第七章 鬼角島(二)
人の動く気配と、テントの隙間から差し込む光を感じて、伊織はまどろみから覚めた。おもむろに体を起こす。
「おはよう」
「おはよう。よく眠れたか?」
すでにテントの中に戻っていた黒揚羽が訊いた。
「まあまあ、ね」
伊織が曖昧な返事をすると、
「嘘、目が赤いわよ。さては心細くて泣いてたんでしょう」
千里がひょいと伊織の顔をのぞき込んで、にやにやする。
「馬鹿、泣くわけないだろ」
「冗談よ、冗談。すぐむきになるんだから」
その言葉をそっくり千里に返したいと思ったが、悪循環なのでやめておいた。
朝食に、昨夜の船で持ってきたコッペパン、トマトときゅうり、チーズを食べると、四人は麻袋に荷物をまとめ、昨夜来た道を引き返した。浜は一面、白やねずみ色や褐色の小石で覆われ、そこかしこに大きな岩が点在している。
「さあ、始めようか」
黒揚羽が、手近な岩に手を置いて言う。伊織たちはそろってうなずいたが、
「でも、どうやって高さを測る? 専用の道具でもあるの?」
「いや、岩そのものではなく、影を測ればいい。ミリメートル単位の細かさで測ることもないと思うし……。言い伝えからして、宝を隠した人々は測量の専門家ではなかっただろうし、あまりにも高度な技術が必要とあっては、肝心の子孫も宝を探し出せなくなってしまうからね」
手始めに、一見して高い岩に目星をつけることにする。十ばかり岩を選ぶと、影の差したところの先端に印をつけ、岩そのものからの距離を求める。成瀬が記録係を担って、その値を手帳に記していった。
「一番はあの入道雲のような岩、二番はあのだるまのような岩、三番はあの竜の頭のような岩、四番はあの鷲が羽を休めているような岩ですね」
成瀬が一つ一つ指さして教える。
「これが正解だという保証はないが、とにかく位置を特定して、掘り返してみないことには始まらないからね。次の段階へ進もう」
黒揚羽がきりっと口の端を持ち上げた。
「一の岩に紐を結んで、その紐を二の岩にも結んで、まっすぐ伸ばす。三と四も同様だ」
黒揚羽と千里が一と二の岩を、伊織と成瀬が三と四の岩を担当する。それぞれ紐を伸ばすと、波打ち際から五メートルほどのところで交差した。成瀬が流木を拾ってきて、目印として立てる。
「よし」
黒揚羽が両手をはたいて、
「次は親子松とやらを探せばいいんだ」
「親子松か……。夫婦松ならよく聞くけど」
伊織は目を宙に泳がせた。
「宮城県の七ヶ宿に、有名な親子松がありますよ。その名のとおり、大小の松が仲良く並んでいるのです」
成瀬が博識ぶりを披露する。
「下見に来たときは見つからなかった?」
黒揚羽と成瀬のどちらにともなく、伊織は尋ねた。
「ああ。江戸時代、すでにある程度成長していた松だろう。太くて目立つはずなのだが……」
黒揚羽はちょっと眉根を寄せたが、
「とにかく、もう一度本格的に探してみよう。次の手順……『まじわりしところより、おやこまつまでじっけん』という文句を考えると、さして離れた場所にあるとも思えない。二つの地点をつなぐには、糸なり紐なりを使ったはず。途中に障害物があると、まっすぐつなぐことができず、正確な位置がわからないからね」
この付近をということで、手分けして捜索を始める。松の木を見つけては、二本並んでいるか、親子と呼ぶのにふさわしい様相か調べていく。
三十分後、流木を立てた地点に集合した四人は、一様に浮かない顔をしていた。
「結果は? などと訊くまでもないようだな」
黒揚羽が全員を見回して言った。皮肉っぽいわけではなく、いささか途方に暮れたような口調だ。
「まさかもう枯れて……」
誰の心にも浮かんでいるであろう危惧を、伊織は思いきって口にする。
「ん……」
否定も肯定もせず、黒揚羽は腕を組む。
「ねえ!」
ふと、千里が沈黙を破って興奮した声を上げた。
「二本の松って、思い込んでるからいけないんじゃない?」
「どういうこと? だって、親子って言ったら……」
伊織の反論を遮って、
「あれだって親子に見えるわ」
千里が指さした先は、テントへと続く道の入り口のあたりだった。道の左端には大きな松がたたずんでいる。黒揚羽がはっと目をみはり、まず千里に、次に伊織と成瀬に大きくうなずいてみせる。
