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第七章 鬼角島(一)

 目を覚ますと、白茶けた見慣れぬ壁が見えた。日中らしいが曇っているのか、真夏らしい強烈な日光が感じられず、室内はやや薄暗い。

「あ、起きた」

 いやにのんきな声がして、千里が両手両膝を突いてにじり寄ってきた。そんなしぐさをするとまるきり子猫だ。

「おはよう、千里」

 伊織はゆっくりと上半身を起こした。背中には膏薬(こうやく)か何かを貼られている感触があり、痛みはだいぶ引けている。

「おはようって時間じゃないけど」

 千里はあげ足を取ったが、

「まあ、今日は責めるつもりはないわ」

 すぐに弁解するように付け足した。

「何時?」

「一時よ」

「一時……」

 伊織は目を白黒させた。確かに、遅いどころか朝ですらない時刻だ。

「水でも飲む?」

 千里に勧められて初めて、伊織は自分がひりつくように喉が渇いていて、腹と背がくっつきそうなほど空腹だということに気づいた。

「うん、いただくよ」

 千里は盆を引き寄せて、涼やかなガラスの水差しを手に取ると、水をコップについで伊織に手渡す。それを一息に飲み干すと、伊織は室内を見回した。山水画のふすま、障子戸、押し入れ、色あせた畳、円錐型のかさのついた電球――平凡で殺風景な和室だ。もっとも印象は小ぎれいで、畳にはちり一つ落ちてはいないし、障子紙とてどこも破れてはいない。

「ここはどこ?」

「下田の連れ込み宿。あやめ荘っていうの」

 千里はあっけらかんと、簡潔かつ率直に答える。伊織は危うくコップを取り落としかけたが、

「変な想像しないでよ。お姉さまがつてをたどって探してくれたの。宿の主人はお姉さまの友達の友達」

 眉を逆ハの字にして、千里が説明を加える。

「……信用できるの?」

「友達の友達」とか「知り合いの知り合い」とかいうものは、往々にして当てにならないことが多いものだ。

「失礼ね。信頼は心で作るものだ、って言ったのはあなたよ」

「それをきざだって馬鹿にしたのは君だぞ」

「時と場合によるのよ」

 千里は減らず口を叩いたが、その強気な表情がふと曇って、

「確かに、どこへ行くかとか、何が目的だとか、具体的な話は一切していないんだけどね。向こうは宿を提供して、こっちはそれに見合う報酬を払う、それだけの関係よ」

 すれたような、だがどこか淋しげな調子で言った。そんな顔をされると返答に窮してしまう。もとより伊織も強く疑っているわけではなかったし、これ以上追及するつもりはなかった。

「だから念のため、伊織さんも島の名前は口に出さないで」

「わかった」

 千里の指示を真顔で受け、

「それはそうと、黒揚羽と成瀬さんは?」

「隣の部屋よ。伊織さんが目を覚ましたって知らせてくるわ」

「部屋を出ても大丈夫なの?」

「ええ。今、お客さんは私たちしかいないもの」

 経営は大丈夫なのだろうかと思ったが、連れ込み宿なら真っ昼間からそう盛況であるはずもない。

 千里が廊下へ出ていくと、「伊織さんが……」「よかった……」会話の断片がかすかに聞こえてくる。すぐに千里は、黒揚羽と成瀬を連れて戻ってきた。

「伊織、おはよう」

 黒揚羽が喜色を浮かべて、

「傷の具合はどうだ?」

「うん、だいぶいいよ。手当てしてくれたんだね」

「ああ、千里がな」

 意外な答えに、伊織が千里に視線を移すと、

「そんなこと言わなくてもいいのに……」

 千里はすねたそぶりを見せる。

「わかったわかった。とりあえず、伊織の食事を運んできてくれないか」

 黒揚羽が笑って頼むと、

「はあい」

 千里は案外素直に立ち上がって、ふすまを開けた。階段を軽やかに下りる音が聞こえる。しばらくして、

「失礼します」

 盆を両手で持った男が、千里と一緒に入ってきた。三十代と言われれば三十代にも、五十代と言われれば五十代にも見える、年齢不詳の、しぐさが妙に女性的な男だ。おそらくあやめ荘の主人だろう。

