第36話 立ち止まる者と前に進む者
やがて砂塵が落ち着き辺りの世界が見え始める。
それはまるでアベルの絶頂に終わりを告げているようであった
「な……!」
砂埃が舞っていたこの数秒は勝利の女神が気まぐれで与えた夢に過ぎなかった。
現実はいつでも叩きつけるように無残な真実だけを持ってくる。
「嘘だろ……! なんで……。なんで……!」
信じたくなどなかった、そのようなものは。
だが、目をそらすことは出来ない。
それからは逃れられないのだ。
「終わったはずだろ……! こんな悪夢あってたまるか……!」
ガチガチと歯がなり始める。
絶望か、悲しみか、それとも悔しさか。
そのどれが恐怖の元になっているかは分からない。
ただ分かっていることはその原因が目の前にいる角をあらわにした男によるものだという事である。
「ああ……俺も夢であってほしいね。これが夢なら……ハァ……こんな怪我はなかったことに出来るからな。」
オルガは立っていた。
右腕は骨が何か所も完全に折れているのか不自然にねじれ湾曲し、飛び出している。
それだけではない。
爪はなくなり右腕を中心に右胸部、首元に至るまで皮膚と呼べるものは残っていない。
大砲の衝撃でそんなものは吹き飛んだのだ。
筋肉がむき出しになっている力なき指先からボタボタと血が落ちている。
だが半身を己の血で染め上げ、紅色の化粧をした顔で笑いながらなおも彼は立っていた。
風が吹けば倒れてしまいそうなほど重傷でありながらもなお二本の角を持つ最強の生物はその由縁を見せつけ続けていた。
「死んだはずだろ……! お前は……!」
「ああ……。しかし、地獄にはいい女はいなくてな……。糞みたいな場所だったから……ハア……帰ってきたんだ。」
息も絶え絶えながら彼は答える。
アベルの攻撃は確かに命中し大砲二発分の衝撃はオルガに伝わっていた。
だが、彼を殺すには刺した場所が心臓から遠すぎた。
結果見ての通り彼は瀕死になりながらも命を保つことが出来たのだ。
それでも受けた傷は大きい。
今の彼はもう目もかすれあまり見えていない。
痛みをろくに感じることも出来ない。
ただ分かっていることはひどく寒くて眠いという事だけという状態である。
「効いたぜまったく……ハァ……まさかこんなことをしてくるとは思いもよらなかった……。あんたは正気じゃあねえな……。」
消えかける意識を繋ぎとめながら最後の力を振り絞り続け歩き出す。
「勝つためにここまで自分を犠牲にするとは……。尊敬するぜ、心の底からな……。」
そう言い終わると口から大量の血を吐いた。
肋骨が折れているだけではない。
吐血をしたという事は内臓のあらゆる器官も大きなダメージを受けているのだ。
その状態でもなおも意識を保っているこの男はやはり人間ではない。
種族という意味だけではなく精神的にも化け物だ。
「さっきのような冗談なんかじゃねえ……。マジに敬意を払う価値がある男だぜ、あんたは……。だからよお……、ここで俺の手で殺す。」
彼にはアベルを殺さないという選択肢もあった。
だが、あえて自らの手で決着をつけたのは彼なりの優しさがあってのことだろう。
負けた時点でアベルに未来はない。
捕まり拷問のすえ殺されるのがオチだ。
それならば今楽にしてやろうと考えたのだ。
これがオルガにとっての最大限の敬意の払い方であった。
そして、ゆっくりと血の道を作りながら歩み寄る。
「……死ねよ。」
その様子を倒れながら見ているアベルは悔しくて仕方がなかった。
ここまで追い詰めたのに、死の淵まで追い込んだのにも関わらず死ぬのが自分だという事がたまらなかったのだ。
その本心を隠すことはもう出来ない。
負けを認め潔く最後を待つほど彼の心は狂人ではない。
「お前が……死ねよ……! 俺じゃなくて……お前が死んでくれよ……!」
涙を流しながらすがるような声で訴える。
死にたくなかった。
