第74話:組織風土の初期評価、TPOはどこへ行った
第7区の朝は、窓越しに聞こえる幾重もの葉擦れの音と、湿気をたっぷりと含んだ土の匂いと共に始まった。
鏡の前でネクタイを締めながら、俺は改めてこの宿の造りを観察した。
効率と機能性のみを追求した、第8区のビジネスホテル的な宿とは根本的に概念が異なっている。太い木組みの梁が剥き出しになった天井や、温かみのある間接照明。踏みしめるたびに微かに軋む木の床の音すらも、意図された環境音のように心地よい。
自然との共生を謳う第7区のコンセプトが、宿泊施設という末端のサービスにまで徹底されている証左だ。
朝食を済ませ、迎えを待つために1階のロビーへと降りた俺は、そこで予期せぬ人物の姿を目にして、歩みを止めた。
「おはようございます……カツラギ様」
木目を活かした落ち着いたロビーの片隅。魔法陣の刺繍が入った見覚えのあるローブ姿の女性が、俺の姿を認めるなり肩を跳ねさせて、深いお辞儀をした。
赤茶色の髪を几帳面なシニヨンにまとめた彼女は、第9支部の魔石鑑定士、ヴェリサだ。
「ヴェリサ? おはよう。どうしてここに?」
「あの……昨日、オルガさんに……カツラギさんの第7支部視察に同行するようにと、言われまして……。もしかして、私などがお邪魔しては、ご迷惑でしたでしょうか……?」
彼女の視線がせわしなく床を這い、声のトーンがみるみる落ち込んでいく。
最近はすっかり影を潜めていたはずの、ネガティブモードだった。前日に、いきなり上司から他支部への出向を命じられれば、誰だって不安と緊張で萎縮もするだろう。今にも進退伺いを出しますと言い出しそうだ。
「いや、迷惑なはずがない。むしろ助かる。第7支部の内情を見る上で、鑑定のプロフェッショナルが傍にいてくれるのは非常に心強いな」
「本当ですか……? 私なんかが、お役に立てるのでしたら……」
俺がはっきりと肯定すると、ヴェリサの強張っていた表情に、ほんの少しだけ安堵の色が混じった。
オルガからは、彼女を派遣するという事前連絡は受けていない。完全なトップダウンの采配だ。
だが、現地に専属の鑑定士を送り込むという判断自体は、極めて理にかなっている。あるいは、あの勘のいいギルド長は、この第7区を視察させるにあたり、書類の数字には表れない何かを事前に嗅ぎ取っていたのかもしれない。
「お待たせいたしました、カツラギ様、ヴェリサ様。ルキアンと申します」
背後から掛けられた声に振り返ると、思わず眉をひそめそうになった。
宿の静かなロビーに足音もなく現れたのは、透き通るような金髪を撫で付けた、端正な顔立ちの青年だった。ルキアンと名乗った彼は、第7支部の魔石鑑定職員だという。
だが、俺の視線を釘付けにしたのは彼の容姿ではない。彼が身に纏っている衣服だ。
どう見ても、それはギルドの制服ではない。黒を基調とした上質な生地に、無駄のないカッティング。どこか高位の貴族の屋敷で仕える人間が着るような、完璧に仕立てられた執事服だった。
ギルドの職員が、執事服で視察官の迎えに来たという事実。
役所の職員が燕尾服を着て窓口に立っているようなものだと考えれば、非常識なドレスコードではある。
当の本人は俺の内心の困惑など意に介する様子もなく、非の打ち所のない優雅な一礼をしてロビーの出口へと手を向けた。
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ルキアンに案内され、朝の光に照らされた第7区の街路を進んだ。
昨夜の夕暮れ時には分からなかったが、陽光の下で見ると、この街の緑の鮮やかさは圧倒的だった。幅の広い石畳の街道の両脇には、樹齢数百年はあろうかという巨大な街路樹が等間隔で並び、枝葉が作る緑の天蓋が心地よい木漏れ日を落としている。
建物の壁面すらも蔦や苔が計算されたように配置されており、街全体が一つの巨大な庭園のようにデザインされているようだった。すれ違う住民たちも、どこか穏やかな顔つきで歩幅がゆったりとしている。第8区の殺伐とした商人たちの足早な動きとは、流れている時間の速度が違うのだ。
