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第92話:ターンアラウンドの完了、食えない連中ばかりだな

 半月が経った。


 街を覆う空気には、じっとりとした重い湿気が混じり始めている。

 常にスーツという装甲を身に纏って活動している人間にとっては、不快指数が右肩上がりに跳ね上がる厄介な時期の到来だ。


 そんな外気のまとわりつくような不快感とは裏腹に、この半月間で、第7支部の本館に満ちる空気の質は、明確に風通しが良くなっていた。

 窓口の向こう側に立つ使用人たちは、相変わらず洗練された執事服やメイド服に身を包んでいる。

 だが、その対応には以前のような事務的な正確さだけでなく、人間的な温度が加わっていた。


 無機質だった空間に血が通い始め、適度な生活音――業務上必要とされる健全なホワイトノイズが、ロビーに響くようになっている。感情労働という新たな業務が現場に浸透し、彼らのプロフェッショナルな能力が、接客という新しい領域でも発揮され始めた結果だろう。

 第9支部のような喧騒には程遠いが、顧客接点としては十二分に合格点だ。


 視察に同行していたヴェリサには、改善方針が固まった段階で先に第9支部へ戻ってもらっていた。

 俺の方は、改善の実行が軌道に乗るまで見届ける必要があったのだが、この支部が抱えていた内部統制の不備は、おおむね解消されたと見ていい。俺の長かった出張業務も、いよいよクローズの時期を迎えていた。


 俺は1階のロビーを見渡してから、本館2階への階段を上った。

 磨き上げられた木の床を踏みしめ、見慣れた廊下の奥へと進む。この景色ともそろそろお別れだ。


 重厚な木の扉の前に立ち、いつものように2回ノックした。


「カツラギです」

「どうぞ」


 室内には、奥にある執務机の定位置に座るラテリスの姿があり、少し離れた窓際の応接用のソファには、シヴィリオが優雅に腰かけていた。

 俺は促されるまま、その対面に座った。


「カツラギ殿。ご苦労だった」


 彼は相変わらず、隙のない端正な顔立ちに微かな笑みを浮かべている。


「視察と改善提案の成果は、報告書の通りです」

「申し分ない内容だ。品質管理基準の適正化、自己申告に基づく時間管理の導入、そして風通しの改善。短期間でよくここまで立て直してくれた」


 シヴィリオは淡々と評価を述べた。数字や運用状況の詳細は、すでに擦り合わせが済んでいる。

 俺は、執務机のラテリスに視線を向けた。


「これでようやく通常のギルド運営に本腰を入れられますね」


 そう労いの言葉をかけた直後だった。


「その件についてですが」


 ラテリスは手元のペンを置くと、俺を見た。


「私は1ヶ月後をもって、この第7支部のギルド長を辞任する意向を本部に伝えました」


 予想外の通告に、思考が数秒ほど停止した。


「辞任されるのですか?」

「はい。この3ヶ月間、私は前体制の問題を取り除き、不要な手順を整理することには貢献できたかもしれません。ですが、それはあくまで『壊す段階』の管理者に過ぎませんでした」


 彼女の口調は落ち着き払っていた。

 企業再生、いわゆるターンアラウンドにおけるリストラや負債整理のフェーズだ。


「組織が平時を取り戻して『運用の段階』に移行した今、私にはそれを担うだけの力がまだ備わっていません。領地の再建とギルドの運営は、求められるものが根本的に異なることを、今回の件で痛感いたしました」


 自らの適性と限界を、ここまで正確に見極められるものだろうか。

 権力の座にある人間は、得てして自らの能力不足を認めず、その地位に固執しようとすることがある。階層社会において、有能な人間は己が無能になる役職まで出世し、やがて組織全体が無能で埋め尽くされるという、いわゆる『ピーターの法則』というジレンマだ。

 だが、彼女の自己分析には、感情や見栄が入る余地がない。己が『平時の運用』において無能になる前に、適任者へ席を譲る。まるで他人の業績を評価するかのような、客観的で正確なロジックだった。


「続けながら学ぶ、という方法もあります」


 俺の意見に、ラテリスは首を振った。


「不完全な管理者の下で、現場の人間が振り回されることは避けたいのです。それは、私がこの3ヶ月間でやってしまったことですから」


 己の失敗を認め、それを繰り返さないために身を引く。

 その引き際の潔さに、俺は返す言葉を持たなかった。


「人は、初めから全てを備えているわけではないのだ」


 シヴィリオが、諭すように口を開いた。


「しかし、自らの現状を正確に評価し、組織にとって何が最善であるかを判断できること。それ自体が、管理者として極めて重要な資質だ。本部としては、ラテリス殿の決断を尊重し、辞任を受理するつもりでいる」