千里が駆け出すのを、ほかの三人が追う。問題の松はというと、幹の途中から、腕のように一本枝が伸びていて、先に葉が生い茂っている。そのため、大きな葉の塊の斜め上に、小さな葉の塊がくっついているように見えるのだった。人の手が入っていないのに、よくこんな面白い形に育ったものだと思わせる。
「なるほど……」
「灯台もと暗しというあれですね」
伊織と成瀬は木を見上げたまま、それぞれ感慨をもらした。
「でかしたぞ、千里」
伊織と成瀬の感嘆だけなら、千里は鼻を高くしたに違いないが、黒揚羽にも褒められたからだろう、むしろ照れくさそうに笑った。
「少し早いが、きりがよいから昼食にしよう」
「え? だけど先に……」
一刻も早く宝を掘り出したくてうずうずしているのだろう。千里が唇をとがらせたが、その瞬間ぐうと腹の虫が鳴ったので、ほかの三人はいっせいに噴き出した。
木陰に入り、朝の残りのコッペパンと、干し果物をかじる。潮風に吹かれ、S海岸より心なしか深い色合いの海を望みながら、「今日中に掘り当てられるといいんだけど」だの、「このあんずは私が干したのですよ」だの、「あ、珍しい鳥がいる」だの、和気あいあいと昼食をとっていると、行楽に来ているのかと錯覚してしまう。
「臨海学校を思い出すなあ」
伊織がふとつぶやくと、
「臨海学校?」
千里がきょとんと目をしばたたいて訊いた。
「そうだよ。千里の学校は……」
言いかけて、伊織ははっと口をつぐんだ。黒揚羽の手下である千里が学校へ通っているはずはない。今ばかりではなく、ひょっとしたら学校生活というものをまったく経験していないかもしれない。
「ごめん」
申し訳ない思いで謝ると、
「そんな、気にしてないわよ」
千里は戸惑ったような顔で、両手を慌ただしく左右に振った。が、何を思ったか不意に動きを止め、少女というよりは少年のような表情でにやにやして、
「じゃあ、お詫びに……」
もったいぶった口調で言うと、ひょいと伊織の前に手を伸ばした。最後の干しあんずをさらって、これ見よがしに口に放り込む。
「あ、こら」
伊織はちょっと語気を強めたが、もちろん本気で怒っているわけではない。失言を許してくれるなら、干しあんずの一つや二つ安いものだ。それに、もしかすると、わざと伊織にささやかな代償を払わせることで、重荷を背負わせまいとする、千里なりの配慮かもしれない。
軽く食休みをとると、
「それじゃあ、再開しようか」
黒揚羽はズボンの尻をはたいて立ち上がり、松の幹に紐を結びつけた。紐の玉を回してほどきながら、もと来た道を引き返していく。ほかの三人もあとをついていった。先程流木を立てた地点に着くと、適当な長さで紐を切り、流木に結びつける。
「ここから、紐に沿って十間測ればよいのですね。伊織君、ちょっと手伝ってください」
成瀬に頼まれ、伊織は巻尺の先を流木に合わせた。成瀬は目盛りを見ながらあとずさり、黒揚羽と千里がついていく。
「もういいですよ! このあたりです!」
成瀬が止まって叫んだので、伊織は駆け出した。三人に加わり、一見何の変哲もない、足元の薄茶色の土を見つめる。
「この下に、何万両の宝物が……」
千里が、期待よりも緊張の勝った面持ちでつぶやいた。埋蔵金の額が「何百両」なのか、「何千両」なのか、「何万両」なのかはわからないのだが、ここで水を差すような無粋者はいない。
「掘り返してみよう」
黒揚羽が宣言した。荷物を取ってきて、軍手をはめる。
「ある程度は誤差があるかもしれないし、深くなったら中で作業をするだろうから、このくらいの範囲を……」
黒揚羽は、直径一メートルほどの円を地面に描いた。
「四人で一緒に掘っても効率が悪いですから、交代で掘りましょう」
成瀬が提案し、まず自分がと名乗り出る。つるはしを手にして地面に突き立てた。
「なかなか固いですね」
そう言いつつも顔をしかめもせず、むだのない動きでつるはしを振るう。十分ごとに、伊織、黒揚羽、千里の順に交代することにした。
何度目の交代かわからない。伊織と入れ代わった成瀬が、身を乗り出して巻尺を垂らした。
「そろそろ五尺ですよ」
伊織は奮い立った。今こそシャベルの先が固いものに当たるかと、胸をときめかせて手を動かす。だが、期待する瞬間はなかなか訪れない。
「無理するなよ」
黒揚羽が気遣わしげに声をかけた。持ち回りの時間は過ぎていたようだが、伊織があまりに夢中なので、交代を名乗り出るのははばかられたらしい。
「うん、大丈夫……」
