上野国平井城の動き
上野国 平井城 倉賀野三河守行政
関東管領である殿がおられる平井城に以前から調略を進めていた古河の重臣簗田中務大輔が謀反を起こし、古河城を占拠したことが伝わった。しかも公方様親子を取り逃がしてしまったという。
簗田がこちらに何の連絡もないまま兵を起こして行動してしまったことや公方様を逃がしたことに殿は大層お怒りになられて手にしていた盃を叩き割ってしまった。
「あ奴はこの前の暴挙に加えて余計なことしかしないな!こちらの計画が台無しではないか!」
「落ち着いてくだされ。今すぐ評議を開きましょう。時間はそう多く残されておりません」
家宰である足利長尾但馬守殿の一言でようやく冷静になった殿は家臣を集めて評議を開く。その場には但馬守殿に加えて国峯城主の小幡播磨守殿、箕輪城主の長野信濃守殿らの姿もあった。いずれの彼らは殿からの信頼が厚い者で山内上杉家の政治の中心人物たちだ。
「簗田殿が古河城を落とし、公方様親子は逃亡。これは事実でございます。厄介なのはこちらが動く前に簗田殿が行動を起こしてしまったこと、そして公方様らの身柄を捕らえることができなかったことです。特に公方様たちを取り逃がしたことで簗田殿の行動はただの謀反となり、正当性は薄れてしまいました。これによって簗田殿の求心力が落ちることが予想されます」
「ふん、あ奴を思慮深いと思っていた儂が間抜けだったわ。簗田のことはどうでもよい。問題は公方がどこに逃げたか、だ。野垂れ死していれば好都合だが、そんなことはないだろうな」
そこに長野信濃守殿の口が開く。
「恐らく、小山かと」
誰もが察していたことだったが、殿の機嫌が損なわれることを恐れて口にできなかったことを信濃守殿はなんでもないかのように殿に伝える。
殿は明らかに不機嫌になり、信濃守殿を睨みつける。しかし信濃守殿はそんなことを気にせずに続ける。
「公方様が小山に逃げたのなら早い段階で古河奪還に動くことでしょう。小山も敵対勢力に那須がいますが古河城を奪還できる程度の兵力は余裕で揃えることができます」
小山と古河の距離は近い。もし小山が本当に公方様を匿い、古河奪還に動くのであれば短期間で動いてくるだろう。古河城は川を利用した要害だが簗田の軍勢だけで防げるかどうか。それに公方様が健在ならばいずれ小山以外の人間も公方様の味方になることだろう。千葉あたりが公方様に味方すれば簗田の勝ち目はない。
同時に北条の動きも警戒せねばならない。公方様と北条は縁戚になっている。北条が嫁いだ娘の保護と称して古河に兵を差し向けてくることは否定できない。簗田は北条とも関係が深い。もし彼がこちらではなく北条に助けを求めたらと思うと不安は絶えない。
「簗田が動いてしまったことはもう過ぎたことだ。今更喚いてもどうにもならん。だが公方親子を取り逃がしたのはある意味こちらにとって好都合ではないか。のう、雲岳……いや今は四郎時氏か」
殿が視線を向けた先にはひとりの頭を丸めた男が座っている。雲岳周揚。還俗して名を足利四郎時氏。もとは武蔵にある甘棠院という寺の住職。そして公方様の弟君であるお方だ。このお方は古河足利家の人間だが殿と親しい関係にある。年齢が近いことや前住職が古河足利家より山内上杉家に接近していたことも要因のひとつだ。
殿は当初からこの方を次期公方として担ぎ上げようとしていた。簗田殿は自身の孫である幸千代王様を次期公方にしようと画策していたようだが、殿はそれを認めるつもりはなかった。
四郎様も次期公方に就任することに乗り気ですでに平井城で還俗していた。だからこそ簗田殿が公方様親子を捕らえられなかったことが上杉家にとってある意味好都合でもあったのだ。
「播磨守、すぐに四郎を連れて古河に出陣せよ。決して小山に先を越されてはならぬ」
「御意」
最終的に小幡播磨守殿を総大将に二〇〇〇余の兵で古河に出陣することになった。殿らは途中で武蔵衆も合流させたうえで古河に乗り込むようだが、彼らの話の中に北条の名前が挙がらなかったことに儂は不安を覚えた。
