第91話:対人インターフェースの調整、サブカルチャーは欠かせない
部屋の中から「どうぞ」と、平坦な声が返った。
扉を開けて足を踏み入れると、部屋の主は奥の執務机ではなく、応接用のソファに腰を下ろしていた。対話を前提とした空間のレイアウト。先ほどのルキアンとの面談から、ラテリスはその配置を崩していないらしい。
俺とセリウは、勧められるままに彼女の対面に座った。
「ルキアンさんとの対話は、無事に終わったようですね」
「はい。着任時の時間計測が、ルキアンに不要な重圧を与えていたことについて、私の配慮が不足していたと伝えました」
事務的な報告ではあったが、その言葉には自分の非を認める潔さがあった。
「その上で、魔石の鑑定業務に戻るかどうかは、ルキアン自身の意思に委ねました。結果として、彼は復帰を選択しました」
処分ではなく、選択を与えた。以前の彼女であれば、復帰の可否もトップダウンで決定していただろう。部下の意思を確認するという手順が、彼女の中に新しく組み込まれたのだ。
「今後また業務上で重圧を感じることがあれば、遠慮なく申し出るようにと伝えたのですが、ルキアンは『もう大丈夫』だと答えて、話は終わりました」
「彼の中で、折り合いがついたのでしょう。良い面談だったと思いますよ」
ルキアンがそう言い切れたのは、ラテリスとの対話だけが理由ではないだろう。ヴェリサという、同じ目線で寄り添ってくれる存在がいたことも大きい。人を支えるのは、結局のところ人なのだ。
「さて、本題に入りましょう」
この組織の根幹には、まだ手付かずの課題が残っている。
「ラテリスさん。現場の人間からあなたに対して意見が上がってこない原因について、私なりの結論が出ました」
「はい」
仕組みの改善だけでは、この問題は解決しない。定期的に意見を聞く場を設けたとしても、日常のコミュニケーションに壁がある限り、本音は出てこないだろう。
これは、ラテリス自身の問題だ。踏み込んだことを言うことになるが、避けて通るわけにはいかない。
「それは……あなたの、その表情です」
真っ直ぐに指摘すると、隣に座るセリウの肩が跳ねる気配がした。
だが、当のラテリスは眉一つ動かさず、静観の構えを崩さない。
「人間という生き物は、コミュニケーションにおいて言語よりも非言語の情報を重視します。相手が怒っているのか、喜んでいるのか、あるいは退屈しているのか。表情からの情報を得ることで、自分の発言を調整しているのです」
俺は組織における心理的障壁の構造を説明した。
「何を考えているのか全く読み取れない上司に対して、部下は本音を語れません。どこに落とし穴があるか分からない道を、進んで歩きたがる人間はいないからです。いかに意見を吸い上げる仕組みを整えても、日常の対話に目に見えない壁があれば、そのシステムは機能しません」
ラテリスは、じっとこちらを見つめていた。
反論も、動揺も、その顔からは読み取れないが、それこそが俺の指摘を証明しているようなものだった。
「社交界においては、表情とは相手に情報を献上する隙に他なりません」
彼女は自身の過去を紐解くように、淡々とした口調で語り始めた。
「微笑めば付け込まれ、怒りを見せれば弱点を晒す。貴族の社交とは、そうした駆け引きの連続でした。ですから私は、何も読み取らせないという選択をしたのです」
「自己防衛のための手段だったんですね」
「はい。実家の領地再建においても、表情を見せないことは有効に働きました」
ラテリスが表情を消したのは、単に読まれたくなかったからだけではない。それは、改革者として生き残るための鎧だったのだ。
「腐敗を一掃する過程で、多くの者が情に訴えかけ、脅しめいた言葉で私を翻弄しようとしました。それらに対して一切動じない姿勢を示すことが、改革を断行する上では必要不可欠だったのです」