伊織は汗をぬぐい、半ば無意識に答えた。さらに十分ほど堀り続けただろうか、さすがに疲れて穴の内側にもたれかかる。膝ががくがくと笑い、腕や腰が痛んだ。ロープにすがって這い上がり、水筒に口をつける。
他の三人が一巡、伊織を含めてもう一巡し、穴を広げてみたが、びた一文出てはこない。
「次を試してみたほうがいいかもしれないな」
いたわりと慰めの色はあるが、湿っぽくはない口調で、黒揚羽が言った。
だが、予定どおり、岩場の先端から岩を数えて、近い順に一から四の順位をつけて試してみても、結果は同じだった。
「やっぱりはじめから……岩の解釈が間違っていたのかなあ」
ぽっかりと二つの口を開けた地面を、伊織は未練がましく見やる。
「結構自信があったのに……」
千里もがっくりと肩を落とす。
「まあまあ、そう簡単に見つかっては面白くありませんよ。苦労してこそ宝探しの醍醐味があり、喜びも増すというものです」
成瀬の冷静で前向きな発言に、
「そりゃそうなんだけど……」
千里は割りきれないという顔をして、足元の小石を爪先でつついた。
「とにかくふりだしに戻ろう。一、二、三、四という数字について、ほかに思い当たることはないか?」
黒揚羽が指揮を執り、
「キーワードが生き物の名前でもあれば、この島が鬼の頭にたとえられているように、形が似ているということが考えられるんだが……いかんせん数字ではな」
首をひねる。
「方位に当てはめて、東西南北ってのは?」
伊織がとっさに思いつきを口にすると、
「目のつけどころはいいが……」
黒揚羽は軽く握ったこぶしをあごに当てて、
「それだけでは、あまりに漠然としていて、岩を特定できないのではないだろうか? たとえば東の岩と一口に言っても、どこからどこまでの範囲が東なのかも、その中のどれが該当の岩なのかもわからない」
「それに、東西南北ともいうけど、北南西東ともいうでしょう? どっちだか判断できないわ」
日頃の、歯に衣着せぬ物言いを取り戻した千里が口を挟む。
「そうだよなあ」
自分の考えの欠陥には気づいていたので、伊織はしみじみと同意して引き下がった。
「春夏秋冬、甲乙丙丁なんてもっとわからないし……」
四種類あるものにこだわっていた伊織は、独り言のようにつぶやく。
「睦月如月弥生卯月、子丑寅卯というのも無理がありますね」
成瀬があとを引き取るように言った。
三人寄れば文殊の知恵とはいうが、四人寄っても名案は浮かばなかった。しまいには誰もが考えを出し尽くし、岩に腰かけて黙り込んでしまう。
「こうしていても埒が空くまい。今日のところは切り上げようか」
黒揚羽が吹っきれたような調子で言った。正直なところ、頭を働かせるのに倦み疲れていた伊織は、「うん」と一言同意する。がっかりする反面、どこかほっとしたような気もした。
「その前に、穴を埋め立てよう。無人島だから第三者を巻き込むことはないが、私たちは明日もこのあたりで作業をするんだ。万一落ちたら大変だよ」
「う……」
千里が喉をつまらせたような、妙な呻き声をもらした。黒揚羽の指示だから口には出さないものの、どうやら疲れた心と体でもう一仕事するのが億劫らしい。それでも、一瞬決まり悪そうな顔をしたあと、
「そのとおりね、お姉さま」
そのくらい大したことはない、と言わんばかりに相づちを打つ。
掘ったとき同様、交代制で、こんもりと盛られた土をシャベルですくっては穴に落としていく。最後に足やらシャベルの背やらで地面をならした。
紐を回収し、目印に立てていた流木を引き抜く。小さな道具はもとどおり麻袋に詰め、つるはしやシャベルはそのまま抱えて、四人は帰路をたどった。
テントに戻ると、
「さあ、夕食の支度ですよ」
成瀬が珍しく張りきって――いや、張りきった様子を表に出して、テントの片隅に膝を突いた。そう食い意地が張っているようには見えないから、食事というより料理が好きなのだろう。食料袋をまさぐり、じゃがいもやらにんじんやら玉ねぎやらを丁寧に取り出す。
「もしかしてカレーですか?」
伊織が食材をのぞき込んで訊くと、
「そうですよ。もっとも、お肉は傷みやすくて、持ってこられませんでしたので、代わりにこれを」
成瀬は、えびの缶詰とほたての缶詰を一つずつつかんで、ちょっと持ち上げた。
「十分すぎるくらいですよ。我が家のカレーなんて、具なんてあってなきがごとしなんですから」