 男は盆を伊織の枕元に置く。おにぎり二つとたくあんを盛った四角い皿と、ほうじ茶の入った湯呑みがのっていた。口の中に生唾がわき、ぐうと腹が鳴る。

「大変な目に遭われたようですねえ」

 男は同情の目で伊織を見つめ、

「さあさあ、どうぞ召し上がってください」

 てのひらを上に向け、押し出すように指先で盆に触れた。

「ああ、はい。ありがとうございます」

 伊織が頭を下げると、

「またご用がありましたら、何なりとお申しつけ下さい」

 男はそう言い残して帰っていった。

 おにぎりを手に取ると、香ばしいのりの香りが鼻腔をくすぐる。伊織は矢も盾もたまらずかぶりついた。温かいごはんに梅干しの酸味と塩気――。素朴なおにぎりが最高のごちそうに思われる。夢中になってほおばっていると、

「あんまり慌てると腹を壊すぞ」

 黒揚羽が苦笑混じりにたしなめた。伊織は我に返って赤面したが、食欲には勝てない。

 あっという間に平らげて両手を合わせ、

「ようやく人心地がついたよ」

 深々と息をつく。

「それは何よりだ。数日はここで休養するといい」

 黒揚羽は目を細めて言った。

「え……」

 そんなに休んでいなければならないのか? 伊織が戸惑った、かすかに抗議の意をこめた声を上げると、

「こら、気持ちはわかるが、宝よりも事件の解決よりも、体が大事だぞ。無理は私が許さない」

 黒揚羽はきっぱりと諭した。

「うん」

 そのとおりだ、焦ってもしかたがないと、伊織は素直にうなずく。そのとたん、頭の中でひらめいたことがあった。

「そういえば……叔父の件ってどうなったの?」

 己の窮地にすっかり気を取られていたが、忘れてはならないことだ。

「ああ」

 黒揚羽はすまなそうに顔を曇らせ、

「人を使って調べさせてはいるが、有力な手がかりはつかめていない。宝探しが終わったら、私も捜査に乗り出してみるよ」

 兵馬の犯行を示す証拠がつかめれば、黒揚羽の濡れ衣は晴れるが、彼は仮にも伊織の叔父であり、数馬の実の弟だ。真犯人であることを望むような反応もできない。伊織は生真面目にうなずいた。


 布団の上で、伊織は時間を持て余していた。瀕死の重傷というわけではなし、いくら疲労困憊(こんぱい)していたとはいえ、昼まで寝ていたとあっては、さすがに眠くもならない。逆に、千里が部屋の隅で壁にもたれ、舟をこいでいた。

 昨日の境遇に比べれば、ずいぶん贅沢な退屈だと思いながら、伊織はぼんやりと壁を眺めていた。これまでのこととこれからのことに思いをめぐらせているうちに、ふと昨夜の黒揚羽の言動に、気になるところがあったのを思い出した。伊織を抱きしめながらもらした、「ここはまだ使われていたのか」という暗い声――。

(総一郎には私怨がある、って言ってたよな、以前。いったい何が……?)

 だがそれを問いただすことは、黒揚羽の秘めた傷に触れる行為に違いない。軽い気持ちなどではないつもりだが、やはり掘り返してよいものかためらわれる。

「入るぞ」

 当の黒揚羽の声に、伊織ははっと我に返った。

「あ、うん」

 答えると、ふすまが開いて黒揚羽が顔をのぞかせた。

「どうしたの?」

「水差しの水を替えようと思ってな。もう残り少ないだろう?」

 黒揚羽はふと千里に目をやり、

「あの子も疲れたんだな」

 近づいて肩をそっと揺さぶった。千里は口の中でもごもご言って、うっすら目を開ける。

「あ……お姉さま」

「千里。ちょっと横になるか?」

「うん」

 千里は目をこすりながらうなずいた。黒揚羽は座布団を二つ折りにして、それを枕代わりにさせて千里を寝かせる。千里はたちまち安らかな寝息を立て始めた。その様子を、黒揚羽はしばし和やかな目で眺める。

