相州太守、動く
相模国 小田原城 北条氏康
簗田高助が謀反を起こして古河城を占拠した話は早い段階で北条家に伝わっていた。その要因のひとつに謀反のきっかけとなった簗田による関宿からの小山の商人追放が関係していた。
簗田が起こした商人の追放によって武蔵や相模といった北条領に小山の商品が入らなくなっていた。北条領には以前から小山産の焼酎や石鹸といった良質な商品が流通しており、それらがいきなり入らなくなったことで市場に混乱が生じてしまっていた。特に石鹸は衛生面で重宝していたので、それらが突然入手できなくなったのは北条家にとって困った問題でもあった。
小山と簗田の確執を把握した父上は遠くないうちに簗田が事を起こすと読んで以前から関宿周辺の監視を強化していた。北条と古河公方との縁談の際は古河内部に親北条派を増やす道具として存分に利用していた簗田だったが、縁談が成立したあとの奴は公方からの信用を失って利用価値が薄れてしまっていた。
それで手を緩めたのが良くなかったのだろう。こちらからの干渉が減った簗田はあろうことか北条の敵である山内上杉に急接近し、奴らに唆されたのか公方からの信頼が厚い小山との対立を深めていた。
簗田は幕臣の多くを味方につけて公方を孤立させたが、商人追放の件で小山の堪忍袋が切れて、小山に近い公方が簗田討伐を本格的に進めだしたことを知ると先手をとって謀反を起こしたという。だが古河城こそ落としたものの肝心の公方と簗田が後釜に据えようとしていた幸千代王に逃げられた。おそらく小山に逃れたのだろう。古河から近く、簗田に対抗できる勢力はあそこしかいないので理には適っている。
監視を強化したのと北条の忍である風間一族が優秀なこともあり、謀反が起きたその日の昼には小田原にも情報が伝わっていた。父上は重臣らを集めて評議を開く。病を患っている父上は寝巻姿のまま布団の上で座った状態で口を開く。数年前と比べて痩せた姿になっていた父上だがその身体から発する圧は健在だ。
「……古河に、兵を向かわせる」
わかっていたこととはいえ、父上の言葉に周辺がやや騒めく。河東を巡って争った駿河の今川とは甲斐の武田の仲介もあって一旦停戦しているものの、いつ戦が再開するか油断できない情勢だからだ。今川の軍師である太原雪斎ははっきり言って怪物としか形容できない。今川の繁栄のためならどんな悪辣な手段も選んでくる。それも最適解だから質が悪い。こちらが僅かな隙を見せれば間違いなくあの怪僧はそこを突いてきて北条領を奪ってくるだろう。父上はそれを理解しているので停戦後も河東の情勢は常に気にしていた。
河東に対応する兵を残しつつ古河にも兵を向けるのは今の北条にとって不可能ではないが割ける兵には限度があった。山内上杉らに備える兵も計算すれば実際に古河に送れる兵は五〇〇〇を下回るだろう。
「主力は武蔵衆に任せるつもりだ。総大将はそうだな、江戸城の常陸介が適任だろう」
常陸介。儂の従兄弟で父上の猶子でもある北条常陸介綱種のことか。武略に優れた彼なら大将に申し分ない。家臣らも常陸介の実力を知っているので異論はない様子。周囲が賛同したと見た父上は続ける。
「公方様に嫁いだ娘の保護。名目だが簗田が信用ならん状況では事実でもある」
「山内上杉も気になりますな。此度の謀反、簗田単体のものとは考えられません。背後に山内上杉がいると考えるのが妥当かと」
もはや北条家中では山内上杉が一枚噛んでいることが共通認識となっていた。山内上杉が余計な動きをする前に古河を安定させる必要がある。公方の行方ははっきりと判明していないが、おそらく小山のもとにいるだろう。もし公方が復権を試みるなら小山も動くはずだ。
「もし小山が公方様を擁して兵を挙げるなら北条は小山に味方するつもりだ」
父上の言葉にどよめきが生じる。小山とは商品の売買こそあるが、直接的な交流はなかった。しかし良質な小山の商品は北条に欠かせないもので、簗田が健在では小山の商品を仕入れることができないまま。今後のことを考えればここで小山とつながりを作るのは良い手だと思う。