伊織は声を弾ませたが、由紀子手製のカレーを思い浮かべると、ふと懐かしさに胸を締めつけられた。同時にある引っかかりも覚え、
「あの……その缶詰って、鈴倉海産のですか?」
尋ねてみる。成瀬は心得顔で、ゆっくりと首を左右に振り、
「いえいえ、違いますよ。会長があんな男とあっては、できれば鈴倉海産の製品は買いたくないと思うのが、人情ですからね」
伊織の気持ちを代弁してくれた。
テントの裏手、火の粉がかからないように数メートル離れたところに、かまどを二つこしらえる。一つは三つの石を三角形の頂点に置いただけのもの、もう一つは二股の枝を二本立て、もう一本枝を差し渡したものだ。たきぎに用いる枝も拾い集めてくる。
黒揚羽が米をとぎ、成瀬がかまどにたきぎをくべて火を点ける。怪盗とその手下である二人の家庭的な姿は、奇妙であると同時に微笑ましかった。伊織は千里とともに、食材を切る役を割り当てられた。隣の千里を盗み見ながら包丁を握ったが、
「そんなに厚く皮をむいたら、食べるところがなくなっちゃうわ」
だの、
「じゃがいもの芽には毒があるのよ。えぐらなきゃだめじゃない」
だの叱られどおしだった。
「台所になんか立ったことがないんだよ」
伊織はささやかに弁解する。おまけにたまねぎが目にしみて、涙はにじむし鼻もぐずぐずする。我ながらはなはだ情けない姿だ。
枝のかまどに飯盒をかけ、石のかまどにフライパンをのせる。成瀬が玉ねぎと小麦粉を炒め、最後にカレー粉を加える。次は鍋を火にかけ、じゃがいも、にんじん、缶詰のえびとほたてを煮込むと、先程炒めた食材を鍋に移した。独特の香りが周囲に漂い、食欲を刺激される。
「いい炊き具合だぞ」
ごはんを蒸らしていた飯盒のふたを開け、黒揚羽が声を上げる。そのまま四枚の皿によそってくれた。その上から成瀬ができたてのカレールーをかける。
「いただきます」
ごはんをスプーンで崩して口に運ぶ。給食のカレールーなどは、パンに合うようスープ状に薄められているものだが、このルーはもっと濃厚だ。ごはんもふっくらと炊き上がり、程良く焦げていて香ばしい。
折しも日暮れ時だった。緋色といってもまだ不足なほど赤々と燃える夕日が、じりじりと沈んでいく。東から、はなだ色、すみれ色、鴇色と、階調を作って空が染まっている。野外で食事をするには最高のひとときだった。
後片づけを始める段になると、
「伊織さん、洗い物は手伝わなくていいわ」
下ごしらえでよほど懲りたのだろう、伊織が何も言わないうちに、千里は押しとどめるようにてのひらを突き出した。割れ物といえば、四枚の皿と四つのコップだけなのに、だ。
「そこまで不器用じゃないよ」
伊織は言い張ったが、
「だめ。当てにならないわ」
千里に一蹴され、結局ごみの始末を請け負うことになった。野外のことなので、野菜の皮を埋めたり、皿を拭いた新聞紙をまとめたりする。
濡らした手ぬぐいで汗を落とし、寝支度を整える。それこそ臨海学校や修学旅行であれば、これからが醍醐味、枕投げにゲームに怪談に――男子なら猥談にも興じるところなのだが、もちろんそんなのんきなことはしていられない。
「疲れているとは思うが、二人組に分かれて見張りをしてほしい。今から朝の七時ごろまで、五時間ずつでどうだろう?」
黒揚羽が切り出した。三人はいっせいにうなずく。
「黒揚羽様が先におやすみください。昨夜から一睡もしていらっしゃいませんでしょう」
成瀬が気遣わしげに眉根を寄せた。
「ああ。お言葉に甘えて、そうさせてもらうよ」
成瀬の勧めに、黒揚羽は素直に従う。
「あたし、お姉さまと一緒がいいわ」
すかさず千里が希望し、寄り添うように黒揚羽に歩み寄る。必然的に、伊織と成瀬が前半の五時間を受け持つことになった。
成瀬がテントのそばにむしろを広げる。二人して腰を下ろした。黒揚羽と千里はすぐに床に就いてしまったらしく、テントの中は物音一つしなくなった。四人が二人になると、特に千里のおしゃべりが聞かれなくなると、にわかにもの淋しさが募る。
「成瀬さんって、すごい方ですね」
気をまぎらせたいのが半分、本当に感心していたのが半分で、伊織は口を開いた。
「なぜそんなことを?」
成瀬はゆっくりと伊織に顔を向けた。
「だってほら、何でも……車の運転も船の操縦も料理もできるでしょう」
成瀬はくすりと笑った。