道中、ルキアンとの会話は、街の案内や気候の話など、当たり障りのない内容に終始した。彼の言葉遣いは極めて丁寧で、礼儀正しい好青年のそれだった。
だが、俺の目は別の事実を拾い上げていた。歩く姿勢、わずかな視線の動かし方、そして何より足音の無さ。彼の所作は、洗練されすぎている。これはギルドの事務員が実務の中で身につける動作ではない。何らかの訓練を受けた人間の動きに見えた。
やがて見えてきた第7支部の建物は、周囲の自然環境に溶け込むように建てられた木造建築だった。
太い木組みの柱が建物の正面を支え、その壁面には蔦が這い、屋根の上には苔が薄く緑の層を作っていた。
外壁の木材はよく手入れされ、エントランスへ続くアプローチの植え込みも丁寧に剪定されている。自然を取り込みながらも、管理者の目が隅々まで行き届いていることが窺えた。
両開きの重厚な扉を抜け、ロビーへと足を踏み入れた瞬間。
俺は、自分の目を疑った。
「メイド服……だと?」
声が出てしまった。
広々とした1階のフロア。冒険者たちが並ぶ受付カウンターの向こう側で窓口業務にあたっている職員の中に、黒と白を基調としたフリル付きのメイド服を身に纏った女性や、ルキアンと同じような執事服を着た男性が混ざっていた。
窓口の奥には、見慣れたギルドの制服を着た職員もいたが、その視覚的なコントラストのせいで、メイドや執事の存在感が悪目立ちしていた。
冒険者ギルドという公共の機関に、メイドが並んでいる。
異世界であることを加味しても、コンプライアンスや服装規定の概念が存在しないらしい。何故彼らがこんな格好で平然と業務を行っているのか、今の時点では見当もつかない。
俺はすぐに思考を切り替え、彼らの動きを観察した。
異常なのは服装だけで、彼らの窓口業務は恐ろしいほど効率的で無駄がなかった。
書類の処理速度、冒険者への丁寧な対応、次の部署への的確な案内。どれをとっても、俺がこれまで見てきた支部の中で最高水準にある。フロアの業務は、時計の歯車のように整然と回っていた。
そこには職員同士の雑談もなければ、冒険者に向けられる笑顔もない。誰もがただ、マニュアル通りに処理をこなすシステムの一部として稼働している。工場の生産ラインに近い無機質さだった。
ふと、日本の銀行や役所の窓口を思い出した。整然とした列に、必要最低限の事務的なやり取り。それでも、あちらでは誰もそれを異常だとは思わない。むしろ、あれが『正常』だった。
第9支部と第8支部が例外的に人間臭かっただけで、本来ギルドの窓口とはこういうものなのだろうか。
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窓口の奥にある職員用の通路を抜け、本館2階へと上がった。
廊下は磨き上げられた木の床が続き、壁には業務通達の羊皮紙が整然と貼り出されている。
その最奥には、他の部屋とは明らかに造りの異なる、重厚な木の扉があった。
「こちらが、ギルド長の執務室でございます」
ルキアンが扉を2回ノックした。
「お連れしました、ラテリス様」
「どうぞ」
中から短い許可が返り、ルキアンが静かに扉を開けた。
室内は、予想以上に簡素だった。広さはそれなりにあるが、飾り気がない。壁に絵画はなく、観葉植物もない。窓際には応接用のソファとローテーブルが配置され、その一角に先客の姿があった。
部屋の奥には大きな執務机が据えられており、机の上には書類が整然と積まれ、余計なものは一切置かれていなかった。
「お待ちしておりました。第7支部ギルド長、ラテリス・イルデインと申します」
デスクの奥から立ち上がった女性を見て、俺は一瞬、思考が停止するのを感じた。
射抜くような金色の瞳。表情は穏やかだが、その瞳の奥にある光は、宝石というよりは精密機械のレンズに近い。腰まで届く見事なピンクブロンドの髪が、背後の窓からの光を受けて淡い金色の輝きを放っている。
