幕間三 悪夢
うわあああ、とんでもなく更新に間が空いてしまいました……。
今回も、一気に三部分投稿します。
土砂降りの雨の中を、少女は傘も差さずに駆け抜けていた。人っ子一人どころか、犬ころ一匹いない夜道だ。まばらな街灯は雨にかすみ、薄ぼんやりと頼りない。
ずぶ濡れになるのも厭わず、闇も恐れず、だが、少女はもっと大きな不安と焦燥につき動かされていた。雨だというのに空気が妙に生暖かいのが、不吉な予感を強める。
やがて、行く手に大きな屋敷の影が浮かび上がった。背景の空は暗黒に近く、影とほとんど区別がつかない。
少女は屋敷に近づき、竹垣に体を寄せると、庭に小石を投げ入れた。反応がないことを確認すると、腰に固定した万年筆型の懐中電灯を点け、竹垣をよじ登る。
庭に降り立った少女は、母屋へ忍び寄っていったが、土蔵を見かけるとふと足を止めた。吸い寄せられるように土蔵に近づき、壁にぴたりと耳をつける。が、何の物音も聞こえない。
少女は一瞬ためらったが、自分の直感を信じて土蔵の扉の前に移動する。針金で巧みに錠を破り、静かに扉を開けた。懐中電灯に手をかざし、明かりが広がらないようにしてそろそろと動かす。見張りはいないようだが、安心はできない。それは男がこの中にいないためかもしれないし、最悪の結果を迎えているためかもしれないからだ。
少女は足を踏み出し、捜索を続ける。その心臓が突然跳ね上がった。床の一角に鉄格子の扉がはまっているのに気づいたのだ。駆け寄ってかがみ込み、中をのぞく。階段の先に踊り場があり、そこからさらに階段が続いているらしく、懐中電灯を用いてもすべては見渡せない。再び針金で錠を開けた。
扉を引き上げるのももどかしく中に入り、階段を下りる。
「おじさあん」
自分の声が思いのほか弱々しいのに気づく。と、少女の目に、仰向けに倒れている人の姿と、どす黒くまがまがしい色彩が飛び込んできた。
「おじさん!」
少女は飛鳥のごとく残りの階段を駆け下りた。間違いない、血まみれになってぴくりともしないのは、少女の師であり第二の父親でもある男だった。
少女は男の腕を取ったが、その肌は冷たく、脈を取るまでもなく、息絶えていることは明らかだった。脇腹には、毒の花のような銃創が穿たれている。
「そんな……」
少女はうなだれ、遺体に取りすがった。
「どうして……? どうしてみんな私を置いていくんだ!? 父さんも母さんも、今度はおじさんまで……。どうしていつも……」
狂ったように繰り返し、泣きじゃくる。
(いっそこのままこうしていて、私も見つかって殺されてしまえばいい)
少女の胸をそんな捨てばちな考えがよぎった。だが、少女は知っていた。それが男を悲しませる行為だということを。男が何よりも少女の幸せを願っていたことを。その想いを無視してあとを追おうとするほど、少女は身勝手ではなく、また弱くもなかった。
目をこすり、ひくひくと喉を鳴らしながらも、少女は立ち上がった。一度がくんと膝が折れ、心もくじけそうになるが、唇を噛んで再び足に力をこめる。せめて遺体を運んで弔ってあげたかったが、体格が違いすぎてそれも叶わない。
「すまない……」
断腸の思いで背を向ける。まだおぼつかない足取りで階段を上り、地下室を、それから土蔵を出た。どれほど悲しみに打ちひしがれていても、扉をもとどおり施錠することだけは忘れない。
すぐ逃げるつもりはなく、土蔵の陰に身を隠した。この屋敷の連中も、いつまでも遺体を放置しておくはずがなく、必ずどこかへ運ぶだろう。愛する者をこんな目に遭わせたやつらを、この目で見ておきたかった。
やがて数人の足音と、
「これで片づくな」
五、六十代と思われる男の、低い声が聞こえた。
「はい。人里離れた山奥にでも捨ててしまえば、まず見つかりますまい」
いくらか若い別の声が、落ち着いて答える。
「ああ。昨日はいささか焦ったぞ。こういうときにかぎって、車を修理に出していたとは」
「まことに。あの地下室があってようございましたね」
「まったくだ。あんな盗人のために、あれこれ取り調べを受けるのも面倒だからな。戦争前と違い、拳銃とて本来ご法度の品だ。こちらとて殺す気はなかったのだが……まあ、死んだところで良心が痛む輩でもないわ」
その無慈悲な会話から、皮肉にも少女には事の経緯がつかめた。男は盗みに入ったところを見つかって撃たれ、瀕死の重傷を負った。この屋敷の主人は、彼を病院に運ぶことも、警察に通報することもせず、こっそり始末してしまおうと考えた。だが、折悪しく昨日は車が故障していたので、あの地下室に隠したのだろう。
今すぐ飛び出していって会話の主たちを絞め殺したい衝動をこらえながら、少女は土蔵の壁に爪を立てて震えていた。と、二つの人影が土蔵の中へ入っていく。十分ほど経って、足音を聞いて再び様子をうかがうと、彼らが土蔵から出てくるところだった。先程と違うことは、彼らが遺体を運んでいることだ。
「行ってまいります」
二人は表門のほうへ向かう。残された一人――あごひげの目立つ、主らしい老人はそれを見送ってから、母屋のほうへ歩き出した。
少女は崩れるようにしゃがみ込むと、声を殺して再び泣き始めた。
***
黒揚羽ははっと目を覚ました。全身が寝汗でじっとりと濡れ、心臓がどきどきと鳴っている。体を起こし、自分の居場所を確かめるように周囲を見回した。部屋の中はすでに明るんでいる。隣の布団では千里が丸まって眠りこけていた。
(あの夜の夢を見ることなんて、もう絶えて久しかったのに)
額を押さえ、重苦しいため息をつく。もっとも、原因は明白だ。あの忌まわしい地下室に、ほんの何時間か前に足を踏み入れたばかりなのだから。あれほど悲劇的な記憶、克服することはできても忘れることはできないし、またそれを望んでいるわけでもない。
黒揚羽はしばし夢の内容を反芻し、瞳をかげらせていたが、思いきって立ち上がり、洗面所へ向かった。