嫡男誕生
下野国 祇園城 小山晴長
麦が収穫されて祇園城の周りも徐々に気温が高くなりはじめたある日のこと。その日は雲ひとつなく、空が青く晴れ渡っていた。早朝の寒さもなくなり心地の良い風が頬を撫でる。城内にも緑が増え始め、季節の移り変わりを予感させる。
朝に日課である木刀の素振りを終えて十分に温まった身体から汗が噴き出す。少し前までは肌寒さもあった風も今の時期になると程よく冷えて気持ちがいい。行水をして汗を洗い流し、新たな服を身につけると新たに小姓となった資清の嫡男である助三郎親清が朝餉の準備ができたことを伝える。
俺は助三郎に返事をして朝餉に向かおうとしていた。今日は重臣たちとの評議はなく、来客の予定も入っていない。これなら適度に仕事を切り上げて富士に会いに行こうかと考えていた。そんなときだった。
城内に富士の大きな呻き声が響く。それも尋常ではない。助三郎と顔を合わせる。助三郎も険しい表情を浮かべていた。呻き声の出処は富士が静養している部屋からだった。
「富士、大丈夫か!?」
助三郎を連れて富士がいるであろう部屋へ向かっていく。ようやく部屋に辿り着くとすでに侍女たちが部屋に集まっていた。侍女のひとりが部屋に近づく俺に気づくと制止の声をかける。
「御屋形様、止まってくださいませ!」
「富士に何が起きた?」
「奥方様が産気づきました。ここから先は女である我々の仕事でございます。申し訳ございませんが、殿方である御屋形様にはお引き取り願います」
富士が産気づいた。安定期に入ってしばらく経っており、いつきても不思議ではなかったが今日だったとは。産気づいたと知ってもあの呻き声を聞いて平常心でいられるのは難しい。
「御屋形様、侍女の言うとおり、ここから先は我々男にできることはございません」
「……ああ、そうだな。富士を頼んだぞ」
助三郎とともに後ろ髪を引かれる思いで部屋の前から離れて自室で朝餉をとる。しかし富士の身体を案じるあまり、朝餉をとるのも一苦労だった。部屋の中にいても時折富士の呻き声が聞こえてくる。出産の際に男にできることはただ祈るだけだ。気を紛らわすために仕事に手を出してみたが集中することは難しかった。あまりにも仕事にならず助三郎と弦九郎にも仕事するのをやめるように言われてしまった。
そこで俺はすぐに御師の佐八家に使者を出して祈祷してもらうように依頼する。早馬で向かわせたのと事情を把握した佐八家の迅速な行動によって昼前には佐八家から派遣された者が祇園城に到着した。大広間に案内させるとそこで富士の安産を願う祈祷が開始された。富士の陣痛が始まったことを知った重臣たちも続々と祇園城に駆けつけて大広間に集まってくる。さすがに要所を預かる叔父上らはいなかったが、それでも多くの者が富士の無事を祈っていた。
陣痛が始まって半日が過ぎた。それでも富士の呻き声は続いている。ふと富士の声が途切れた。その代わり甲高い声が城内に響く。赤子の声だ。その声に反応して祈祷の声も止む。周囲もざわめきだした。外からパタパタとこちらに駆けてくる音が聞こえる。
「御屋形様、おめでとうございます。無事お産まれになりました」
侍女のひとりが大広間に現れるとそう告げた。一瞬の静寂の後、大広間は喝采で包まれる。
「……そうか、そうか。それでどちらが産まれた?男か女か?」
侍女に問いかけた声は震えていた。
「元気な男子でございます」
その言葉を聞いてさらに大広間の喝采が大きくなる。中には泣き出してしまう者すらいた。
「それで富士の方は無事なのか?」
「はい、奥方様もだいぶ疲れているようですが、出血もなく健康そのものでございます」
よかった。本当によかった。まだまだ安心はできないが最悪の事態は避けられたようだ。俺は全身から力が抜けていくのを感じた。現代においても出産は命懸けだが、医療が発達していないこの時代ではさらに出産の危険は高い。母子ともに無事でいられる可能性は高くはなかった。そのような状況でひとまず無事に出産できたのは幸運であった。
それからしばらく富士と子供は侍女らに面倒を見てもらうことになった。この時代においては出産してすぐに子供の顔を見ることはできないらしい。それに免疫力がまだ低い赤子はいつ健康を害しても不思議ではなく、ここからが気をつけなければならないという。
ようやく富士と赤子に会う許可を得ると、準備を整えて富士が安静にしている部屋を訪ねる。部屋に入ると富士と赤子は隣に並びながら布団で横になっていた。
「富士、身体の方は大丈夫か?」
「はい、まだ節々が痛むことはありますが、医師の診断によると病気にはなっていないようです」
富士は健気に笑顔を浮かべる。俺は富士に横のままいるように伝えると富士の隣に座り、彼女の手をとる。
「ありがとう。命懸けで子供を産んでくれて。富士も子も無事で本当によかった」
「お前様……」
富士は視線を赤子の方に向ける。その視線につられて俺もようやく赤子の顔を初めて見ることになる。
赤子は赤い顔ですやすやと眠っている。産まれたときは城内に響くほど大きな産声を上げたとは思えないほど小さい身体だ。
「男の子ですって。女の子が駄目というわけではないですけど、御役目を果たせてよかったです」
「この子が俺の子か」
赤子はまだ首がすわっていないので抱き上げることはしないが、赤子に向かって人差し指を差し出してみると赤子は目を閉じたまま指をぎゅっと掴んだ。その瞬間、今まで感じたことがないほどの愛しさが芽吹いたことに気づく。これが我が子への愛情というものなのか。
「そういえばこの子の名前は決まっているのですか?」
富士がそう尋ねると俺は指を掴まれたまま顔だけを富士の方へ向ける。
「そうだな。色々考えてはいたが、実際に会ってみると見事にとんでしまった。だが同時にいい名前も思いついた。竹のように立派に育つように願いを込めて竹犬丸と名付けよう」
「竹犬丸。いい名前です」
一五三八年の初夏、小山晴長の嫡男竹犬丸が誕生したのであった。
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