「あのさ」

 伊織は思わず黒揚羽に呼びかけていた。

「うん?」

 黒揚羽は伊織に顔を向ける。そのくつろいだ表情を壊すのが悪いような気がして、

「いや、やっぱりいい」

 伊織はうつむちがちにかぶりを振る。

「何だ、かえって気になるぞ。言いにくいことなのか?」

「うん、まあ……」

 それでもまだ迷っていた伊織だが、

「黒揚羽は、前にもあの地下室に入ったことがあるの?」

 思いきって尋ねてみた。黒揚羽は一瞬目を見開いて体を強張らせたが、

「ああ、そうか。昨晩……」

 納得したようにつぶやく。

「差し出がましいこと訊いてごめん。ちょっと気になっただけ。無理に話さなくていいんだ」

 伊織は矢継ぎ早に言ったが、

「いや、構わないさ。千里も成瀬も知っていることだ。総一郎を次の標的にすると決めたときに、打ち明けたからな」

 黒揚羽は感情を害したふうではなく、その瞳は悲しげながらも澄んでいた。

「私は両親を早くに亡くしてね。父親代わりに育ててくれた人がいたんだ」

「ああ。僕が君の言葉遣いについて訊いたとき、ちらっと話に出てたね」

 黒揚羽が女学生姿で家を訪れた日の会話を、伊織は思い出す。

「そう。その人が、あそこで殺されたんだ」

「えっ……!?」

 想像以上に凄絶な事実に、伊織は絶句した。

「殺されたって、祖父に……?」

「ああ。事件は闇に葬られてしまったが……」

 黒揚羽は重々しくうなずく。「いろいろ後ろ暗いところのある男」だと聞かされてはいたし、昨日の朝の無慈悲な行為からもそれは想像のつく話だったが、まさか殺人にまで手を染めていたとは――。衝撃がじわじわと心に広がっていく。

「彼も優れた泥棒だった。盗みの技術も、金持ちしか狙わない、人殺しをしないという方針も、私は彼から受け継いだんだ。私のように予告状を出したりはしなかったから、表立って有名になることはなかったけれど」

「そう……だったんだ」

伊織は生唾を飲み込んで喉を湿す。

「殺されたのは、やっぱり鈴倉邸に忍び込んで……?」

「ああ。いつもなら、みすみす捕まるような人じゃなかったんだが、体を壊していてね。手術費を得るために鈴倉邸に盗みに入ったらしい。心配させまいと、私が寝ている間に出ていったのだが、丸一日経っても帰ってこない。彼が鈴倉邸に目をつけていたことは知っていたから、私はもしやと思って捜しに行った。そして、あの土蔵の地下室で彼を見つけたのだが、そのときにはもう……」

 黒揚羽は目を伏せた。伊織はしばし言葉を失う。

「本当にごめん。まさかそこまでつらい過去だとは思ってなくて……」

 ようやくしぼり出すように言った。

「気にするな。むしろ、おまえにとって酷な話じゃないか。仮にも身内が殺人者だったというのだから」

「でも、僕の場合は……。祖父とは血のつながりはあっても、心のつながりはない。向こうだって、僕のことを孫だなんて思っていない、って言ったくらいだ」

「そんなことを?」

 黒揚羽は眉をひそめた。

「うん。だから、どんなに極悪非道な人間だって知ったところで、今更傷つくでもないよ」

 伊織があきらめたように言うと、黒揚羽は肯定も否定もせず、

「そうか……」

 とただ一言答えた。

「かくいうわけで、私は総一郎に復讐してやりたいんだ。だが、いかなる理由があろうと私は人殺しはしたくないし、そんな方法で恨みを晴らしても、あの人は喜ぶどころか嘆き悲しみ、決して私を許さないだろう。そこで、何か総一郎の愛蔵している宝石や美術品でもないかと……あったら盗んでやろう、はらわたが煮えくりかえるような思いをさせてやろうと、千里を鈴倉邸に潜入させたのさ」

「なるほど……。でもいいの? 確かに、殺されたから殺すってのは僕も反対だけど……祖父の罪を暴かなくて。この男は昔、自分の大切な人を死に追いやったんだ、って告発しなくて」

 黒揚羽はしばし押し黙って、

「そうしたいのはやまやまだが、もう五年も前の話、立証するのは無理というものだよ」

 あきらめたように首を横に振った。

「第一、肝心なことを忘れてやしないか、伊織。そうしたら、おまえも後ろ指さされる立場に追い込まれるんだぞ。殺人者の孫として……。心のつながりはないとおまえは言ったが、世間はそうは見てくれまい」

