赤川の戦い
下野国 小山晴長
翌日の夜が明ける前に一部の兵を残して深津城を出立し深津城の北を流れる武子川を渡河して飯田という地に進出すると宇都宮城から出陣してきた勘助らと合流を果たす。
「留守を任せておいて呼び出してすまないな」
「いえ、壬生と民部大輔の動きが不自然であることを考えれば増援も当然でしょう。宇都宮城にはまだ一〇〇〇の兵が残っておりますし、留守役も信頼できる者に託しました。それに飛山に関しても地固めを優先しており動く気配がないことを把握しております」
勘助は突然の出陣にも不満を述べることなく、むしろ多くの仕事もこなして後顧の憂いを断っていた。
勘助率いる一〇〇〇の増援を得た小山勢およそ二三〇〇はそのまま北上し赤川を目指す。段蔵らに逐次良綱の動きを知らせるようにしているが良綱は相変わらず赤川から動いていなかった。
「民部大輔は赤川からいまだに動かず、か。勘助、これをどう見る?」
「おそらくこちらを誘い出しているのでしょうな。我々を赤川まで引きずり出すための陽動かと思っております」
「やはり勘助もそう思うか」
問題は俺たちを引きずり出して何をするつもりなのかだ。俺の考えでは俺たちが赤川で良綱と戦っている間に綱房あたりが何かしらの動いてくると踏んでいる。だからこそ右馬助を鹿沼に向かわせて綱房に牽制をかけた。五〇〇の兵の牽制があれば綱房も安易に動かないとは思うが。
そしてなぜ良綱が誘い出していると読んでいるのに赤川に向かっているのか。それは新田領の位置にあった。新田領は塩谷宇都宮との最前線にあり、西には岩原城と多気山城が存在する。金山である榛名山が敵勢力に隣接している状況はできるだけ早くどうにかしたい。そのためには北原城と深津城を落としただけでは物足りない。できれば岩原城、または赤川付近まで勢力下に置く必要があった。だから敢えて赤川で布陣している良綱を叩くことを決めた。その代わり増援を加えて敵の想定以上の数で攻める。ここで良綱を破ることができれば今後の多気山城攻略でも優位に働くだろう。
赤川に近づくと先に斥候に情報を集めさせる。すると良綱が赤川の対岸で布陣していることが判明する。川の霧に紛れて慎重に進み、日が昇る直前に一気に強襲を仕掛ける。
霧の中から現れた小山の兵に塩谷宇都宮の兵は動揺したが良綱らは冷静だったようで法螺貝などを鳴らして戦闘態勢に移行する。俺は兵を渡河させて敵陣に攻め込むように指示を出すが赤川の対岸には一晩で築いたであろう馬防柵がいくつも設置してあった。塩谷宇都宮の兵は馬防柵を盾に赤川には乗り込まず対岸から矢などを放ち、簡単に突破を許さない。
そんな良綱がいる本陣の後方からたくさんの狼煙が上がっているのを物見兵が確認する。さらにその狼煙が上がってしばらくすると今度は赤川の北に位置する戸室山という山からも狼煙が確認された。
あの狼煙は何かの合図なのか。伏兵か、罠か。すぐに斥候に付近に伏兵がいないか、また赤川の上流に罠が仕掛けられていないか確認に向かわせる。
その間も赤川では渡河を試みる小山の兵とそれを阻止する塩谷宇都宮の兵の攻防が続いている。数の差で押してはいるものの敵の士気も高く易々と突破はさせてくれなかった。そんな中、ひとりの小山の兵が敵の猛攻に臆することなく馬防柵にとりつくと先端に鎌をつけた紐を馬防柵に括りつける。そして仲間と一緒に紐を引っ張ると馬防柵はなぎ倒された。一瞬だけその一部始終が見えたが鎌を馬防柵に括りつけた勇気ある兵には見覚えがあった。藤蔵だ。
藤蔵の活躍によってひとつの馬防柵が倒されると小山の兵はそこを突破して対岸に乗り込む。これは好機だった。俺は陣形を縦陣に変更させると藤蔵が倒した地点に兵を集中させる。
渡河に成功し対岸に乗り込んだ小山の兵によってついに堅い守りを見せていた塩谷宇都宮の部隊は左右に分断されてしまう。渡河を許した時点でもはや数で劣る塩谷宇都宮に勝ち目はなかった。それでも良綱の判断は早かった。渡河を許した時点で撤退の鐘を鳴らし赤川から退いていったのだ。良綱以下塩谷宇都宮の将も敗残兵を上手く纏めて撤退は整然としていた。そのため追い打ちはしたが敵を総崩れにすることはできなかった。
良綱は多気山城ではなく戸室山に退き、残った兵で戸室山の砦に立て籠もった。俺は低山である戸室山をそのまま包囲した。戸室山は戸室惣左衛門という者が拠点としており、砦も築かれていた。しかし砦の規模は大きくなく山自体も標高は高くない。
戸室山は大谷石で形成されているという。ここから良質な大谷石が採掘できるそうだ。ただ天然の要害ではないようで険しいという感じではない。さて綱房が動く前にどう落とそうか。
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