佐野豊綱とさち
お久しぶりでございます。
下野国 唐沢山城 佐野豊綱
「ほう。さちよ、義兄殿に男児が生まれたそうだぞ」
「まあ、本当!?」
義兄殿からの書状が届き、中身を確認してみると小山家で男児が生まれたことが記されていた。名前は竹犬丸と名付けたらしく、母子ともに健康だという。
妊娠が発覚してから母上に侍女の数を増やされて甲斐甲斐しくお世話されている儂より一回りも歳下である幼妻は腹の子を刺激しないように、しかし急ぎ足で儂のもとにやってくる。さちは儂の隣まで近づいてくると横から儂がもっている書状を覗き込む。天真爛漫で満面の笑みを浮かべながら書状を読むさちだったが、しばらくして目に涙を浮かべながら「よかった」と呟く。ただすぐに目元を拭うと我慢できないというように身体をわなわなと震わせていた。
「なんでしょう、この気持ち。嬉しすぎて今すぐ庭を駆け回りたいぐらいだわ」
「やめてくれ、お前も妊娠しているんだぞ」
喜びを隠せないさちについ強い口調で窘めてしまい、すぐに自己嫌悪に陥る。どうも儂は口下手でぶっきらぼうな言い方になってしまう。男相手ならそこまで気にしないのだが、一回りも歳下の妻には罪悪感が芽生えてしまう。
儂が人並み以上に背が高いこともあったが、小柄でまるで小動物のようなさちは嫁いできた当初から儂の胸を騒がせる。明るく竹を割ったような性格かつ天真爛漫な幼い妻は儂だけでなく儂や弟を厳しく躾けてきた母上も虜にした。
一目で母上に気に入られた彼女は瞬く間に佐野家の太陽の如き存在へとなっていった。気難しいはずの祖父や父にも可愛がられている彼女を見て大人気もなく嫉妬したときもある。けれど生来の口下手のせいでその心中を上手く伝えることができずにいた。
「小太郎様、心配してくれてありがとうございます。初めての甥っ子でちょっと舞い上がり過ぎていたわ。そうね、私にも子供が宿っているものね」
さちは儂のぶっきらぼうな言葉にも優しく受け止め、儂の真意を理解してくれる。初めはただの子供だと思っていたが、弟に強面とも評された儂に怯えることなく積極的に接してくれるさちにいつの間にか夢中になっていた。家臣たちも最初は政略結婚以上の感情を持っていなかったが、さちの人柄と儂との仲を見て次第に心を許す者も増えてきた。
「はあ……」
素直に言葉を伝えられない自身の口下手さを嘆いて思わず溜息をつくと、さちは何かを察したのか儂の隣に寄り添いそっと手を握る。
「私はちょっと口数が少なくて、けど本当は色々と考えていらっしゃる小太郎様のことを好ましく思っているわ。まさかあなたの言葉の裏にある優しさが通じていないとでも思ってた?」
「さち……」
「もちろん言葉にしてくれた方が嬉しいときもあるけど、小太郎様の優しさはわかってるつもりよ。だって一回りも離れているお子様を壊れないように大切にしてくれる方が優しくないはずがないのだもの」
その言葉に儂はどこか救われたような気持ちになる。怖がられていないか、嫌われたらどうしようとか後ろ向きな感情が吹き飛んでいく。
腹の子を刺激しないようにそっとさちを抱きしめる。
「今は、これくらいしかできないが、これからはもっと善処する」
「小太郎様……」
たださちに意識が向きすぎていて多くの侍女や小姓に見られていることを完全に失念していたことにこのときの儂は気づいていなかった。
その夜、祖父や父や母にそのことについて言及され、顔から火が出そうになった。
後日、そのことをさちに話すと彼女はちょっと照れながらも嬉しそうにしていた。夫婦仲がより深くなったことは家族どころか家中にまで広まっていた。当分この話題が持ち切りになるだろうなと諦念する。
「しかし小山家は順調そうだな。嫡男も生まれ、勢力も確実に広がっている。まさか宇都宮城すら奪うとは思ってもいなかった。それに比べ我ら佐野家は……」
小山家の進撃に儂の中には僅かな嫉妬と羨ましさ、そして焦りが生まれていた。
佐野家は小山家と同盟を締結後も足利城の長尾但馬守憲長、小俣城の渋川右兵衛佐義宗と争っていた。また足利の北部に位置する上野国桐生には同族である柄杓山城の佐野大炊助助綱がいるが大炊助は菱館の細川内膳、新田金山城の岩松治部大輔氏純と実質的な金山の支配者である家老横瀬信濃守泰繁、そしてその配下である膳城の膳因幡守宗数と争っていた。佐野家は小山家との同盟によって東を気にせず西の山内上杉家の勢力と戦うことができていたが、戦力が拮抗していることもあり戦況は一進一退の状態が続いていた。
そんな折、佐野家の主家にあたる古河公方の古河足利家から手紙が届いた。それは佐野家と足利長尾家の和睦の提案だった。なぜ公方様が足利長尾との和睦を提案してきたのかと思ったが、足利長尾は公方様の元服式の際にその費用を越後守護代長尾信濃守為景に出させており、公方様にとっては恩がある家だった。
どうやら公方様は厭戦状態になっている我らの争いを案じて和睦を提案してくださったようだが、はたして本当に公方様が自ら下野の国人同士の争いに介入してくるだろうか。おそらく誰かの要請があってそれに応えたのだろう。可能性が高いのは足利長尾の当主但馬守か。
儂は一族間で集まって足利長尾との和睦について話し合う。その場にはすでに隠居している祖父や父の姿もある。長年佐野家を支えてきた祖父と父はいまだに家中での発言力がある。
「公方様から足利長尾との和睦とな。まあ応じる他ないだろうな」
祖父の言葉に集まった者の多くが首肯する。
「正直足利長尾との戦況は膠着状態だ。前線での小競り合いが多いがどちらが有利というわけでもない。泰綱はどう思う?」
「某も父上の意見に賛成ですな。長く続くとは思いませぬが、今回の件は渡りに船でありましょう」
祖父と父が和睦に賛成したことで他の者たちも特に反対することはなかった。儂も公方様の提案を蹴って戦を続けるつもりはなかった。最終的に後日家臣たちからも賛同を得て佐野家は長年対立していた足利長尾家との和睦に応じた。しかしこれが永久に続くものではないと家中の者は理解していた。
それから季節が巡って秋が訪れ、年貢の収穫も終わりを告げた頃、今度はさちの実家である小山家から書状が届く。鹿沼城攻めでの援軍の要請であった。
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