「少しよろしいでしょうか。北条についてはどう対処すべきでしょう。恐らく北条も動いてくると思うのですが」
殿は儂の問いを鼻で笑う。
「ふん、そんなこと、武蔵の守護代である大石らに任せればよいではないか。あの憎き伊勢の当主は病に侵されておる。その倅もよい噂をきかん。どうせ大した兵も寄越せんよ」
「しかし、北条には動く大義名分がございますぞ。今回武蔵の者たちも動員するとなれば大石殿らだけでは厳しいのではないでしょうか?」
「よく考えてみよ。伊勢は今、今川と武田を敵に回しておる。当主が病に倒れ、強敵に囲まれている中で未熟な奴の倅が動けると思うか?当主と同じくらいの器量ならば警戒するが、そんな話は聞いたことがないぞ。たしかに伊勢はいずれ滅ぼすべき敵だが、今は小山と古河を優先せよ」
殿はそう言って評議を切り上げる。殿が去ったあとは各々が殿の命に従って慌ただしく戦支度をはじめた。儂は一度本拠の倉賀野城に戻り、兵を集めたあと道中で播磨守殿らと合流する手筈になっていた。
「さて大事になってしまったぞ」
「簗田の謀反は想定外だったのですか?」
儂の独り言が若い馬廻の金井小源太の耳に届いてしまったようで小源太は不思議そうに尋ねてきた。そういえば事の経緯を家臣らに話していないなと思い出す。
「まあ、小源太ならいいだろう。そもそもの話、最初は標的が古河ではなく小山だったのだ」
たしか佐野や桐生によって但馬守殿の領土が削られたことが事の発端だった。佐野らの背後に小山の存在を認識した殿は但馬守殿の献策もあり、古河の重臣である簗田らに小山への不信感を植えつけようと調略をしかけた。すると元々小山に思うところがあったのか話が妙に進んでいく。直接簗田に会った但馬守殿も若干の不気味さを感じたという。
本来なら古河の内部で反小山派を増やして小山を孤立させるつもりだった。ところが公方様がこちらの想定以上に小山を信用していたことや簗田との関係が悪化していたことが事態を混沌に陥れたのだ。
いつしか古河は小山を巡って公方様と簗田が対立することになっていた。殿もあくまで敵は小山であって、古河を崩壊させたいとは思っていなかった。しかし但馬守殿らはこれを好機と捉え、古河を山内上杉家の支配下に置けるのではないかと策を練り始めたのだ。
さすがに事が事だけに慎重論も出たが、殿は但馬守殿らの意見に賛同し、古河の切り崩しを本格的に実行するよう命じた。そして公方様の後釜に親しい雲岳周揚殿を据えて、あとは簗田をどう処理するかという段階になって事態は更にややこしくなる。
簗田の人間が小山の商人を関宿から追放したのだ。しかも正当な理由もないという。まさかの暴挙に殿すら呆れていた。だがこれで小山の堪忍袋の緒が切れ、ついに簗田を討つのではないかと噂になった。そして小山を信用し、簗田との関係が悪化している公方様なら喜んで簗田討伐を許可するだろうと誰しもが察した。
「準備を早めていたとはいえ、まさか簗田がこちらに連絡なしで古河を攻めるのは想定外だった。殿は簗田に軽挙は慎むべしと警告したようだが効果があるかどうか」
結果としてこちらが軍勢を古河に送る前に事態は進行してしまった。下手すれば小山に先を越されるかもしれない。
「二〇〇〇で小山に勝てますか?」
小源太の問いに儂は曖昧な表情を浮かべるしかなかった。
「成田殿や深谷の上杉殿ら武蔵衆が加われば三〇〇〇近くにはなるが……」
儂は直接小山と戦ったことがないのでなんとも言えないが、宇都宮や壬生らを滅ぼした小山が弱いとは思っていない。正直勝てるかは戦況次第だろう。
それに殿はああおっしゃっていたが儂は北条を軽視することはできなかった。たしかに理屈なら殿の言い分は正しい。だが北条の兵力はそこらの国衆とは比較にならない。最悪傘下の兵力だけでも十分に脅威になると薄々感じていた。
嗚呼、此度の騒動は一体どうなることやら。
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