻ると、四半刻後には自軍のみで太田城へ出陣していった。益子と茂木は部垂城の守備を任されたらしい。
表向きは益子と茂木の兵糧を考慮してのことだが、これ以上小山へ借りを作りたくないという意思もあるのだろう。さすがに太田城攻めまで小山の力を借りたとなれば今後の統治で小山の影響を無視できなくなるからだ。
手勢約三五〇で太田城まで攻め寄せた義元だったが、すでに太田城はもぬけの殻。太田城にいた義篤の嫡男徳寿丸や佐竹残党は金砂山城に退避したようだ。
金砂山城は義篤の父義舜が窮地の際に逃げ込んだ城で極めて堅牢な山城だ。攻略は容易ではないだろう。
難なく太田城に入った義元は名を佐竹義元に戻して自らを佐竹の当主だと周囲に喧伝。佐竹方の国人に恭順を求めた。
これにより佐竹方の宿老だった山尾小野崎家当主小野崎出羽守成通がいち早く帰順。それに倣って義元に従う者もいれば、大山孫次郎義在や石塚式部大夫義衡のように依然佐竹方として徳寿丸を支持する者もいた。
義元はそのまま太田城に居座り、部垂城には義父の義久を、義久がいた宇留野城には一族の源五郎を入れた。
益子と茂木の帰還後、俺は義元に太田城入城の祝いとして品物を贈ると同時に常陸野田の早い割譲を促した。
だが使者を務めた妹尾平三郎改め甲斐守によれば、義元は今更惜しんだのか、常陸野田を渡すことにやや渋った様子だったという。甲斐守が強めに促すと義元は渋々ながらも割譲に応じて書面も用意した。
これで常陸野田は小山家の物になったが、義元の態度はいただけない。兄を死に追いやり、太田城を手にしたことで変な欲が生まれたかもしれない。
「はっきり言って今の部垂、ああ佐竹四郎は信用できんな。戦前の約束すら危ういなら今後は関係を見直せざるを得ない。もし小山と部垂が同格だったなら常陸野田を反故にされていたかもしれん」
「御屋形様、向こうの気が変わる前に野田の開発を進めるべきでしょう」
谷田貝民部の声に皆が頷く。誰もが義元のことを信用しなくなったのだ。未遂に終わったとはいえ、小山をただ働きにしようとしたことが皆の虎の尾を踏んだのだ。
とはいえ、一応約束どおり常陸野田の割譲はおこなわれたので何か報復しようという気はない。ただ小山家からの信用が失われただけ。すでに皆の目線は常陸野田に向けられていた。
常陸野田は三王山の山麓にある集落で付近には那珂川と八反田川が流れている。那珂川を上れば烏山に、南に渡れば茂木に至る。南下野と常陸を結ぶ要衝だ。
集落から三王山に向かう途中に野田城という城があるようだが、話によると簡易的な造りでしかないという。今後のことを視野に入れると、新たに城を築き直すのもひとつの手かもしれないが、常陸野田の平地に限りがあることを考えれば既存の城を拡張すべきか。
それに那珂川が流れているということは舟運を活用することができるということだ。城の拡張に、河岸の整備、検地などやるべきことは山積みだ。
あとは送り込む人材をどうするかだが、開発が中心になると想定されるので谷田貝民部を城代に、与力として真田源太左衛門幸綱を抜擢することにした。
民部は開発での実績を買って、幸綱は軍事面の補佐として。民部が祇園城から離れるのは少し痛いが、常陸野田を発展させるにはうってつけだった。
今回の派遣を民部に伝えると民部は感激のあまり涙をこぼす。城代とはいえ、代々下級家臣だった谷田貝家から城を任される人間が出てくるとは夢にも思わなかったらしい。
「お任せくだされ。この民部、必ずや野田を立派な小山領として発展させて見せましょうぞ!」
そのひと月後、義元は徳寿丸討伐を掲げて金砂山城へ進軍を始めた。
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