 伊織は今更はっとしたが、

「そうだけど、おかしいじゃないか。罪を犯したのに裁かれもせず、罰も受けず、のうのうと暮らしているなんて」

 思わず声に力を入れる。

「……ありがとう。その気持ちだけで十分だ」

 黒揚羽は心を静めるように、一度目を閉じてから、

「だからな、これが私なりの、最善の復讐の形なんだ。復讐に、最善も何もないかもしれないがな」

「そう……。じゃあ、何が何でも祖父には負けられないね」

 伊織が思わずかけ布団をつかむと、

「そのとおりだが、そう気負うな。これは私の事情、おまえまで重圧を感じることはない」

 黒揚羽はかすかに微笑した。だがそのとたん、伊織の胸にはちくりと痛みが走る。

「何だ、まだ浮かない顔をしているんだな。気にするなと言っただろう?」

 伊織の微妙な表情の変化を読み取って、黒揚羽が言う。

「いや、あのさ……」

 伊織はしばし考え込み、

「何だか、ちょっと悔しいんだ」

 正直な気持ちを述べた。

「悔しい?」

「うん。君はいつも僕を気遣ってくれるけど、もちろんそれはとても嬉しいけど……同時に、そのたび君に身をかわされているような気がするんだ。僕は無力で愚かで、君にとって一介のファン、守るべき存在でしかないのかと、思い知らされてしまって」

「……おまえを守ることは、私の義務だ。伊織」

「義務……」

 どこか噛み合わない、黒揚羽の答え。聞きようによってはひどく冷たいその言葉を、伊織はおうむ返しにつぶやいた。

「だけど僕は、もっと君に近づきたい。君のことを知りたい。我がままだとは、出しゃばりだとはわかってるけど」

 身を乗り出して訴えたが、黒揚羽は困惑顔で目を逸らして、

「それではまるで、愛の告白だよ」

「そ、そういうわけじゃ……!」

 伊織はうろたえた。同時に、やはりまた論点をずらされているような気がしてしまう。

「では、おまえは私にどうしろと?」

「どうしろって言われても困るけど……。もう少し、心を開いてくれたらと」

「私は十分おまえに心を開いているつもりだよ。でなければ、そもそも宝探しに協力させたりはしないし、今のように過去の体験を打ち明けたりしない」

 黒揚羽自身がそう言うものを、伊織がかたくなに否定するわけにもいかない。それきり、二人の間には沈黙が落ちた。

「ああ、すっかり忘れていた。水を替えてくるよ」

 黒揚羽はさりげなく水差しを手に取り、部屋を出ていった。静かに閉められたふすまが、伊織には、黒揚羽と自分の心まで隔てたように思われる。相変わらず天下泰平に寝入っている千里が、何だか少しうらやましかった。


        ***


 夕食時に顔を合わせたときも、黒揚羽の態度には何ら変わるところはなかった。伊織もいつもどおりふるまっていたつもりだったが、胸の奥の小さな影は消えてはくれなかった。

 翌日、黒揚羽と成瀬は鬼角島へ下見に行った。船は宿の主人が地元の漁師から借り受けてくれたし、操縦は成瀬ができるという。

 二人が出発すると、

「伊織さん、お姉さまと喧嘩でもしたの?」

 千里が待ちかまえていたように訊いた。黒揚羽の手下だけあって、さすが観察眼が鋭い。

「喧嘩ってわけじゃないんだけど……」

「よかったら教えてちょうだい。力になれるかもしれないわ」

 普段つんけんしているくせに、こういうときは案外おせっかいらしい。もしかしたら、伊織ではなく黒揚羽のことを気にかけているだけかもしれないが。

 ひた隠しにするほどのことでもないので、伊織が前日のやりとりを説明すると、

「なるほどねえ」

 千里は腕組みをして、

「お姉さま、伊織さんにこれ以上心配かけまいとしてるのよ。こんなことになったのに責任感じちゃってるみたいで……。それにお姉さまって、ある部分より先には、心の中に踏み込ませないようなところがあるでしょう」