なるほど。セリウが語っていた通りだ。
ラテリスの無表情は、敵対的な環境を生き抜くために最適化された鎧だった。政治的な交渉の場や、痛みを伴うリストラを断行する経営者としては、極めて合理的で正しい振る舞いだ。
だが、ここは社交界でも、腐敗した領地でもない。冒険者と業者を繋ぎ、素材を流通させるための組織だ。
「その手段が、結果的に今の第7支部では、部下との間に壁を作ってしまっているわけです」
俺の言葉に、彼女は短く息を吐き出した。
自らの成功体験を支えていた手法が、別の環境では機能不全を起こしている。査定基準の件と同じ構造だ。
「仰る通りですね。職員との対話において、私の無表情が障壁になっているのであれば、改める必要があります」
「はい。そのために、最も効果的な手段が笑顔です。敵意がないこと、相手の言葉を受け入れる用意があること。それを最も端的に伝えられるのが、笑顔なんです」
ラテリスの金色の瞳が、記憶を辿るかのように一瞬だけ揺れた。
「先日、私は笑顔というものは最も信用できない表情だと申し上げました」
一拍置いて、彼女は続けた。
「ですが、あれは相手を出し抜くための笑顔の話でした。普段セリウが見せてくれるものとは、別のものですね」
「その通りです。同じ笑顔でも、目的が違えば全く別のものになります」
俺は隣に座るセリウに目を向けた。
「では、セリウさん。ここからはお願いしてもよろしいですか。ラテリスさんの笑顔を、確認していただきたいのです」
「はい、もちろんです!」
セリウが背筋を伸ばして、猫耳をぴんと立てた。
「私はここで失礼しますね。セリウさんだけの方が、ラテリスさんもやりやすいでしょうから」
そう言って、俺は立ち上がろうとした。
幼い頃から見守ってきた使用人の前の方が、余計な緊張をせずに済むはずだ。俺のような外部の人間が見ている前で笑顔を作れというのは、さすがにやりづらいだろう。
「カツラギさん。席を外していただく必要はありません」
ラテリスは、俺を引き留めた。
「笑顔を見せる程度のことです。身内ではない方の目で確認していただいた方が、実用性の判断がつきやすいでしょう」
その顔には、一切の照れも躊躇いもなかった。業務の一環として、外部の専門家に成果物の品質確認を依頼するような、徹底して実務的な態度だ。
彼女にとっては、笑顔もまた検証すべき業務改善項目の一つに過ぎないらしい。
俺は腰を下ろし直した。
「……分かりました。そのまま失礼します」
「はい。では、ご覧ください」
ラテリスは姿勢を正すと、正面を見据えた。
ピンクブロンドの髪が揺れ、白磁のように整った顔立ちの筋肉が、微かな軋みを上げるように動き始めた。
金色の瞳が大きく見開かれ、端正な唇の両端が不自然な角度で吊り上がる。
一切の光が宿っていない眼球と、三日月型に歪んだ口元。
…………。
……。
怖い。
それは喜びの表現などではなかった。長年使われていなかった顔面筋を、脳からの物理的な電気信号で強制的に収縮させた結果生まれた、肉の歪みだ。
獲物を追い詰めた大型の肉食獣が、喉元に食らいつく直前に見せる獰猛な牙の露出。それに極めて近い凄みがあった。
隣を見ると、セリウも猫耳をぺたんと寝かせて硬直している。本能レベルで威圧感を感じ取っているのだろう。
当のラテリス本人は、その捕食者のような顔のまま口を動かした。
「いかがでしょうか?」
「一旦、元に戻してください」
俺は即座に答えた。
これを見たら、現場の職員は意見を言うどころか逃げ出すだろう。
「ラテリスさん。笑顔というのは、ただ顔の筋肉を動かせばいいというものではありません。そこには用途に応じた意味を持たせる必要があります」
セリウをモデルに手本を見せて、ビジネスにおける感情表現のロジックを解説することにしよう。