「できることをできないと言い張る謙遜などに意味はありませんから、それは否定しませんが、だからといってすごい人物だとは限りませんよ」
ちょっと物思いにふけるように、二、三秒置いて、
「私だとて、黒揚羽様に出会うまではどうしようもない男だったものです」
「成瀬さんが?」
「確かにもとは堅気な人間でした。小学校の教師をしておりましてね。自分で言うのも何ですが、働きぶりも真面目で、教え子たちにも慕われていたと思いますよ」
伊織は驚いたが、それは新しい事実を知った驚きだ。成瀬が教壇に立つ姿というのは、容易すぎるほど容易に想像できる。
「ですが、戦争が何もかも変えてしまった。徴兵され、激戦地に配属され、終戦後やっとの思いで帰郷してみれば、家族はすでに空襲で全滅していたのです」
成瀬はじっと虚空を見つめる。伊織は胸をつかれて、黙ってその横顔を眺めていた。
「私はすっかり自暴自棄になりました。酒や賭博に溺れ、詐欺やら恐喝やら犯罪まがいの……いえ、まぎれもない犯罪を繰り返すようになったのです。そんなある日、奪った金の分配でもめて、悪党仲間に刺されましてね。通りかかった黒揚羽様に命を救われたのですよ」
「それで、手下にならないか、って持ちかけられたんですか?」
「というよりは、いつの間にかそうなっていた、というほうが正確でしょうね。当時、黒揚羽様はすでに、怪盗としての指針を持っていらっしゃいました。世の中に絶望していた私の目に、怪盗などという夢のような存在になろうとする黒揚羽様は、浮き世離れしているがゆえに、まぶしく映ったのですよ。あるいは、自分と同様愛する者を奪われながら、誇り高く生きている黒揚羽様に、共感と尊敬の念を抱いたのかもしれません」
「だから、様付けで呼んでいるんですか?」
「さまづけ?」
「あ、ほら……『黒揚羽様』って」
「ああ。いえ、それは強いて言うなら雰囲気ですね。怪盗の……それも美しい少女の怪盗の手下ときたら、やはりうやうやしい物腰でないと様にならないでしょう? その実、この口調は教員時代の癖なのですけれど」
伊織は危うく噴き出すところだった。この人も伊織に負けず劣らずのロマンチストなのかもしれない。
「それにしても、年甲斐もなくこんな青臭い台詞を吐いてしまって、千里が聞いたらまた何やかんやと責め立てますね」
それは間違いないが、同意するのも失礼な気がして、伊織は黙って微笑んでみせた。成瀬も微笑で答えたが、ふとまた遠い目をして、
「千里も同じです。もっとも、あの子は私のように悪質な犯罪に手を染めてなどいません。ただ、いわゆる戦災孤児で、生きるためには何でも……靴磨きでもたばこ拾いでもすりでも、せざるを得ない境遇だったようです。すりでしくじって警察に連行されるところを、やはり黒揚羽様がお救いになったのですよ」
「そうだったんですか……」
千里の天真爛漫な笑顔を、伊織は初めて痛ましさとともに思い浮かべた。三者三様暗い過去を背負っているのだ。そう思うと、氏素性が知れぬゆえに不当な扱いを受けることはあっても、優しい両親の庇護のもとで安穏と暮らしてきたことに、負い目のようなものを覚えてしまう。
(こんな僕じゃ、黒揚羽に守られてばかりなのも当然なのか……)
あやめ荘での一件が、伊織の中でまだ尾を引いているのだった。
「当初は黒揚羽様にも私にもつっけんどんで、子猫なら毛を逆立てて威嚇しているだろうというありさまでしたが、一度気を許してからは、一事が万事あの調子です」
話が重くなりすぎたと思ったのか、成瀬はおどけたようにまばたきしてみせた。彼まで千里を子猫になぞらえるのを聞くと、伊織はちょっとおかしくなった。
噂をすれば影というのか、ちょうどそのとき、千里がテントから這い出してきた。
「どうしたの?」
「訊くもんじゃないわよ、馬鹿」
「どうしたの」の一言だけで馬鹿呼ばわりされる筋合いはないと思ったが、千里が茂みの中に分け入っていくのを見て合点がいった。
女の子が用を足しているそばでは、何食わぬ顔でしゃべっているのと、口をつぐんでいるの、どちらが礼儀にかなっているのだろう。伊織が考えあぐね、結局黙り込んでいると、
「きゃあっ!」
茂みの中から甲高い悲鳴が響いた。伊織と成瀬は同時に振り向く。がさがさと大きな葉ずれの音がする。
(まさか……この場所を突き止められたのか?)
