海野平の因果
下野国 祇園城 小山晴長
一五四一年六月、甲斐国守護武田信虎が突如追放された。
下手人は信虎の嫡男晴信と武田の重臣たちである。
数日前まで信虎は信濃の海野平で海野棟綱ら滋野一族と戦っていた。滋野一族を信濃から追いやった後、駿河の今川義元を訪問しに行ったところ、そのまま国境を封鎖されたという。
追放の原因は定かでないが、信虎と嫡男晴信の不仲は周知の事実だった。また甲斐国は飢饉からの打撃から立ち直っておらず、そこに戦が続いたことで国内の不満も高かった。
とはいえ、信虎の戦は同盟相手や傘下の勢力の支援も含まれていたようなので、それを身内が責めるのはやや酷と言える。
だが晴信──後の信玄が台頭したということに危機感を覚える。彼は後世に伝えるほどの戦巧者だ。勘助がいないとはいえ、有能な家臣も数多く揃えている。今は甲斐との接点はないが、今後何かしらの関わりを持った際は慎重な判断が求められるだろう。
一方、信虎に敗れた海野棟綱らは上野国長野業正のもとへ逃れた。どうやら関東管領である上杉憲政へ支援を申し入れたようだが、反応は芳しくないらしい。
「ふむ、滋野一族は肩身が狭い思いをしているという。関東管領殿が彼らを疎むのならこちらが有効活用しても文句はあるまい」
「とおっしゃいますと、彼らを引き抜くおつもりですか?」
三郎太が不思議そうな表情を浮かべながら俺に確認するが、古参の家臣たちは興味深そうな声を上げていた。その反応に三郎太は疑問を呈する。
「なに、御屋形様がわざわざ他所から召し抱えたがっているということは、それほど素晴らしい人材ということなのだ」
「勘助殿や大俵殿も御屋形様が是非にと召し抱えたのです。彼らの活躍は言わずもがな。ゆえに我々も御屋形様の人材発掘を信頼しているのです」
古参の家臣たちが今までの人材登用の実績を評価していることについ笑みがこぼれる。
「当主の海野長門守は高齢で下野国までの移動は難しいだろう。狙いはその一族である真田源太左衛門だ。段蔵、頼むぞ」
「はっ、必ずや」
この源太左衛門は史実の真田幸隆である。あの真田幸村の祖父であり、彼自身も武田二十四将のひとりとして活躍した武将だ。もし彼を引き抜くことができれば小山家にとって大きな財産となるだろう。それにこの世界の武田晴信は勘助と幸隆のふたりを知らずに手放すことになる。
「問題は彼が旧領復帰を強く求めた場合だな。下野という関係上、もし仕官するなら旧領を諦めてもらうほかないからな」
「それは、なかなか難しいですな。そもそも旧領復帰のために上野に逃れたのですから、簡単に諦められるものではないでしょう」
その懸念は的中し、源太左衛門の引き抜きは不調に終わった。
源太左衛門は小山家の存在を認識しており、小山家の関心に謝意を示していたが、長野や山内上杉には匿ってもらった恩があることを理由に仕官の話は固辞されたという。また当主海野棟綱は上野到着後に病死したとのこと。
憲政が乗り気ではないとはいえ、向こうも向こうでなんとか支援をしてもらおうと動いているからな。ある程度苦戦するのは想定内と言えた。
だが、これで諦めるわけにはいかない。俺は今後も時折接触を重ね、交流と援助を深めるよう命じる。
そして七月上旬、憲政は源太左衛門の要請を受け、長野業正を総大将に任命して信濃国へ侵攻を開始する。
佐久郡に侵入した上杉軍は大井・平賀・内山・志賀ら国人衆を戦わずに降伏させる。そのまま行けば滋野一族の旧領である小県郡の奪還も目の前のはずだった。
だが上杉はなんと武田と共に滋野一族を攻めた諏訪頼重と和睦を結んだのだ。
頼重から領土の割譲を受けた上杉軍はそのまま一度も小県郡に入ることなく撤退してしまった。一兵たりとも失っていないにもかかわらず、目の前で旧領奪還を反故されたばかりか、自身の懇願を出汁に使われた源太左衛門の心境は計り知れない。
これは滋野一族に対する明確な裏切りだろう。憲政は源太左衛門の懇願を領土拡大のために利用したのだ。しかも彼らの旧領を奪還するつもりは毛頭なかった。
この光景を見た他の国人たちが何を思うか、憲政は理解していないだろう。
もし自分が源太左衛門と同じ立場なら山内上杉家は本当に頼れる存在なのか、源太左衛門のように利用されるだけではないかと。
ある意味、小山家にとっては好機ではあるが、ここを突くのはあまり得策ではないだろう。まずは源太左衛門の信頼を得るのが先決と言えた。
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