「セリウさん、少し手伝っていただけませんか? お手本をお願いしたいのですが」
「はい! お任せください!」
彼女はソファから立ち上がると、部屋の中央の開けた場所に移動した。メイド服のスカートの裾を軽くつまみ、優雅にお辞儀をしてみせる。
「では、基本的なものからいきましょう。廊下で職員とすれ違った時や、報告に来た部下を迎える時の笑顔です。口角をわずかに上げて、相手の存在を認めていますよ、と伝えるだけで十分です。セリウさん、お願いします」
セリウは一度表情をリセットすると、ふわりと柔らかい微笑みを浮かべた。
「おはようございますっ」
押しつけがましさのない、自然な笑みだ。目元は穏やかで、口角が自然に上がっている。
「次に、部下から報告や提案を受けた時の笑顔。『聞いているので問題ない』という安心感を与えるものです」
セリウは小さく頷く動作を添えて、柔らかく目を細めた。
「承知しました。ありがとうございますっ」
受容と承認。相手の言葉を受け止めている、という印象を与える穏やかな表情だった。
「感謝の笑顔をお願いします。相手の働きに対して『ありがとう』を伝える時のものです」
セリウの顔に、明るく温かな笑顔が広がった。歯がちらりと覗き、目尻が下がっている。
「助かりました。ありがとうございますっ!」
見ている側の気持ちまで軽くなるような、屈託のない笑みだった。
「最後に、もう一つ。窓口での挨拶についてもお願いしていいですか?」
「冒険者さんに向けてですね」
「はい。冒険者がクエストの受注や素材の納品に来た時に接するのが窓口です。ここでの印象が、支部全体の印象を決めますからね」
「わかりました。『おはようございます』でいいですか? ギルドの受付で『いらっしゃいませ』って言うのは、ちょっと変な感じがしますし」
確かに、冒険者ギルドは商店ではない。
お役所仕事の窓口で愛想を振りまいても、逆に変に思われる。あのような場所は、基本的には「おはようございます」や「次の方どうぞ」といった、事務的だが冷たすぎない挨拶から始まるのが定石だからだ。
いや、待てよ。
あえて両極端なホスピタリティの最上級を提示してはどうだろうか。死地から帰還した冒険者たちに向けた、究極の『ホーム感』を演出する。
窓口の職員は、執事服かメイド服を着ている。メイドか。メイドといえばだ。
「では、過酷な依頼から帰還した冒険者に向けた、最大の労いと歓迎を表現してみてください。言葉は、そうですね──」
俺が真顔で指示を出すと、セリウは一瞬目を丸くした。
だが、彼女はすぐに表情を引き締めた。猫耳がぴんと立ち、尻尾の揺れが止まった。
セリウは背筋をすっと伸ばすと、両手を前で揃えた。
そのまま丁寧にお辞儀をして、顔を上げた瞬間──。
「お帰りなさいませ、ご主人様っ!」
満面の、花が咲いたような笑顔だった。
目尻は柔らかく下がり、頬はほんのりと上気し、猫耳までもが嬉しそうに揺れている。
声のトーン、姿勢、視線の角度。その全てが『あなたの帰りを待っていました』という歓迎の感情を余すところなく表現していた。
パーフェクトだった。
慈愛と献身、そして安堵の感情が絶妙なバランスで配合されている。疲れ切った労働者の心を一撃で溶かす、感情労働の最高峰がそこにあった。
「セリウさん……完璧です」
俺は自然と親指を立てた。
このクオリティなら、第7支部の顧客満足度は劇的に向上するだろう。
彼女は「えへへ」と照れたように笑いながら、ソファに戻った。
「セリウ、ありがとうございます。完全に理解しました」
ラテリスは真剣な面持ちで頷いた。
「笑顔の効果は、カツラギさんのお顔を見て確信できました」
「私の顔を見て、ですか?」
「はい。先ほどのセリウの実演の際、カツラギさんは今までお見せになったことのない表情をされていました。目が開き、口元が緩み、親指まで立てていらっしゃいました。普段のカツラギさんからは考えられない反応です」