生き残りたかった。
しかし、それはもうかなわぬ夢であり砂浜に書いた文字の如く消えてしまっている。
「お前なんか……生きていても仕方がないだろ……! だから……死ねよ、俺の代わりに……!」
今まで心の奥底に留めていた本心を言葉にする。
それはとても見にくい言葉かもしれない。
だが、アベルはその行為をやめることはできなかった。
「俺が生き延びるべきなんだ……! 勉強も、剣術も、仕事も、すべて積み上げてきた俺の方が……生きた方がいい……!」
体を引きずりながら近づいてくるオルガの姿が涙で見えなくなる。
それでもこのやけくそとも言えるこの言葉を吐き続ける。
「お前には……何もないだろうが……! 何も積み上げていないお前なんか……生きる価値がないだろ……!」
その馬頭にも近い彼の願いを聞きながらオルガはまた一歩彼に近づいた。
後、2メートルも歩けば彼はオルガの足で首をへし折れるだろう。
逃げだしたかった。
だが、体は全く動かない。
ただ迫りくる死を見つめることしかできなかった。
「恐れられ、蔑まれ、恨まれるだけのお前なんか……なん役にも立たないだろうが……! だから、お前が死ねばいいんだ!」
嗚咽交じりに彼は呪いの言葉を吐く。
最後の方は口が動かなくなっていたのかまるで駄々をこね泣く子供のような喋り方だった。
それだけ言い終わると今度は地面に顔をうずめるように声を上げながら泣き出す。
「殺さないでくれえ……。頼むぅ……。死んでくれえ……。」
その背中には先ほどまでの死に物狂いで勝とうとする男の姿はなかった。
代わりに震え、泣き、体を丸めている一人の敗者の姿がそこにはあった。
オルガはその弱き背中を見下ろしている。
「俺を……俺を生かしてくれ……。やりたいことがあるんだ……かなえたい夢があるんだ……取り戻したいものがあるんだ……。だから……俺に未来を譲ってくれ……。」
「……悪いが断る。嫌われ者でも明日ってのが意外に楽しみなもんでね。それに俺は神父のようにお人好しじゃないからな。」
オルガはそう言いながらアベルの首を左手で掴み、持ち上げると締め付け始めた。
呼吸が出来なくなり意識が薄れていく。
「がっ……! あっ……!」
苦しい。
だが、身動きの一つも取ることもできない。
悔しい。
だが、言葉を発することすらままならない。
彼に出来ることは消えゆく自我を味わうことだけだ。
(嫌だ……! 死にたくないっ……! こんなところで……!)
その思いをかなえることが出来るものは誰もいない。
たとえもう神にもどうすることもできないだろう。
決した勝負とはそういうものなのだ。
敗者は与えられた苦汁を飲み干すことしかできない。
(死……にたく……な……)
やがて彼の意識は暗く冷たい絶望という海に飲まれながら消えていった。
あれほど血が舞い散り、肉がはじけ飛ぶほど激しかったこの戦いは驚くほど静かにあっさりと幕を下ろした。
「先に地獄で俺が来るのを待ってな……。うまい酒を持って会いに行くぜ……。天寿を全うしたらな。」
そして、この瞬間。
アベルが死にオルガが生き残ったこの瞬間。
歴史という巨大な時計の小さな歯車がカチリという音を立てわずかに動き始めた。
この動きはやがて他の歯車と連動し次第に大きくなるだろう。
「じゃあな、強い騎士さん……。また会おう。」
だが、そんな事など知る由もないオルガはアベルの亡骸を地面に落とすと歩き出した。
アベルの戦いは終わったが彼の戦いは終わっていない。
決着がつけばそのままハッピーエンドに突入するなど物語だけの話だ。
この世はそんなに甘くない。
(ここにいたら次弾で吹き飛ばされちまう。次が発射されるまでの10分以内に逃げないとまずいな。)
血を滴らせながらズルズルと亡者のように歩を進める。
彼が歩いた場所にはまるで目印のように血の水たまりができていた。
しかし、その歩みはすぐに止まった。