ずっと頭のすみに引っかかっていた懸念が、にわかに現実味を帯びて伊織に迫ってくる。
「成瀬さん!」
思わず声を上げた。成瀬は手元にあった懐中電灯をつかみ、警戒しつつ茂みに近づく。眠りのうちにも千里の悲鳴が聞こえたのか、黒揚羽も起き出して駆け寄ってきた。無言のまま瞳に真剣な光をたたえ、伊織たちと同じ方向を見つめる。
左右の森から四人の人影が飛び出してきた。そのうちの一人が誰かを、伊織は瞬時に認識した。いや、姿を現す前からわかっていたというほうが正確かもしれない。懐中電灯の光が、眼鏡にきらりと反射する。
「佐々木……」
伊織はかすれ声でつぶやいた。
残りの三人の男のうち、一人はこれも見覚えがあった。伊織が土蔵に監禁されたとき、地下室の入り口で見張りをしていた下男の平岡で、もがく千里をはがいじめにしている。あのあと総一郎の烈火のごとき怒りを買ったに違いなく、そのせいか、伊織たちを憎々しげに睨んでいる。
「こいつの命が惜しかったら、おとなしくしたまえ」
千里の頭に拳銃を突きつけながら、佐々木がお決まりの台詞を吐いた。
「手を挙げろ」
三人は目を見交わし、ゆっくり両手を挙げる。
「そうだ、そのまま動くな」
佐々木は釘を差して、伊織が見知らぬ二人の男に目くばせした。二人とも、着古した無地のシャツの下に筋骨隆々とした体つきが見て取れ、夜目にもわかるほど色が黒い。ちょっと彫りの深い顔立ちも似通っている。年かさのほうが五十代前半、若いほうが二十代半ばというところ――おそらく親子だろう。ただ、父親がどこかおどおどして、佐々木の顔色をうかがっているのに比べ、息子は伊織たちを鋭く見据えていた。
二人は伊織たちに近づき、後ろ手に手錠をかけると、身体検査を始めた。ナイフから小銭まで、持ち物をあらかた奪われる。黒揚羽と成瀬に至っては、針金、小瓶、マッチ、絹紐、鉛筆など、伊織まで驚いたほど多様なものを押収された。その後はそれぞれ木の幹に縛りつけられる。最後は人質に取られていた千里で、
「どこ触ってるのよ!」
体を探られている間中わめいていた。が、黒揚羽の隣の木に縛りつけられると、とたんにしゅんとする。
「ごめんなさい。油断しちゃって……」
ただでさえ小柄な体がさらに小さく見えた。
「気にするな。待ち伏せされていたんだ、遅かれ早かれこうなったはずさ」
黒揚羽がなだめた。
「それにしても……」
自由を奪われはしたものの、千里から銃口が離れたことで、伊織はやや余裕を取り戻した。
「いったいどうして、僕らの居場所がわかったんですか?」
未だに丁寧語を使ってしまう自分に呆れながら、佐々木に尋ねる。
「その二人からだろう?」
代わりに口を開いたのは黒揚羽だ。
「え?」
「単純な話さ。総一郎に私たちの行動がもれるとしたら、宿の主人が裏切るか、船を貸してくれた漁師が密告するかだ。そして、前者なら宿の主人本人がここに来るはず。こういうことを頼む相手には、彼も事欠かないだろうが、わざわざ人に任せる理由がなさそうだからね。すると、この二人は船の持ち主の漁師か、総一郎が雇ったならず者ということになる。裏の世界の人間には見えないし、体格や日焼け具合からして……」
「でも、直接船を借りたのは君じゃなくて、宿のご主人なんだろう? そのときに君の名前を出したはずがない。だったら漁師の人には、船を使うのが君だなんてことわかりっこないよ」
「それはそうだ。だが、不審に思った相手が、『こんなことがあった』と総一郎に密告することはあり得る。鈴倉家は、この土地では警察以上の影響力を持っているようだからね」
「そのとおりだよ」
意外にも、答えを与えたのは当の二人のうち、若いほうの男だった。
「健吾」
父親らしい男がうろたえて声を上げるが、健吾と呼ばれた青年は口をつぐまない。
「あんな得体の知れない男が、ちゃちな漁船を高い金で貸してくれなんて、子供だっておかしいと思うさ。あんたたちは金で口止めしたつもりだったんだろうが……。このあたりじゃ、総一郎様は殿様みたいなもんだ。案外重大なことかもしれないし、お耳に入れておこうと思ってね」
気のせいか、青年からは、ことさら黒揚羽をおとしめたがっているような敵意が伝わってくる。といって、言葉のわりには総一郎に対する敬愛や忠誠も感じられなかった。だが、仮にそのことを追及するとしても後回しだ。