彼女は、身体のラインに沿う黒の乗馬服のような装いの上から、重厚なギルド長のコートを肩から羽織っていた。豊かな胸の膨らみや引き締まった腰回りなど、柔らかな曲線美を確かに備えているはずなのだが、彼女が纏う空気は不思議なほど色気を削ぎ落としていた。その恵まれた容姿すらも、ただ人を威圧し、完璧に従わせるための機能としてそこに存在しているかのようだった。
年齢は、弱冠22歳。
事前の情報によれば、彼女は五大貴族の一つであるイルデイン公爵家の令嬢であり、3ヶ月前にこの第7支部のトップに抜擢されたという。
だが、目の前の女性からは若さゆえの未熟さや青さなど微塵も感じられなかった。
「第9支部より視察に参りました、カツラギです。こちらは同じく第9支部から同行した、魔石鑑定士のヴェリサです」
俺が短く自己紹介を済ませると、隣でヴェリサが硬い動きでお辞儀をした。
「お呼びする際は『ラテリスさん』でよろしいでしょうか?」
「はい、そのようにお呼びください」
ラテリスは表情一つ変えずに頷いた。
この世界の貴族は家名ではなく個人名で呼ばれることを好むという。姓は家の名であり、名こそが個人を示すもの、という価値観なのだそうだ。以前そう教えられて以来、それに倣うようにしている。
「久しいな、カツラギ殿。息災であったかな」
不意に、ソファの方から聞き覚えのある、よく通る声が響いた。
優雅に脚を組んで座っていたのは、銀糸のような髪を持つ男だった。白を基調とした上質な装いに、洗練された所作。ギルド本部の監査官、シヴィリオ・アスピオンだ。この簡素な執務室の中で、彼の存在だけが異質な光沢を放っている。
「ご無沙汰しております、シヴィリオさん」
俺は一礼して応えた。
視察を依頼した彼が、わざわざ俺の到着に合わせてこの場に同席しているということは、ただの偶然ではないのだろう。
常に含みのある微笑を浮かべる、底知れない男だ。この監査官は、俺とラテリスの顔合わせで何を見定めようとしているのか。
「早速ですが、視察にあたり、当支部の現状をご報告させていただきます」
俺とヴェリサがソファに着席するや否や、ラテリスは即座に本題に入った。
雑談はない。当日の天気の話や長旅の労いといったアイスブレイクも一切存在しない。
合理的だ。ビジネスの場としては全く正しい。
シヴィリオは口を挟まず、ソファに深く腰を預けたまま観察者に徹していた。
ラテリスがデスクの上から羊皮紙を1枚取り上げると、ルキアンが音もなくそれを受け取り、俺の前に差し出した。
クエストの達成件数、業務上の事故件数、規律違反件数。ご丁寧に、着任直後と直近の比較データまで添付されている。資料としての精度は、経営会議のプレゼン資料に匹敵するレベルだ。
特筆すべきは、数値が全て実数ベースで提示されている点だった。ごまかしのきかない、最もシビアな報告形式だ。
「直近1ヶ月での支部内の事故件数はゼロ。規律違反もゼロ。着任当初と比較して、全ての項目で改善が見られます。何かお気づきの点はございますか?」
淡々と数値を読み上げるラテリスの声色には、己の実績を誇る響きも、謙遜する色もなかった。ただ、帳簿が自ら喋っているかのような冷たさだけがある。
彼女の視線は、「あなたが気づくような不備などあるはずがない」という確信に満ちているかのようだった。
「素晴らしい数字ですね」
資料に視線を落としながら、素直に評価を口にした。嘘ではない。
『警告色視』を使っても、目の前の羊皮紙からは一切の赤い光は発せられていなかった。
改竄はない。この非の打ち所のない数字は、全て本物だ。
「資料、ありがとうございます。本日はこの後すぐに、各エリアの業務を見回らせていただきます」
「承知いたしました。では、私が当支部をご案内いたしましょう」
視察の開始を告げると、ラテリスは表情一つ変えずに立ち上がり、無駄のない所作で部屋の扉へと手を向けた。
資料の数字におかしいところはない。不正を示す警告も光らなかった。
だが、数字が整っているからといって、現場に問題がないとは限らない。
第8支部でもあったように、美しすぎるデータの裏側には、数字に表れない歪みが潜んでいることがある。
組織の真の姿というものは、紙の上の報告書ではなく、そこで働く人間たちの手元にこそ宿るものだからだ。