 彼の言葉は、ラテリスの判断を肯定していた。

 否定するでもなく、慰めるでもない。シヴィリオは彼女の判断をそのまま受け入れた上で、その判断ができること自体を評価しているのだ。


「では、後任は決まっているのですか?」

「前ギルド長に任せる予定だ」


 あの頃の第7支部を停滞させていた張本人を、再び同じ席に据えるのか。一見すると後退のように思えるが、シヴィリオがそう判断した以上、相応の理由があるはずだ。


「彼は自らの意思で職を辞した後、本部の別の監査官の下で、本部や第3支部の実務に触れさせながら監査官補佐として学習を重ねていたのだ」


 彼は経緯を語り始めた。


「当初は、自分のような古い人間にはもう出番はないと思い込んでいたようだ。しかし、第8支部のギルド長に年配の元冒険者が就任した件を引き合いに出し、それが退く理由ならば新たに学べば良いと諭されたそうだ」


 俺の脳裏に、第8支部の老紳士──ブルークの姿が浮かんだ。

 あの極端なイレギュラーを『高齢者の再挑戦の成功例』としてベンチマークに使い、自信のない管理者の発奮材料にしたというわけか。

 ギルド本部には、シヴィリオのような食えない人間が何人も生息しているらしい。相手の心理的障壁を見極め、適切な実例を提示して退路を断つ。見事な人心掌握のスキルだ。


「前ギルド長が戻るとなると、人員の問題が出てきますよね。ラテリスさんの辞任後、イルデイン家の使用人たちは引き上げることになるはずです。それだけの欠員を、どう埋めるのですか?」


 俺の疑問に答えたのは、シヴィリオではなくラテリスだった。


「その件については、すでに手配できております。私が着任後に人員整理を行った際、不適格な職員については、表向きは解雇という措置を取りましたが、本部に対して彼らの他支部への再配置を申請しておりました」


 ラテリスは静かな口調で続けた。

 

「ギルドの職員は公的な組織に属する人間です。怠慢や規律違反があったとしても、組織としての手続きを経ずに一方的に切り捨てることは、管理者として適切ではないと考えました」


 そうだったのか。てっきり、全員をそのまま切り捨てたのだと思っていた。


「当支部の新しい業務水準に適合していなかったことは事実です。ですが、環境を変えて適切な指導を受ければ、再び戦力になり得る可能性がありました。この件は監査官の方にもご相談して、承認をいただいております」


 容赦のない人員整理の裏で、彼女は再配置の機会を与えていたのか。外から見れば『7割を切り捨てた冷血な管理者』だが、実態は『切った上で再起の道を用意した合理的な人間』だったわけだ。

 人の感情には鈍くても、人材の価値は見落とさない。彼女の合理性は、結果的に人を活かす方向にも働いていたらしい。


「結果、彼らは第4支部に配置され、業務を学び直した」


 シヴィリオが説明を引き継ぐ。


「先日の第5支部と第6支部のスタンピードでは、その旧職員たちが応援として派遣されている。ラテリス殿が添付した適性評価は、配置先でも的確だったと聞いている」


 彼の言葉に、点と点が繋がっていった。


「ラテリス殿の辞任後も、彼らが戻ってくれば、第7支部の運営に支障は出ないだろう」


 リストラされた旧職員たちに学び直しの場を用意して、さらにはスタンピードという有事を『実地研修』として経験を積ませたのか。

 組織の再編をラテリスに任せ、その間に旧体制の人間をアップデートし、再び現場に呼び戻せる体制を作っていた。ギルド本部の人間は、トラブルすらも人材育成のカリキュラムに組み込む、タチの悪い人的資源(ヒューマンリソース)の化け物らしい。


「先月、各支部のギルド長と、本部の監査官の会食が行われた。その場には前ギルド長も同席していたのだが、以前とは見違えるように顔つきが変わっていた。後任として、十分に期待できる」