「確かにね……。やっぱり僕が無遠慮だったんだろうか?」

「ええ、そうね。無遠慮よ無遠慮」

 明らかに冗談とわかる大袈裟な口調。「無遠慮」の部分が舌足らずなのが、何だか愛らしい。

「……からかうなよ」

「ふふっ」

 千里はいたずらっぽく笑って、

「まあ、気に病むことはないわよ。お姉さま、そのくらいで機嫌損ねるような人じゃないから」

「うん……」

 慰めてはもらったものの、根本的な解決にはなっていない。もとより、さすがに千里に頼るつもりだったわけでもないが――。

 夕方、黒揚羽と成瀬が帰宅した。とりたてて危ない場所はないが、真水の取れる水源がないので、水は多めに持っていったほうがよい、というのが二人の結論だった。

 下見で得た情報から、ある程度の計画を立てる。

「鬼角島には、その名のとおり角のような二つの隆起がある。それらを結んだ線の中間から、まっすぐ降りたあたりの海岸線が、こう、とがっているんだ」

 黒揚羽は図を描きながら説明し、

「そここそが『おにのはなづら』ではないかと思う」

「すると、一から四の岩ってのは……」

「真っ先に考えられるのは、順番よね」

 千里が意気込んで提案する。

「高さや幅の順番とか、どこかから数えた順番とか」

「だけど、幅なんてどこをどう測ったらいいのかわからないよ。岩なんて不規則な形をしてるんだから」

「わかってるわよ」

 結局、背の高い順と、海岸線がもっとも突き出したところから近い順に数えて、順位をつけるということで話がまとまった。あとは現地を見て臨機応変に、である。

 その二日後、

「もう大丈夫」

 毎日伊織の傷の手当てをし、経過を診てくれていた千里が許可を出し、四人はいよいよ鬼角島へ出発することになった。水、非常食、薬、着替え、方位磁針やナイフをリュックサックに詰める。待ち望んでいたはずの宝探しだが、今までのいきさつや、これが黒揚羽にとってどれほど重い意味を持っているかを思うと、伊織の心はあまり弾んではくれなかった。

 その日はもう一つ事件があった。準備が終わると、黒揚羽が伊織を呼び、部屋に二人きりになって新聞を差し出したのだ。

「見せようか見せるまいか迷ったが、どんな内容であろうと、おまえに関わることだ。隠しておくのも卑怯な気がしてね」

 その前置きだけで、おおかた想像はついた。社会面を開くと、

「鈴倉海産会長の孫、黒揚羽に加担か」

 という見出しで、伊織が黒揚羽からの手紙を持っていたこと、問いつめられて逃亡したことが述べられていた。さらには、伊織が数馬殺害に関与しているとまでほのめかされている。総一郎によって土蔵の地下室に監禁されたことは、当然ながら彼が伏せておいたらしく、記述がない。記事の途中には、

「ようやく再会し、打ちとけてくれたと思っていた孫が、あのにっくき女賊、息子のかたきと通じていたとは、いくら憤り嘆いても足りません。運命とは何と非情なものでしょう。今となっては、黒揚羽が一刻も早く逮捕され、孫が改悛(かいしゅん)して罪を償ってくれることを願うのみです」

 という、総一郎のそらぞらしい言葉も挿入されている。

 伊織の脳裏に数々の映像が浮かんだ。走馬灯のように、というと死の間際のようだが、実際そんな感じだ。繁と由紀子をはじめとする親しい人々の顔、勉強机とみかん箱で手狭になってしまう自分の部屋、住んでいる町の光景――米屋、八百屋、総菜(そうざい)屋、大衆食堂など、およそ日々の暮らしに必要な店が勢ぞろいしている商店街や、猫がひなたぼっこをしている路地裏の空き地。罪悪感と懐かしさと悲しみが胸に押し寄せたが、

「大丈夫。覚悟はしてたから……」

 伊織は自分に言い聞かせるように言った。

「こうなると、もはや私たちだけの問題ではない。このままではおまえも罪に問われ、おまえの家族にも、一生太陽のもと顔を上げて歩けないような思いをさせてしまう。この黒揚羽、全力を()して汚名を返上し、おまえたちに平穏な生活を取り戻させることを誓うよ」