また小山の支援を受けた公方が返り咲くならば簗田の血を引いた幸千代王の母の地位は下がるはず。彼女がどこまで関与していたかは知らないが、公方が入れ込んでいない限り、再び寵愛を受けることはなくなるだろう。代わりに公方の寵愛が姉上に移る可能性が高かった。公方は北条との縁談に乗り気ではなかったが、姉上との関係はむしろ良好だったという。もし簗田の娘が失脚すれば姉上が公方の一番の妾になるはずだ。
欲を言えば公方と一緒に逃げた幸千代王は残って簗田に利用されてほしかったが、それはもう過ぎたことだ。もしそうなっていれば幸千代王も簡単に排除できただろうに。惜しいことだ。
そして評議の結果、古河に向かうのは総大将北条常陸介綱種以下、河越城の北条左衛門大夫綱成・孫二郎綱房兄弟、岩付城の上杉修理大夫朝康、江戸城代のひとり遠山隼人佐綱景ら武蔵衆三〇〇〇に決定した。儂や相模や伊豆の重臣らは今川に備えるため小田原などで待機となる。父上が病を患っているため、戦に出られないからだ。
父上の顔色は優れず、言葉数も以前より減っている。父上の身の回りの世話をする者の話を聞けば、酷いときは一日中寝床から起き上がれないこともあったという。父上自身も体力の低下に悩んでいるそうで医者には以前のように戦に出るのは難しいと診断されていた。
儂以外の者も薄々察している。父上の命が長くないことを。もし父上が亡くなれば北条の家督は儂に移ることになる。
だが儂は祖父や父のように北条を、民を守ることができるのだろうか。自分にも他人にも厳しい父上から褒められた経験がほとんどない。昔に岩付城を落としたときは少しお褒めの言葉もあったが大体は己の未熟さを説かれていた気がする。
「……新九郎、お前は少し残れ。他の者は悪いが席を外してもらおう」
「はっ」
評議に参加した重臣たちは儂を残して皆部屋から出ていった。残っているのは父上と儂のみ。重苦しい空気の中、父上の方から口を開く。
「儂の跡を継ぐのが怖いか?」
「……怖い、です」
儂はしばらく沈黙した後、恐る恐る本音を打ち明ける。次期当主がそのような腑抜けたことを抜かすなと叱責されると思ったが、父上は僅かに笑みを浮かべていた。
「それでよい」
「えっ?」
「当主というものは大きく、そして重いものだ。守る者をすべて背負わねばならないからな。恐れを抱いて当然、いや恐れなければならないもの。もしお前が怖くないと抜かしていたらはっ倒していたところだ」
父上の目が笑っていなかった。答えを誤っていたらもしかしたら殺されていたかもしれない。
「だがな、新九郎よ。当主の重さを恐れても良いが、怯えてはならない。怯えたところで重さが変わることはないうえに怯えは臆病を生む。当主が臆病になれば家臣も不安を覚える。そうなれば家や家臣、民たちを守ることはできない」
父上の言葉が儂の胸の中にするりと入りこむ。怯え……たしかに儂は怯えていたのかもしれない。偉大なる祖父や父と自身を比較して本当に当主に相応しいのか、儂の代で北条が滅んでしまわないかという考えが心の隅に巣喰っていた。
だがそれが晴れた気がする。本当に北条のことを思うのであれば怯えてはいけない。
「顔つきが変わったな」
「父上のおかげです」
「此度の古河の件は常陸介らに任せたが、事態が一度収まったあとはお前の出番だ」
父上の言いたいことは理解できる。たとえ今回の謀反を鎮圧し、公方が返り咲いても古河公方は以前のようには戻れない。幕臣の多くは簗田に味方しており、彼らを許したところで信頼関係は瓦解している。古河の機能がどのくらいまで戻るか不透明だ。もし古河が不安定と化せば各地の国人らも独自の動きを見せてくるだろう。そして古河にはそれに対処できる力は残っていない。
それはつまり秩序の崩壊だ。安定していた房総半島を含め、坂東は一昔前のような戦だらけの時代に戻るだろう。
「公方様は歴代の古河公方の中でも優れたお方だ。だが一度隙を見せればこのように簡単に瓦解してしまう。まさに戦国の世よな」
嗤う。古河崩壊のきっかけを生んだ人間が。背筋が、凍った。
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