 シヴィリオはそこで言葉を区切った。


「あの夜は、貴君の姿を見かけたな。ルティア殿を連れていただろう」

「ルティア殿?」


 ラテリスの平坦な声が、不意に執務室の空気を揺らした。

 彼女の視線がこちらへと向けられていた。


「以前、同僚の女性に魔導具の開発を依頼したことがありまして、そのお礼にと彼女たちに食事をご馳走したんです。あの日はシヴィリオさんを見かけた気がしましたが、実際にいらしたんですね」

「同僚、の女性、ですか」


 ラテリスは何かを反芻するように視線を落としたが、それ以上は何も言わなかった。

 俺はシヴィリオに向き直った。


「結果的に、全てあなたの手の内だったということですか」


 皮肉を込めて言うと、シヴィリオは薄く笑った。


「……ふ。買いかぶりだな。私がしたことは、この支部に貴君を送り込み、第7支部周辺の調査を行った程度だ」


 その言葉に嘘はないのだろう。

 全てを計算通りに操っていたわけではない。現場で発生した摩擦や、俺が提案した解決策、そしてラテリス自身が導き出した辞任という決断は、彼の想定を超えていた部分もあったはずだ。

 ただ変化の種を蒔き、育つ場所を用意した。そして、当事者たちが自らの力で最適解に辿り着くのを待っていた。質の悪い放任主義にも見えるが、適切なタレントマネジメントとは本来そういうものだ。


「そういうことにしておきましょう」


 俺は席を立ち、2人に向けて頭を下げた。


「私の視察業務はこれで終了となります。短い間でしたが、お世話になりました」


 シヴィリオが手を挙げて応えた。

 そして、ラテリスが執務机の奥から立ち上がった。


「カツラギさん、お疲れ様でした。あなたのおかげで、この支部は次の段階へ進むことができます」


 ラテリスはデスクを回り込み、俺の前に歩み出た。

 背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、片手を胸元に添え、深く、優雅に頭を下げた。

 五大貴族の令嬢に相応しい、一分の隙もない所作だった。


 顔を上げた彼女の口元が、ほんのわずかに──本当にわずかにだが、柔らかく緩んでいた。

 セリウのような花咲く笑顔にはまだ遠い。

 だが、あの捕食者じみた恐怖は影を潜め、そこには確かに、人の温度が宿り始めていた。


「ありがとうございました」


 ラテリスが、右手を差し出した。

 白い手袋に包まれた、細く整った手だった。


「こちらこそ。ラテリスさんの次の舞台を、楽しみにしています」


 俺はその手を取り、短く握った。

 彼女の手は華奢だったが、握り返す力には、迷いがなかった。


---


 馬車の揺れに身を任せながら、俺は今回の出張業務について思考を巡らせていた。


 第7支部の内部統制。

 始まりは、厳格な品質管理による業務との乖離だった。

 だが、蓋を開けてみれば、そこにあったのは仕組みの不備だけではない。時間計測による見えないプレッシャーや、上司の無表情がもたらすコミュニケーションの壁といった、極めて人間的で泥臭い問題だった。

 どんなに完璧なロジックを組み上げ、システムを構築しても、それを運用するのは結局のところ人間だ。そこに『人間の余白』を考慮しなければ、組織はいずれ破綻する。


 その事実を最も深く理解したのは、他でもないラテリス自身だったのだろう。

 自らの役割を『解体』と定義し、運用フェーズに入った途端に未練なく身を引く決断を下した。

 彼女の極端なまでの合理性と引き際の潔さは、並の経営者には真似できるものではない。自分の欠落を理解し、それを無理に補うのではなく、適任者に委ねる。不器用で、冷徹に見えて、それは組織に対する何よりの誠実さだった。


 まったく、どいつもこいつも食えない連中だ。

 今の自分の限界を知り、次へ託すことができる不器用な管理者がいる。裏から盤面を整えるしたたかな大人がいる。そして、失敗から立ち直り、再び現場に戻ろうとする者たちがいる。

 魔法が存在する異世界であっても、組織を動かしているのは人間だ。利害が衝突し、感情がぶつかり、それでも折り合いをつけながら前に進んでいく。やっていることは、俺が元いた世界と何も変わらない。

 結局のところ、どの世界でも組織の問題は、仕組みと人の間にある隙間から生まれる。そしてその隙間を埋めるのもまた、人なのだ。


 窓の外を流れる街並みを眺めながら、俺は頭の中の『第7支部』の項目に、完了のチェックを入れた。


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