「それにしても、どうしてこの島がわかったんですか? 僕たちは、この四人の間でしか、鬼角島の名前を出さなかったはずなのに」
「おまえたちが船を借りたということを知って」
健吾ばかりにしゃべらせておくのも立場がないと思ったのか、今までだんまりを決め込んでいた佐々木がようやく口を開いた。
「もう一度暗号文を眺めているうちに……ああ、おまえたちに盗まれたとはいえ、内容は覚え込んでいたからな、総一郎様が思いつかれたのだ。冒頭の『しだき』とは『下田沖』のことではないかと。そして、下田沖には鬼角島という無人島がある。これも暗号文とぴったり符合する。あとは先回りして、おまえたちがのこのこやってくるのを待ち伏せていたわけだよ」
「下見に来たときは人の気配はなかったが……早すぎてしまったのか」
記憶をたどるように瞳を凝らして、黒揚羽がつぶやいた。
「本当はあえて泳がせておいて、宝を発掘したところを奇襲する予定だった。が、思いのほかてこずっているようだったからな。いささか荒っぽいが、こういう手段に出て暗号文ごと奪い取り、我々が解読したほうが早いと判断したのだ」
佐々木は講義のように淡々と語る。
「黒揚羽」
再び健吾が会話に割って入った。全員の視線が健吾に集中する。
「俺たちみたいな田舎の漁師の耳にだって、あんたの噂は耳に入ってくる」
健吾はぐっと腕を突っ張り、こぶしを固めた。
(いったい何を言い出すんだろう?)
伊織は目をしばたたく。
「そのたんびに、俺はむかっ腹が立ってしかたなかった。金持ちしか狙わないの、民衆の味方だのといい格好しやがって、じゃあ盗んだ宝石だの絵だのはどこに消えてるんだ? 本当に貧しい者、苦しんでる者には何もしてやいないじゃないか!」
決して豊かな暮らしをしていないであろう健吾には、黒揚羽の行為が、苦労知らずの少女の自己満足や偽善に思われ、我慢ならないらしい。彼の言い分は筋違いだということもできたし、黒揚羽の過去を多少なりとも知っている身としては、反論したくもある。だが、その切実な叫びに、伊織は自分たちを売り飛ばした相手に対する怒りがしぼんでいくのを感じた。
「……おまえのような見方をする人間がいることは承知しているし、それに対して責める気も言い返す気もない」
黒揚羽はゆっくりと語り出した。
「ただ、一つだけ断わっておくと、私は義賊ではないぞ。貧しい人々に迷惑をかけたくはないし、同じ盗むなら、ただ裕福なだけでなく、性悪で欲の皮の突っ張った連中から盗んだほうが後味が悪くない、と思ってはいる。だが、盗んだものを社会に還元しようという気はない」
黒揚羽の冷静な反応に、一瞬健吾は虚をつかれたようであったが、
「だったら……だったら、そもそもどうして泥棒なんかやってるんだ?」
すぐに気勢を取り戻して詰問した。
「そうだな……」
黒揚羽は真剣に考え込んで、
「こういう生き方しか知らないからかもしれないし、私にとっては盗むことがいちばん喜びを感じる営みだからかもしれない。医者が患者を治すことに、教師が生徒に学問を教えることに、芸術家が作品を創作することに、それぞれ喜びを感じるように。だが、それがなぜかと突きつめて問われれば、合理的な答えなど誰も出すことができないだろう?」
かすかに微笑をさえ浮かべた。
「ていのいい言葉で逃げやがって……」
健吾はいまいましげに舌打ちする。
「もういいだろう」
手を斜め後ろに押しやるように動かして、佐々木が健吾を制止し、
「余計なおしゃべりは終わりだ」
一歩前に進み出た。自分の主張を「余計なおしゃべり」と一蹴されたことが不愉快だったのか、健吾がいささかむっとした顔をする。
「いやだと言ったらどうなるか、警察を手玉に取るほど賢いおまえなら、よくわかっているだろう」
黒揚羽はちょっと顔を傾け、軽蔑の眼差しで佐々木を見やったまま黙っている。
佐々木は黒揚羽に近づくと見せかけて、
「だが、我々にも人並みの知恵はあるつもりだ。おまえに口を割らせるには、どうすればいちばん効果的か、そのくらいの見当はつく」
ふと向きを変えて千里に近づいた。
「待て、その子に手を出すな! だったら私を!」
佐々木の意図を察し、黒揚羽がにわかに血相を変える。
「何よ」
千里は上目遣いに佐々木を睨みつけた。その細首に、佐々木はいきなり両手をかける。千里は一瞬場違いなくらいきょとんとした。