 黒揚羽が胸に手を当てて宣言した。頼もしく思う反面、数日前の「おまえを守ることは、私の義務だ」という言葉を思い出し、伊織は一抹の淋しさを覚える。

(もしこのまま、黒揚羽の容疑が晴れなかったら……)

 今まで無意識のうちに考えまいとしていたことを、ふと伊織は考えた。殺人者の烙印(らくいん)を押された黒揚羽はどうするのだろう。ごく普通の泥棒に転ずるのか、遠い土地にでも逃げて、しつこく身元を問われぬような仕事で身を立てていくのか。

 そのとき自分は、黒揚羽たちと一緒に、あるいはひとりで世を渡っていくことになるだろう。今までの人生をすべて捨て去り、身をひそめるようにして――。

(僕にそれができるか?)

 伊織は思わず、黒揚羽の沈鬱だが決意を宿した顔を見つめていた。両親を喪い、父親代わりでもあった師をも殺されながら、ただひとりで生き抜いて怪盗として名を馳せた少女。

(そうだ。そうなったときこれまでの人生を失うのは、黒揚羽だって同じこと……)

 怪盗たることに誇りと満足を覚えている黒揚羽にとって、今の人生を奪われるのは身を切られるようにつらいことに違いない。そのとき、自分は彼女の支えになれるだろうか。

「伊織? どうした?」

 呼びかけられて、伊織ははっと我に返った。

「何でもないよ」

 少し想像をたくましくしすぎたようだ。伊織は気恥ずかしくなってかぶりを振った。

 鬼角島への出発は深夜だった。テント、毛布、シャベル、つるはし、ロープなどをトランクに積み、リュックサックを背負ったり麻袋を抱えたりして、車に乗り込んだ。観光地といっても、夜は深閑(しんかん)としている。港に着き、さらに外れまで走ると、ぽつねんと揺れている漁船をヘッドライトが照らし出した。小さな木造の動力漁船で、補修の跡が目立つ。船端(ふなばた)に古めかしい筆文字で「ハヤブサ丸」と記されていた。

「足元に気をつけろよ」

 黒揚羽に続き、伊織は甲板に足を踏み出す。潮の香りにまじって、魚の生臭いにおいが鼻を突いた。

「それでは、行ってらっしゃいませ」

 別れ際に宿の主人が言うと、

「はい。本当にお世話になりました。ありがとうございます」

 黒揚羽と成瀬が丁寧に頭を下げる。

「ありがとうございます」

 伊織と千里もあとに続いた。図らずも声がそろう。

「準備はよろしいですね?」

 成瀬が確認し、操縦席に座った。間もなく船はゆっくりと動き出す。船端と波止場の距離が開いていき、見送る宿の主人の姿が遠ざかっていく。

「夜の船旅ってロマンチックねえ」

 千里は小さく鼻歌を口ずさみ始めた。

「のんきだなあ、君は」

 伊織は呆れて、そんな千里の横顔を見やったが、気持ちはわからなくもなかった。新月なのだろうか、晴れているのに月は見当たらないが、その分星が明るく、濃紺の夜空に小粒のダイヤモンドをまいたように瞬いている。

 漁船だから船底は浅く、手すりなどもない。油断すると海に落ちそうなので、伊織は機関室の外壁によりかかって、ぼんやり星空を眺めていた。その姿を黒揚羽が認めて歩み寄ってくる。