しまった、顔に出ていたのか。
冷静な観察者であるはずの俺が、セリウの笑顔に対して無防備に感情を晒してしまっていたとは。
だが、仕方がない。仕方がないのだ。悪乗りしてしまったとはいえ、あれに反応しない方がどうかしているだろう。
「笑顔一つで人の反応がここまで変わるのですね。これは、実践する価値があります」
ラテリスの金色の瞳に、見覚えのない光が宿っていた。
数字を分析する時の冷徹な輝きでも、合理的な結論を述べる時の透明な光でもない。もっと前のめりな、何かに挑もうとする者の目だ。
複雑な心境だが、俺の反応を見て合理的な根拠を得たのだろうか。目に見えてやる気を出してくれたようだった。
「では、ご覧ください」
ラテリスは姿勢を正し、口元に力を込めた。
唇の両端が、ゆっくりと持ち上がっていく。
やる気を出した彼女が見せた笑顔は──。
…………。
……。
やっぱり、怖かった。
そこには、今にも獲物の喉笛を噛み千切らんとする、美しくも恐ろしい捕食者の顔が完成していた。
「ラテリスさん、元に戻してください。戦略を変更しましょう」
俺は、現実的な妥協点を探った。
全体的な笑顔を作ろうとすると、力みが入ってしまうのかもしれない。ならば、まずは口元だけに絞ってみるか。
「監査官のシヴィリオさんを思い出してください。あの方は、口角をほんのわずかに上げる程度の笑みしか見せません。ですが、あれでも十分に相手に安心感を与えています。目元はそのままでいい。口元だけ、ほんの少し柔らかくするだけで、印象は大きく変わります」
ラテリスは元の無表情に戻ると、微かに視線を下げた。
「あの方の表情を手本にするのは、少々危険かもしれません」
「危険とは? どういうことでしょうか」
「以前、王都の夜会でシヴィリオさんがあの笑みをお見せになった際、ご婦人方が次々と魅了されてしまい、大変な騒ぎになったそうです」
俺は一瞬、言葉を失った。
確かに彼は絵に描いたような男前だが、あの口角を上げるだけの控えめな微笑みで、そんなに?
「いえ、それは特殊な事例です。とにかく、すぐに完璧な笑顔を作る必要はありません。目はそのままでも大丈夫ですから、口元の力を抜くところから始めましょう。それだけで、人が受ける印象は変わるはずです」
方針をまとめると、ラテリスは俺を見た。
「承知しました。まずは口元から始めます。昔はできていたことですから、思い出すことに時間はかからないはずです」
ラテリスの背筋が、いつもとは違う意味で伸びたように見えた。防御の姿勢ではなく、挑戦に向かう姿勢だ。
「セリウのような笑顔を、あなたにお見せしてみせましょう。イルデイン家の名に懸けて」
それは宣言だった。
この数日間、彼女の判断力は何度も目にしてきた。査定基準に問題があると分かれば、過去の決定に固執することなく即座に廃止を決断した。ルキアンの件でも、俺が促す前に自ら対話を選んだ。
ラテリスという人間は、目標が定まれば迷わない。人を見ることも、笑顔を見せることも、彼女にとっては未知の挑戦ではない。かつて手放したものを、もう一度取り戻す作業なのだ。
「セリウ。しばらくの間、練習に付き合ってもらえますか?」
「もちろんですっ! ラテリス様の笑顔、私がばっちり仕上げてみせますよー!」
セリウは猫耳をぴんと立てて即答した後、ちらりと俺の方を見た。
その口元が、にんまりと弧を描いている。
「とびっきりの笑顔にしないとですもんねっ」
そう言うと、彼女はラテリスの隣に移り、早速何やら話し込み始めた。
主と使用人という堅い関係の中に、幼なじみのような親密さが垣間見える光景だった。
すぐに全てが解決するわけではない。
だが、改善の道筋は出揃った。
俺の出張業務も、ようやく終わりが見えてきた。




