祇園医学校
下野国 戸室山 小山晴長
昌安の寝返りと壬生勢撃退の報せが入ってきたのは戸室山砦を落とした直後だった。
「まさか小倉城が寝返るとはな。それに右馬助が負傷か」
なんとか撃退に成功したようだが、大将格の右馬助が負傷する事態からかなり激しい戦いだったということがわかる。村井城も攻められたが守り抜けたのは大きい。それにしても小倉城が壬生に転じるとは思わなかった。報告によると昌安の姿が確認されなかったというが探る必要がありそうだ。
幸いすでに戸室山砦は落ちた。段蔵らを砦内に侵入させて内側から火を放ち、混乱したところを攻め込んだからだ。良綱は早々に砦の放棄を決めて多気山城に退く。山を下るまで追撃したのでそれなりに損害を与えることができたが、敵も決死の抵抗をしてきたのでこちらも少なからず被害を被った。
そんなとき岩原城を監視していた斥候のひとりが本陣に姿を現した。
「申し上げます。すでにこちらに恭順の意を示していた大堀城の半田籐右衛門殿が岩原城を奇襲。岩原城は落城いたしました!」
「ほう、半田が自力で攻め落としたか」
半田が勝手に動いたことはいただけないが岩原城を攻め落とす手間が省けたのも事実。弁明次第ではそのまま岩原城を与えるべきか。
「岩原城が落ちたことで当初の目標はすべて達成した。兵を退かせるぞ」
このまま多気山城を攻めたとしても膠着状態になるだけだ。それにしばらく祇園城を留守にし過ぎた。そろそろ兵を帰還させなければならない。俺は各城に兵を置いて宇都宮城へ戻ることにした。
そしてしばらく宇都宮城で戦後処理をこなしつつ、段蔵らに小倉城の動向を探るよう命じた。昌安の安否が不明ということやなぜ壬生に寝返ったのか調べる必要があった。その間に岩原城を落とした半田籐右衛門が宇都宮城に登城し岩原城の所有権を得たり、村井城の戦いで活躍した壬生周長らに褒美を与えたりしたがそれは割愛することにする。
ようやく戦後処理が終わり、俺はそろそろ祇園城に帰還しようと考えていた。
「さてそろそろ祇園城に戻るか」
「御屋形様、宇都宮城の城代は誰にいたしますか?」
「そうだな。宇都宮城は重要な拠点だ。信頼できる人物に預けたいと思っている。叔父上、お願いできますか?」
俺が指名したのは壬生城代である政景叔父上だ。政景叔父上は堅実で一門衆で信頼の置ける人物のひとりだ。政景叔父上は快諾したが壬生城の後任はどうするのかと問われる。そこで俺は新たな壬生城代に大俵資清を指名した。これまで側近として功績を重ねていた資清だがそろそろ城代を任せるべきだと思ったからだ。
資清は一瞬驚いたがすぐに表情を改める。資清が手元から離れるのは痛いがその代わりに資清の子息が側近に登用される。この倅もかなり優秀らしいので期待したい。
祇園城に戻ると俺は兵を動かしたこともあってしばらく内政に専念することにした。特に以前から構想を練っていた医学の学校の開設に力を注いだ。この時代の医学はまだ発達しておらず迷信まがいな治療法もあったりする。現代の知識をもつ俺にとっては非衛生的で信じがたい治療法でも世間では一般的だったりするのだ。
そのような戦国時代の医学だったが田代三喜が学んだとされる明の最新の漢方医学、もとい当流医学はそれまで国内で広まっていた医術と一線を画していた。
俺はその当流医学に目をつけて田代三喜に指導していただけないかと打診した。当の三喜からは医術の学校という理念には共感してもらったが指導については年齢のこともあり難色を示した。しかし交渉を重ねた結果、三喜の弟子である一渓という人物を助手として連れていくという条件で承諾してくれた。この一渓、実はのちに三喜と並んで医聖と称された曲直瀬道三その人であった。
田代三喜に曲直瀬道三という偉大なふたりにきてくれることに感謝しかない。またこの医学の学校ではふたりの他に戦傷の手当を専門とする常陸の芹沢家から人を呼ぶことにしている。
芹沢家は小山家とはそれなりに長い付き合いがあり、石鹸の得意先のひとつでもある。当主自ら医学を学んでいるという一族で晴氏からの信頼も厚い。今回の医学の学校の開設の際にも芹沢家当主定幹は喜んで人を派遣してくれた。
医学では足利学校が先を行っているが、今回開く学校では三喜が学んだ当流医学を中心にするつもりだ。また芹沢家の人間からは実戦で役立つ手当などを教えてもらう。芹沢家には対価として石鹸を安く提供することにしているが、定幹は医学の発展に期待して芹沢家でも医学に通じている者を派遣してくれた。
こうして開設の準備が整う中、ある意味予想を裏切ったのは志願者の数だった。家臣らに命じて医学の学校の開設を周知させていたが、あの三喜から学ぶことができると聞きつけた者が下野やその周辺から駆けつけてきたのだ。予定以上の志願者に驚いた担当者はすぐに俺に陳情して数を絞ってほしいと泣きついてきた。最終的に俺の判断のもと間者らしき者などを排してある程度人数を絞ることにした。
この医学の学校もとい祇園医学校が後に小山家が開いた学校ながら先進的な医学を取り入れた学校として下野だけでなく関東一円に評判が広まることになるのはまた別の話。
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