刺された左足がついに限界を迎えたのである。
そして、すぐに肩ひざをついてしまった。
「少々くたびれたな……。ちょっと休憩するか……。」
誰に対して言ったのか、それは分からない。
それだけ絞り出すようにつぶやくとオルガは前のめりに倒れた。
その姿にはもう先ほどまでの覇気はなかった。
ただ死を待つだけの一人の男の姿だけがそこにはあった。
(眠いな……。クソ、意識が遠のいて来やがった……。)
オルガの意識はどんどん薄れていく。
赤子が母の胸の中で睡魔に逆らえない様に彼もそれには逆らえなかった。
その中で彼は確信を持ち始めていた。
死の存在を。
動けなくても死に、時間が来れば撃たれて死ぬ。
自分が将棋で言う詰みに入ったことを理解したのだ。
(俺もここまでか……。)
諦めが彼の心を塗りつぶしていく。
だが、彼を勝利の女神は見捨ててはいなかった。
「おい、オルガ! 起きろ! くたばるんじゃあない! せめて酒代返してから死ね!」
頬を何度も叩かれその衝撃で消えかかっていた意識が少しだけ戻ってくる。
かすれた視界からでは顔は分からなかったが匂いですぐに分かった。
「……ああ、少し死んでいたがお前のせいで呼び戻されたぜ……ヘイラ。まったく、人が天使ちゃんといい感じの雰囲気になっていたってのによ……。」
「きっと天使もお前が消えてくれてせいせいしているよ。」
「……そんなわけねえだろ。俺は……ハア……以外にモテるんだぜ。ところで旦那は?」
「村人と盗賊を引き連れて避難しているよ。あっちのことは気にしなくていい、立てるか?」
「……残念ながら赤ちゃんプレイもできそうにもない。」
「しょうがない。私がおんぶしてやる。少し痛むぞ。」
そういうと彼女は100キロをゆうに超えるオルガの巨体を持ち上げ背負った。
一応気を使って持ち上げたヘイラであったが全身傷だらけのオルガには喉の奥から低い唸り声をあげた。
「大丈夫か?」
「……ああ、効いたぜ。頬がじんじんしてきやがった……。」
「問題なさそうだな。それじゃあ、走るぞ。急がないとな。」
大砲の次の装填時間まであまりない。
一刻も早くこの場を去らなければならないのだ。
能力を使いヘイラは大きく揺れを起こさない様にしながらエオナがいる方へと走り出した。
そんな彼女は嫌な気配を感じていた。
それは死の感覚。
(失血も多いし、右手はかなりやばい。何よりオルガの体温がかなり低下している……。意識があるのが信じられない状態だ……。)
彼女は若いが敵味方を合わせて多くの人間の死を身近で見てきた。
ゆえに肌で感じることが出来るのだ。
背後に纏わりつく死神の存在を。
消えゆく命の感触を。
一方、心配の種であるオルガは相変わらず呑気に話しかけてくる。
「……なんかあれだな。男に背負われている気分だ……。さっきから……腕が胸に当たっているのに全然――」
「おい、オルガ。そこから先の言葉を言うなら死を覚悟しろ。私は荷物を捨てていっても構わないぞ?」
「……おお、……怖い……怖い……。」
だが、それが無理矢理いつもの通りにふるまっているという事は分かっていた。
呂律が回っていないだけでなく、声もかなり小さくなってきている。
(まずい……! 早く処置をしなければ手遅れになる……!)
彼女が歯ぎしりをすると同時に急に背中が重くなった。
それはまるで別の何か――死神が背中に乗ったようであった。
「おい、オルガ! 寝るな! もう少しだ、気合入れやがれ!」
何度も声をかけるが返事はない。
ただ前に垂れた腕がぶらぶらと揺れるだけだ。
「……クソッ! くたばるなよ、馬鹿鬼!」
オルガは薄れゆく意識の中でいつものように皮肉を言ってやろうとしたがそれは叶わなかった。
彼の意識はそこでブツリと途絶えた。
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