第33話 鬼の覚悟
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アベルが絶望という魔物に飲み込まれかけているころ、同様にこの一人の化け物も追い込まれつつあった。
(止血をできたはいいが……クソ! 頭はガンガンするし意識ははっきりしねえ……。目もかすんで来やがった……! 本気で洒落にならなくなってきたぜ……。)
口と笑顔だけで強がりを言っているこの男もまた限界を迎えようとしていた。
すぐに止血したとは言えかなりの量の血が体外に流出したのだ。
当然である。
(左足はほとんど使い物にならなくなった。俺はもうここから逃げられねえ……。ここで奴の攻撃を何とかしなくちゃあならない……。)
アベルとは違い彼は物理的に逃げられなくなっていた。
歩けなくなったわけではないとはいえ先ほどまでのような機動力はもうない。
それどころか逃げれば転び隙を生む可能性も存在する。
(だが、奴も捨て身の攻撃を仕掛けてきたってことはもう限界のはずだ……。能力を維持する条件が乱れたか? それとも単に体力がなくなりそうなのか? まあ、どっちでも構わねえ。俺がやることは決まっている。)
油という手段を失った彼は別の手を打たなければならない。
そして、彼はすでにそれを準備していた。
正確に言えばかなり前から持っていたとっておきの作戦である。
(この策には確証はねえがやるしかねえ。これは俺の油断が招いた結果だ。こいつを殺さなかったってことのな。自分のケツは自分で拭かねえとな。)
オルガはこの策をとりたくはなかった。
理由は簡単である。
リスクが大きすぎるからだ。
失敗すればそのまま地獄へと連れていかれてしまう。
そんなものに身を任すのはごめんであると考えていたからだ。
しかし、そうも言ってはいられない。
満身創痍のオルガ、それに対して顔と体の一部にやけどを負っただけのアベル。
傍から見ればこの状態、オルガの不利にしか見えない。
アベルの内心を知らない彼もそのように感じていた。
(不利ならてめえの命ぐらい張らなきゃ勝ちは掴めねえだろ。しかし、これはあれだな。旦那風に言うと面白くなってきたってやつか。)
アベルとオルガの最大の違い。
それは決断の速さである。
彼はアベルとは違い、賭けにあっさりと自分の命を対価として支払うことが出来るのだ。
それは死を恐れていないのではない。
死なないためには迷いがあってはならないという彼自身の経験から来た哲学ゆえである。
「さあ、来いよ! 騎士さんよお! 宴会のための準備をしなきゃならねえんだ。さっさとけりつけようぜ!」
事実叫ぶオルガの顔に迷いはない。
それどころか少し先ほどよりも笑みが強くなった気さえする。
エオナほどではないにしろ彼もこの状況を楽しんでいるのかもしれない。
自分と対等に戦える人間がいるというこの状況を。
「どうした? 剣を構えたまま動かなくなって。しょんべんでも漏らしたか? それは大変だ。ママに怒られちゃうぞ。」
「……あいにくだが漏らしてもいないし、叱ってくれる母ももういない。」
「そうか、悪いこと言ったな。お詫びにその母親の元に送ってやるよ。花束とお礼の手紙を準備しな。地獄にいるならきっと会えるぜ。」
「断る。まだ、母に会う気はさらさらないからな。代わりにお前が行ってこい。俺は元気に公爵の所で働いているとな。」
アベルは柄にもなく強気な言葉を吐きながら手の甲で涙を乱暴に拭くと地面に向かって痰を吐き捨てた。
そして、ゆっくりとオルガとの距離を縮めてくる。
(恐らく次の一撃で勝負が決する……。俺の読みが勝つか、こいつの能力が勝つか、見ものじゃねえか。)
動かず構えているオルガは浮き出てくる冷や汗を無視しアベルを睨んでいる。
もう彼に躊躇や甘い考えなど存在しない。
確実にアベルの息の根を止めることだけに集中している。
仮にアベルが幼子であったとしても今の彼なら何のためらいもなく惨殺するであろう。
(さあ、来い! 剣を振るったとき、それがお前の敗北の合図だぜ!)
すでに互いの制空権に入っている。
だが、互いに攻撃の手を出さなかった。
いつでも相手を殺せる距離で二人の間の時間が止まる。
それは1分、いや彼らには何時間とも思える時間であったであろう。
現実では1秒にも満たないこの沈黙を破り先に動いたのはアベルであった。
「らあああああああ!」
彼が突きを放った。
狙うはオルガの眼球。
守りの薄い目から直接脳を狙うという魂胆であった。
常時のオルガが相手では彼もこんなかわされるに決まっている攻撃には出なかっただろう。
だが、動きが取れず体の動きが鈍っている今なら成功する確率は十二分にあると彼は思っていた。
「ぬおおおおおおお!」
しかし、それは実現しなかった。
オルガの眼球の言葉のままに目前で止められたのだ。
いかなる衝撃も無効化、弾き返すアベルの一撃を防いだのは彼の大きな手であった。
彼はアベルの突きの軌道を読みそれに向かって己の右手を突き刺したのだ。
貫通した右手をそのまま差し込み剣の柄を押さえこの一撃を止めたのである。
自らの右手を犠牲にし、防御不能であったアベルの剣を防いだのだ。
「つ~かまえた。」
オルガは歯をむき出しにしながらそう言った。
その言葉の真意を最初は掴めなかったアベルではあったが剣を引こうとした瞬間にその意を理解した。
動かないのである。
いくら押しても引いてもピクリとも動かない。
オルガが刺さった手でガードを掴んでいるからだ。
「悪いがこんな危険なものは没収させてもらうぜ。」
彼はそう言い終わると同時に右手に力を込めた。
すると、ガードはまるで子供が紙で作ったおもちゃの剣のようにひしゃげそこで二つに分裂した。
手に穴が開いていようとも鬼の馬鹿力はなおも健在であった。
「さあ、お前さんのおもちゃは壊した。次に壊れるのはあんたの体だ。」




