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第二章 一乃末陪編

すべては、桓武天皇から始まった。


奈良の都・平城京に陰りが差し、律令国家の理想が揺らぎ始めた8世紀末。桓武天皇は、乱れた秩序を立て直すべく、内政と外征の両面で大きな改革を断行した。その二大政策が、平安京への遷都と東北への征夷である。


一方、財政は逼迫し、皇族の維持が困難となった。桓武天皇は、皇族の一部を臣籍降下させ、「平」の姓を与えた。臣籍降下は桓武天皇の後の世代まで続くことになる、「源」の姓が与えられた。


こうして誕生したのが、後に日本史を揺るがす二大武家――平家と源氏である。


平家は【平】安京を作った桓武天皇、その皇子・葛原親王を祖としている。源氏は同じく桓武天皇の皇子・嵯峨天皇を【源】流とした。彼らは貴族社会の外縁に位置しながら、やがて武をもって時代を動かす存在となる。


平安の都では、藤原氏を中心とした貴族たちが権勢を振るい、華やかな文化が花開いた。しかしその一方で、地方は腐敗し、朝廷の力は届かぬ地が増えていった。税の徴収は形骸化し、国司は任期中に私腹を肥やすことに腐心し、民は疲弊していった。


そして、時代は移り変わる。

時は下って10世紀、中央の権威が揺らぐ中、地方では武力による自立の動きが始まっていた。


承平・天慶の乱――


・藤原純友の瀬戸内海での海賊蜂起

 朝廷の海上支配が揺らぎ、瀬戸内の物流と治安が崩壊した。純友は元官人でありながら、民衆の不満を背負って蜂起した点で、単なる海賊ではなかった。


・平将門の関東独立の試み

 関東の豪族連合を率い、独自に「新皇」を称した将門の行動は、中央集権に対する地方の自立意識の象徴であり、後の武士政権の萌芽とされる。


これらの乱は、中央の無力さを露呈し、武士の台頭を促す契機となった。朝廷は貴族の軍ではなく、地方の武士団を頼るようになり、武士は「戦う貴族」としての地位を確立していく。


この乱の平定に活躍した者たちの末裔が、後の平清盛、源頼朝、そして奥州藤原氏である。彼らは、乱世の火種の中から生まれ、武をもって時代を切り拓いていった。


武士とは、単なる戦士ではない。土地を守り、民を束ね、時に朝廷と対峙する存在。彼らの誕生は、律令国家の終焉と封建社会の胎動を告げるものだった。


そしてまた時代の目は東北へ――それは、朝廷の支配が及ばぬ辺境でありながら、豊かな金を産する地でもあった。


天平21年(749年)、陸奥国から献上された黄金900両は、東大寺の大仏鍍金に使われた。これは、俘囚(蝦夷)の地が単なる未開の地ではなく、国家財政にも寄与する資源地であったことを示している。


奥州でも、とりわけ豊かな奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手)。ここを支配したのは安倍氏で、11世紀初頭から中頃にかけてとされている。


安倍氏は、朝廷から任命された官職に加え、地元の有力者として「酋長しゅうちょう」的な立場を自称していたとも言われています。これは、中央の制度とは異なる、地域に根ざした独自の権威を示すものであり、実質的には半独立的な支配者として振る舞っていたことを意味する。


この地を治めていたのが、安倍頼良(のちの頼時)である。彼は胆沢を拠点に、奥六郡を支配し、俘囚(蝦夷)の棟梁として君臨していた。


阿弖流爲あてるいの末裔。

その血は、安倍氏の中に脈々と受け継がれている。阿弖流為あてるいが坂上田村麻呂に降った延暦21年から約250年、俘囚(蝦夷)の誇りは、形を変えて奥州に息づいていた。


そして、永承6年(1051年)、奥州の地に戦の火が灯った。前九年の役の始まりである。


安倍頼良は、朝廷への租税を拒み、陸奥国府の管轄地域である衣川以南にまで進出していた。朝廷はこれを「反乱」とみなし、陸奥守・藤原登任を派遣。登任は約4,000の兵を率いて進軍したが、安倍軍は鬼切部館に籠り、地形を活かした防御戦を展開。登任軍は補給線を断たれ、兵糧不足に陥り、ついに敗走。登任は都へ逃げ帰り、敗戦の責を問われて更迭された。