「やめろ! 宝なんていくらでもくれてやる!」
屈服を示す黒揚羽の一言。さしもの固い結び目もゆるむのではないか、と思わせるほどの勢いで身をよじる。
「やめてください!」
「よしなさい!」
伊織と成瀬もいたたまれずに叫んだ。だが、佐々木は三人を一瞥し、そのまま両手に力をこめる。
「くっ……」
千里は呻き声を上げたが、それさえすぐに封じられた。佐々木とて、人質である千里を本気で殺すつもりはないのかもしれないが、そんなことで安心していられるはずはない。あの勝気でおてんばな千里が、今やなすすべもなく、顔をゆがめて苦しんでいる。陸に上げられた魚のように、縛られた体を悶えて――。痛ましさのあまり、伊織の膝から力が抜けていく。
「くれてやる、と言ったじゃないか! もうやめてくれ、頼むから……」
黒揚羽が別人のように取り乱し、懇願する。佐々木はようやく力をゆるめたらしい。それでもまだ千里の首から手を離さぬまま、ゆっくりと黒揚羽のほうを向き、
「強情を張るとどうなるか、思い知っただろう」
人の首を絞めたあととは思えぬ、悠然とした調子で言い放った。やや上を向かされている千里は、あえぐとも咳き込むともつかぬ調子で、苦しげに呼吸する。
「千里! 大丈夫か!」
「大丈夫よ……」
先程まで佐々木の暴虐を受けていた喉から、かすれ声がもれる。
「あたし、丈夫なのだけが取り柄だもの」
無理に笑おうとする様がいじらしかった。が、黒揚羽が決意の表情で口を開こうとすると、
「だめよ、教えちゃ!」
思いがけず強い声を上げた。
「せっかくここまで来たんじゃない。どうしても譲れない思いがあるんでしょう?」
「譲れない思い」という言葉に、黒揚羽ははっと目を見開いたが、
「馬鹿なことを言うんじゃない」
穏やかに、だがきっぱりと諭す。
「人の命を犠牲にしてまで叶えたい願いなどあるものか。何より、私はもう二度と大切な者を喪いたくはない」
悔しさと喜びという、まったく異質な感情をないまぜに浮かべ、千里が泣き出しそうに顔をゆがめる。
「麗しい姉妹愛もよいが、とっとと教えてはもらえまいか」
佐々木は、黒揚羽と千里を本当の姉妹だと思い込んでいるのかもしれない。黒揚羽は打って変わった鋭い視線を佐々木に投げ、
「しもだおきおにつのじま」
前置きをする義理もないと思ったのか、唐突に、朗々と暗誦し始めた。佐々木はさっと懐に手を入れ、手帳と万年筆を取り出す。
「おにのはなづら、いちのいわにのにわをむすび、みのいわしのいわをむすべ。まじわりしところより、おやこまつまでじっけんゆきしところ、ちのなかごしゃく。これで全部だ」
黒揚羽が締めくくると、佐々木は手帳を見ながら復誦し、
「間違いないな?」
底光りする目で念を押した。黒揚羽はひるみもせず、「ああ」とそっけなく答える。
「最大の目的は果たしたが、埋蔵金が見つかるまで、おまえたちには付き合ってもらうとしよう。総一郎様もそれをお望みだ」
佐々木が、後生大事に手帳を懐にしまいながら言う。
「あの人は……ここに来るんですか?」
総一郎の名が出てきたので、伊織は尋ねた。もう祖父とは思っていないとはいえ、事件の元凶であり、黒揚羽の宿敵たる総一郎が、この場に立ち会うのかどうかは、やはり気にかかることだ。
「ああ。埋蔵金が発掘されるのを、ご自身の目で見たいとおっしゃっていたからな。それから」
話し方に技巧を弄さない佐々木にしては珍しく、もったいぶるように言葉を切る。
「おまえたちの最期も」
伊織の心に電流のような衝撃が走った。用済みになった自分たちを、総一郎が生かしておくはずはない。無意識のうちにわかってはいたが、こうしてはっきり口に出されると、押し殺そうとしていた恐怖がむくむくと頭をもたげてくる。伊織はほかの三人に順に目をやった。誰も険しい顔つきではあるが、さすがに百戦錬磨の三人だ、隙あらば抵抗しようという気概を失ってはいない。
(そうだ、絶望するにはまだ早い。今度はひとりじゃないんだ)
伊織は勇気づけられる。
「岩崎」
佐々木が呼ぶと、健吾の父親がはっと顔を上げた。なるほど、この親子の姓は岩崎というらしい。
「予定どおり、一度鈴倉邸に戻りたまえ。総一郎様に状況をご報告し、お連れしてくるのだ」
「かしこまりました」
岩崎はぺこりと頭を下げ、足早に南へ向かった。