塩谷仕置
下野国 小山晴長
川崎城下に現れた那須の援軍に対して家臣に対処をさせていたが、敵の策略により迎え撃った部隊と川崎城が分断される事態に陥ってしまい、その隙を狙って岡本正重ら反義尾派から攻撃を受けてしまう。幸い城に小山の援軍の一部が残っていたこともあり、俺は同じく川崎城に残っていた君島勢と協力して迎撃。緒戦こそ押されていたが徐々に盛り返し、逆に敵本陣を急襲して総大将岡本正重を捕らえることができた。その結果、岡本正重、山本伊勢守は捕縛し、正重に担がれていた塩谷惟朝は討ち死に。敵は総崩れとなり、その多くが逃亡、降伏した。
岡本正重の敗北および捕縛によって沢村城で抵抗していた那須勢も城を開城して撤退し、塩谷の内乱は鎮圧することができた。だが達成感はなく、ほろ苦さだけが残る。戦に勝てたがそれは結果論であり、あのとき負けることも十分あり得た。那須勢への迎撃を家臣に任せたことなど無意識のうちに気が緩んでいたことを猛省しないといけない。もし負けていれば大軍を率いながら救援に失敗するという大失態で小山の求心力や権威が大きく損ないかねなかった。
余裕が油断を呼び、油断が慢心を生み、慢心が敗北を運んでくる。理解していたはずだったがまだ理解していたつもりでしかなかった。負けなかったが、勝利の美酒とはかけ離れた苦さが口に残る。今回負けなかったのは時の運でしかない。次も同じ失態を繰り返せば負けるのはこちら側だ。
沢村城が開城してから兵を再編し、そのまま岡本正重の居城松ヶ嶺城と山本伊勢守の居城鳩ヶ森城を攻め落とす。籠城していた一族の者は当主が捕らわれたことを知っても抵抗をやめることはなかった。慢心を捨てた俺と小山の兵は降伏勧告を無視した敵を容赦なく攻めたてて城側のほとんどの者が討ち死にした。
残った岡城の岡民部らは二城の落城を受けて降伏した。これにより塩谷での内乱は完全に終結する。
そして戦後処理がおこなわれる。今回あくまで塩谷家内での反乱ということもあり、処分は塩谷家が主導する。それでも乱の鎮圧に大きく貢献した小山家を無視することはできず、義尾の判断の中には小山家の意向も含まれていた。
塩谷家が下した処分。まず内乱の首謀者である岡本内匠頭正重は斬首のうえ領土没収および一族の国外追放。そして山本伊勢守、先代が出した塩谷家に反旗を翻さないという起請文を破って乱に加担した油井備前守、大貫刑部、印南上総介も岡本同様の処分となる。岡民部、安藤駿河守は助命するが本人たちは隠居し、家督は乱に加担していない者に継がせることになる。塩谷惟朝は討ち死にしたため、家督と倉ヶ崎城は惟朝の養子となっていた天的の三男に継ぐことになった。
義尾は重臣の多くが加担した事態を深刻に捉え、ほとんどの者を重い処分にし、その力を削ぐことにしたのだ。特に家臣の中で権勢を誇っていた岡本家の没落は大きく、義尾は当主に影響を与える家臣らを一掃することに成功した。
但し、これはあくまで内乱に関わった者に対する処分である。塩谷家の試練はここからだった。
塩谷家の小山家への従属。今回、俺は芳賀家のときと違い、塩谷家が従属するにあたって様々な条件をつきつけた。
まず塩谷家の所領について。小山家が塩谷家の領土として認めたのは川崎城以下乙畑城、鷲宿城、御前原城、岡城、倉ヶ崎城、山田城のみ。さらに船生城の君島を含む旧塩谷領西部を手放し、彼らの独立を容認することを条件として突きつけた。なお松ヶ嶺城、沢村城、鳩ヶ森城は小山領に組み込むこととする。
次に資源について。塩谷領には多くの鉱山や岩塩があり、それらの一部の採掘権を小山家に譲渡すること。塩谷領の鉱山からは金や銅などが採れると聞く。塩谷家にとって鉱山を手放すのは避けたいが今の塩谷家の財力では満足な採掘はできない。今回はその点を利用させてもらった。
当然これらを突きつけられた塩谷家の家臣らはあまりの条件に反発する。従属だけでなく塩谷家の所領を削る小山家のやり方に反発しない者はいないだろう。だがそれらを断るほどの力は塩谷家にはもう残っていなかった。
俺はこの条件を出す際に塩谷家が自力で内乱を鎮圧できずに小山に解決を要請したこと、塩谷領西部の統制が効いていないこと、塩谷家の財力により満足な採掘ができていないこと、今回の乱で塩谷家が重臣を多く失い勢力を縮小化せざるを得ないことを指摘していた。そのことに反論できる者はおらず、反発の声は弱まる。
仮に今から那須に転じようとしても親那須派はすでに処分してしまった後で、交渉できる人材が残っていなかった。義尾はすでに今の塩谷家の状態を理解しており、これからは小山の庇護なしで塩谷領を保つことは不可能だと察していた。乱の影響は大きく、古参の重臣を排除することはできたが、それにより塩谷家の力自体も大きく落ちてしまっていた。
旧塩谷領東部の一部は小山の支配下となり、西部は君島らの独立を容認。倉ヶ崎城などは残されたものの塩谷家の勢力は天的の頃より大きく衰えることとなった。
そして君島らが独立してからわずか数日後、君島広胤以下独立した国人らは小山の支配下に入ることを熱望し、旧塩谷領西部は小山領となった。塩谷家の一部からは騙されたとの声も聞こえるらしいが、義尾らにとっては想定の範囲だったのだろう。露骨に小山を批判した者を謀殺したようだ。状況を理解できているだけに、すでに義尾は翼をもがれた鳥に等しい。念のために塩谷家には監視をつけているが、大それたことを考える者もすでに消えているため、そこまで危険視する必要はないかもしれないが、那須から接触してくる可能性もある。努々油断するつもりはない。
こうして苦い教訓も得た塩谷家の内乱鎮圧の幕は下りた。よほどのことがない限り、しばらくは出兵を控えるつもりだ。これまでの負担が重いこともあるが、次の問題が迫っているからだ。
『天文の飢饉』
大天災がやってくるまで時間はそう残されていない。
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