迫る雨季
下野国 祇園城 小山晴長
とうとう雨季に突入してしまった。予想が外れてほしかったが、今年は例年と比べて雨量が多く、連日雨が降り続いていた。日照時間も短く、水田に水が溜まってしまうため、稲の根腐れや発育不良が心配される。農民たちは雨の中でも作業してできるだけ稲に悪影響を与えないように努力しているが、雨は無情にも強く降り注ぐ。
雨の影響は農民たち以外にも出ていた。船生城主君島広胤からは河川工事が間に合わないという報告を受けている。船生城付近は鬼怒川と大谷川がぶつかり合っている地域なので昔から水害に悩まされていた。君島を傘下に入れてからは事前の約束どおりに土木の技術者を派遣して河川工事をおこなわせていたが、期間が数か月では当然工事は完成するはずがない。幸い最低限の工事はできたらしいが、この雨量でどこまで耐えられるか。俺は広胤に書面でいざというときには避難をするよう呼びかけるしかなかった。
また別の話では岡本家の居城であった松ヶ嶺城もまた川の増水に悩まされているという。松ヶ嶺城は以前から城下の中川がよく氾濫することで有名だった。そこで小山家の支配が決まってからは泉という土地に城を築いて拠点を移動する予定だった。城自体は一応完成したが城下の移転はまだ進んでおらず、民の多くが松ヶ嶺城の城下にいた。この雨量では中川の氾濫は必至で城の近くに山に避難するしか方法がない。松ヶ嶺城は今年で廃城になるだろう。雨季が終わったら一気に泉への移転を進めようか。
この例年以上の雨量でようやく益子家も危機感を覚えたらしく対策に乗り出したという。雨季に入る前に益子家は勝定から忠告を受けていたはずだったが、そのときは動こうとしなかったようだ。今になって慌ててこちらに問い合わせもきているが、今の段階で打てる手段は限られている。せめて勝定から忠告を受けた際に動いてくれれば何かしら助言できたものを。
一方で佐野や結城、芳賀、塩谷については素直にお告げの内容を信じたのか早めに対策に乗り出していた。兵糧の節約や蕎麦などいった作物の栽培の奨励など各々がとれる手段で飢饉に対する備えをしていた。一応同盟や従属関係にある家なのでできる限り小山としても手助けもおこなった。慈善事業というわけではないが、俺の言葉を信じてくれた仲間が苦しむ姿を見たくなかったので多少は相手に有利な取引にした。
ところで国外では山内上杉と扇谷上杉がこの雨季の中で北条領に兵を進出させたらしい。本来なら北条も速やかに対処するのだが、この雨の影響で初動が遅れたのか救援が到着する前にいくつかの北条方の小城が落ちた。それに気分を良くしたのか山内上杉と扇谷上杉は進軍を続けたが、さすがに北条の援軍が到着するとこれ以上の侵攻はできなかったらしい。結局扇谷上杉の目的である河越城までは辿りつけなかった。それでもいくつかの城は上杉方に転じたので上杉の作戦は成功だろう。問題はこの雨量の中でいくつかの川を越えて無事に撤退できるかだが。
それぞれから情報を収集する中でも雨はだんだんと強さを増していき、祇園城のすぐそばを流れる思川の水位も徐々に上がってきた。それでも昔から続けてきた堤防の強化、下流の貯水池造営、支流の増加といった河川工事のおかげで昔なら氾濫してもおかしくなかった雨量でも思川は耐えることができていた。だが念のためもある。たしかに思川は昔より耐えられるようになったが、このまま雨が続けばもしもの場合も十分あり得る。俺は家臣と協議したうえで富士やいぬを呼び出した。
「お呼びでしょうか?」
富士はいぬも一緒に呼び出されたことに若干驚き、不安そうに俺を見つめる。俺は家臣と話し合ったうえでのことだと前置きして本題に入る。
「すまないが、富士といぬは竹犬を連れて叔父上のいる多功城に避難してほしい」
俺の言葉にふたりは一瞬硬直すると、すぐにどういうことなのか問い詰める。
「今年の雨量は例年を大きく上回っている。このまま続けば今は大丈夫でもやがて思川は氾濫するかもしれない。もし氾濫すれば平城で思川のすぐ隣にある祇園城は間違いなく被害に遭うだろう。その前に富士たち女子供には安全な多功城に避難してもらいたいのだ」
「待ってください。お前様はどうするのですか?」
「俺は小山家の当主だ。俺だけではない。男衆のほとんどは祇園城に残る。逃げられない民もいる中で俺たちだけが逃げるわけにはいかない。なに心配するな。何も城と心中するつもりはない。いざというときには避難するさ」
「本当ですか?」
富士は疑り深そうに俺を見つめる。
「わかった、兄上。義姉上も兄上の言うとおりにしよう」
「いぬちゃん?」
いぬが俺の言葉に頷くと富士は驚いたというようにいぬの方を振り向く。
「義姉上も兄上の言いたいことを理解しているんでしょ。ここは兄上に従うべき」
「でも、せめて私だけでも残らないと……」
「義姉上は小山家当主の正室で竹犬もいるでしょ。もし兄上に何かあったとしても義姉上がいれば小山は終わらない。だから今は我慢するべき」
「いぬちゃん。わかりました。竹犬もいるものね」
「すまないな、富士。一応人はつけておくからな」
俺が富士に詫びると、今度はいぬが俺に尋ねる。
「そういえば母上は?」
「母上は先に話をしたが残るそうだ。父上のもとから離れたくないのだろうな」
「そっか。兄上、母上のこと、よろしくね」
「ああ、わかっている」
後日、束の間の晴れの日。富士やいぬは竹犬を連れて多功城へ避難していく。道中にもしものことがないように一〇〇〇近くの兵を同行させる。
「すまないな、三郎太。新婚早々、いぬと離れ離れにしてしまって」
「いえ、こればかりは仕方ありませぬ。いぬ殿の身の安全が第一ゆえ」
俺たちは富士たちの姿が見えなくなるまでその姿を見送った。
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