「おまえ、船旅には慣れているか?」

「ううん。船らしい船なんて、ほとんど乗ったことがないよ」

「そうか」

 黒揚羽が意味ありげにうなずいたので、

「どうしたの?」

「いや、大したことじゃない」

「だけど……」

 地下室での一件もある。また何か暗い体験と通じるのかと思い、伊織が顔を曇らせると、黒揚羽は笑いながら肩をすくめて、

「船酔いしやしないか心配になっただけだ。と、こう言うと暗示にかかって、余計に酔いやすくなるやつがいるから、黙っていようと思ったんだが」

「なあんだ」

 伊織は拍子抜けして肩の力を抜いた。

 千里も含めて、そのまま黒揚羽に星の講義を聴いていると、

「ねえ、見て見て!」

 不意に千里が歓声を上げた。指さす先にくっきりと島影が見える。角度のせいか一部重なってはいたが、なるほど二つの大きな隆起がある。

「あれが鬼角島……」

 伊織は酔いも忘れてつぶやいた。初めて富士山を目にしたような深い感慨にとらわれる。黒揚羽と千里も同様らしく、無言で島に見入っていた。

 船は東に曲がり、島に沿うように進む。浜がじりじりと迫ってきて、波の砕ける音が耳を打ち、しぶきがはねる。

 気づけば、船は揺れるばかりで前進しなくなっていた。

「着きましたよ」

 機関室の扉を開け、成瀬が顔を出した。彼が船を係留(けいりゅう)している間、ほかの三人は荷物を運び出す。

 初めて島の土――正確には石を踏んだ瞬間、熱いものが体の中を駆けめぐった。水と食料を足元に置くと、改めて浜の向こうを見やる。木々がひとかたまりの黒い影となって生い茂っており、枝や葉が繊細な輪郭を形作っていた。

「何にもないのねえ」

 千里があたりを見回して、当たり前すぎる感想を述べる。

「あっちにテントを張ろう。下見のときに目星をつけておいたんだ」

 黒揚羽が腕を伸ばし、島の真ん中、木々が途切れて自然の道のようになっているところを指さした。四人は島の奥へと踏み込む。

 四、五分歩いたところで、黒揚羽は立ち止まり、

「このあたりでどうだろう。広さは十分だし、船からも遠くない」

 ほかの三人を振り返って言った。異を唱える者はない。

 木々の間に綱を渡し、布を張って杭で止めて、三角柱を倒した形のテントをこしらえる。中にはテントの屋根と同じ綿(めん)の布、さらにその上にボール紙、新聞紙、毛布を敷いた。

「少々お待ちください」

 真っ先に成瀬が中へ入る。何やらごそごそやっている気配があり、すぐに布の隙間から、橙色がかった温かい光がもれてきた。

「どうぞ。しけってしまうかもしれませんので、靴は持って入ったほうがよろしいかと」

 成瀬の招きに応じ、靴を脱いで片手に持って、出入り口をくぐる。外界から隔てられて明かりを感じると、安心感がこみ上げた。力強い仲間がいるし、夜とはいえ晴天なので、自覚はなかったのだが、やはり多少は本能的な恐怖を感じていたようだ。

 奥から、成瀬、伊織、千里、黒揚羽の順に並び、枕元に荷物を下ろす。テントに入らない大きな道具類は表に出しておいた。

「朝になったら行動を開始しよう。それまでは仮眠していてくれ」

 黒揚羽が懐中時計を見て言った。

「していてくれって、黒揚羽は?」

 何か危険を冒すのではないかと心配して、伊織は訊いた。

「案じるな。もしものときに備えて、見張りをしていようと思ってね」

 黒揚羽は気軽な口調で答え、

「ああ、成瀬は休んでいろ。発掘作業では主戦力になってもらうだろうから、今のうちに英気(えいき)を養ってもらわなくてはね」

 口を開きかけた成瀬を、さりげなく制した。

「では、私は外に出ている。テントのすぐそばにいるよ」

 黒揚羽はマントを羽織って出ていった。それを見送ると、残された三人は毛布にくるまる。成瀬が蝋燭の灯を消すと、星の光が届かないだけに、テントの中は外以上に濃い闇に沈んだ。千里と成瀬はすぐに眠りに落ちたらしく、身じろぎする気配もない。

 だが、伊織の目は妙に冴えていた。安楽に眠るには、わだかまりや不安の数が多すぎるのだ。風の音や木々のざわめき、毛布を通しても伝わってくる、不慣れな地面の硬さも、伊織を落ち着かせてくれない。

 一月半前からのできごとを、知らずしらず思い返していた。出会ったときの黒揚羽の颯爽たる姿、外観ばかりは風雅な、だが今となっては忌まわしい記憶の宿る鈴倉邸、八雲の弾けるような笑顔と、最後に見た泣き出しそうな表情、豹変した総一郎の鬼気迫る形相、苦しめられた人々の恨みの残っているような陰惨な地下室――。

 一時間ばかりそうしていただろうか。伊織の思考はようやく意味を失い始め、曖昧な夢へと変わっていった。

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