この敗北を受け、朝廷は河内源氏の源頼義を新たな陸奥守に任命。彼の嫡男・源義家は、若干十代ながら父に従い、戦場に立った。


翌年、康平元年(1058年)、後冷泉天皇の母・上東門院(藤原彰子)が重い病に伏した。朝廷はその平癒を祈願し、神仏への奉納とともに康平の大赦を発した。これは宗教的祈願と政治的配慮が重なった恩赦であり、前九年の役に関与した者のうち、一定の条件を満たす者に対して罪を赦すものであった。安倍頼良もその対象となり、赦免を受けて源頼義との同音を遠慮し、名を「頼時」と改めた。


この赦免の直後、頼時の娘・一乃末陪いちのまえは、地方豪族・藤原経清(藤原北家の流れを汲む)に嫁ぎ、1056年(天喜4年)、藤原清衡を産む。


一乃末陪いちのまえは、奥州に咲いた花のように美しく、凛とした気品を湛えていた。その容姿は、戦乱の世にあっても人々の心を和ませ、経清が彼女に心を寄せたのも、ただ美しさゆえではなく、その聡明さと芯の強さに惹かれたからである。


この婚姻は、単なる家同士の結びつきではなかった。安倍氏と藤原氏という、地方と中央、俘囚(蝦夷)と貴族の血が交わることで、後に奥州を統一する「北の王」が誕生することになる。


この婚姻によって、藤原経清は安倍頼時の娘婿となり、後継者の安倍貞任とは義理の兄弟の関係となった。さらに、頼時の娘婿には平永衡もおり、彼ら三人は義理の兄弟として戦場で共に陣を張ることになる。


一乃末陪がいなければ、安倍・藤原は結びつかず、藤原清衡も誕生しなかった。彼女こそが、血脈と時代をつなぐ「結節点」である。


天喜4年(1056年)、阿久利川の河畔で頼義の部下が夜襲を受け、頼時の娘婿・平永衡が殺害された。藤原経清も娘婿であった。


経清は、永衡の死体を見て言葉を失った。かつては刎頚の友――命を賭しても背を預けられる仲だった。経清は、次は自分だということを悟ったのである。後に、息子・清衡の名に「衡」の字を入れたのは、永衡への鎮魂と友情の証だった。


藤原経清は、安倍氏に走る。源義家はこの決断に衝撃を受けた。経清の武勇と人格に深く敬意を抱いていた。


黄海の戦いでは、経清は源氏軍を敗走させながらも、頼義義家父子を見逃した。その時源氏方はわずか七騎であった。義家はその武士の情けに心を打たれ、経清を「敵でありながら、最も尊敬すべき武士」として記憶する。


康平5年(1062年)、源頼義は出羽の俘囚(蝦夷)清原氏を味方に引き入れ、厨川の戦いで安倍氏を滅ぼす。


経清は義家の説得に応じて降伏したが、父・頼義はそれを許さず、「武士の風上にも置けぬ者」と罵り、処刑を命じた。義家はその場に立ち会いながらも、父の命令に逆らえず、沈黙するしかなかった。


経清は、錆びた刀でノコギリ引きにされ、苦痛を長引かせる形で斬首された。義家はその死を見届けながら、心の中でこう呟いたという。


「あなたこそ、武士の鑑。」


そして、安倍貞任もまた、厨川で討たれた。伝承によれば、彼の首は八寸(約24cm)の鉄釘で丸太に打ち付けられ、晒されたという。


この八寸釘は、後に土地の人々によって蜂神社の御神体に打ち込まれたと語り継がれている。釘には貞任の魂が宿るとされ、「この釘が抜けると祟りがある」という言い伝えが生まれた。


蜂神社にはこの伝承が今も静かに息づいている。地元では、貞任の霊がこの地を守っていると信じられ、釘に触れることすら畏れられている。


それは、敗れた者の怨念ではなく、土地を守ろうとした者の誇りの象徴だった。


一乃末陪いちのまえは、夫を失いながらも生き延びた。彼女の美しさと気品は変わらない。清原武則の子・武貞に再嫁することとなる。ここでも一乃末陪いちのまえの存在により、清衡は生き延びることとなる。


藤原清衡は武貞の養子として育てられる。そして、清原武貞と一乃末陪いちのまえの間に子供が生まれる。清原家衡である。家衡の文字には、一乃末陪いちのまえの願いが見て取れる。清衡から一字とったのである。


清衡は安倍・藤原の血を継ぐ唯一の存在となった。清原の養子でもある。


一乃末陪いちのまえは星を見上げて思う。

夫経清を失い、夫の仇に再嫁し、その子供を抱いて、眠れぬ夜。彼女は北天の星々に語りかける。

「この子たちが、俘囚(蝦夷)の誇りを絶やさず、争いのない世界で暮らせますように」と。


北天の星々は、蝦夷そして、平永衡、藤原経清の魂を宿し、今も静かに瞬いている。

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