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第一章 阿弖流爲編

全ては桓武天皇から始まった。


奈良の都・平城京に陰りが差し、律令国家の理想が揺らぎ始めた時代。桓武天皇は、乱れた秩序を立て直すべく、内政と外征の両面で大きな改革を断行した。彼の目には、ただの政治ではなく、国家の未来が映っていた。


その二大政策が、遷都と征夷である。


遷都とは、平城京から新たに築かれた京都平安京への移転。奈良時代末期、平城京では仏教勢力が政治に深く介入し、特に僧侶・道鏡の台頭によって、あわや皇統が絶える寸前であった。桓武天皇は、仏教の教義そのものではなく、政治に干渉する宗教勢力を排除する必要性を感じていた。遷都は、仏教勢力の影響を断ち切り、天皇親政を回復するための大胆な決断だった。


延暦13年(794年)、桓武天皇は平安京への遷都を断行した。

平安京は、山と川に囲まれた風水的にも理想の地とされ、国家の新たな中心として築かれた。四神相応の地に、天皇の意志が刻まれた瞬間だった。


そしてもう一つの柱が、東北への征夷である。


その頃、東北(特に岩手県以北)はまだ「日本」ではなかったのである。


地図の上では同じ日本列島にありながら、政治的には「未開の地」とされていた。どこまでが日本、つまり大和朝廷の支配下にあったかというと、実質的には関東の北辺、奥羽山脈の南端までであり、それより北は「蝦夷地」と呼ばれ、朝廷の命令が届かぬ世界だった。


話は遡るが、聖武天皇は仏教による国家安寧を願い、東大寺の大仏建立を命じた。その大仏の鍍金に使われた金は、陸奥国(現在の宮城県)から献上されたものである。その当時、日本から金は産出されないと信じられていた。天平21年(749年)、陸奥守・百済王敬福くだらのこにきしきょうふくが「陸奥国から黄金900両を献上」と奏上した記録が『続日本紀』に残る。これは、蝦夷地が単なる辺境ではなく、国家財政にも寄与する資源地であったことを示している。


北の山々を越えた先に広がる地は、朝廷の支配が及ばぬ、黄金を秘めた「辺境」。そこに暮らす者たちは「蝦夷えみし」と呼ばれた。


蝦夷とは、律令に従わぬ者たち。だが、彼らはただの反逆者ではない。山と川に寄り添い、星と語らい、誇り高く生きる民だった。


その中心にいたのが、胆沢(岩手県)の地に生まれた男、阿弖流爲アテルイである。


桓武天皇は、東北の地を「征する」ことを決意した。都から派遣されたのは、征東将軍・紀古佐美きのこさみ。彼は多賀城(宮城県)を拠点に軍を進めた。


多賀城。それは、東北支配の象徴であり、蝦夷にとっては侵略の牙城だった。


だが、阿弖流爲はその動きをしっかりと見ていた。蝦夷の戦士たちは、山を背に、川を盾に、巣伏の地(岩手県)で待ち構えた。


延暦8年(789年)、朝廷軍6,000が北上川を越えて胆沢へ進軍。将軍は紀古佐美。蝦夷の地を知らぬまま、湿地に踏み込んだ。


阿弖流爲は、6,000に対してわずか1,500の兵で迎え撃つ。蝦夷軍はまず正面から現れて戦い、すぐに退却。朝廷軍はそれを追って巣伏の村へ進む。


そこに阿弖流爲の本隊が待ち構えていた。


そして、別働隊が横と後ろから襲いかかる。前方・右側面・背後、そして左側面は川。少数による完全包囲作戦であった。朝廷軍は、逃げ場を失った。


湿地に足を取られ、川に落ち、鎧を脱ぎ捨てて泳いで逃げる者もいた。戦死・溺死・負傷を合わせて2,500以上の被害。蝦夷軍は、地形と知略で圧倒した。


しかし、戦の後、阿弖流爲は空を見上げて思う。


「これで本当に終わったのだろうか。」


北天の星々は静かに瞬いていた。


巣伏の敗北を受け、桓武天皇は征夷体制を再編。延暦13年(794年)、大伴弟麻呂が初代征夷大将軍に任命される。


弟麻呂はまず阿弖流爲の本拠地県胆沢のその東側、江刺を確保。物流を整え、兵站を築き、胆沢攻略の拠点とした。


戦闘は小規模なものばかりだった。蝦夷の側も大規模な反撃には出ず、弟麻呂の軍は小さな村落の制圧と補給路の確保に専念した。


戦闘指揮は、副将軍・坂上田村麻呂が担った。


桓武天皇は、巣伏の戦いの反省から、最初から二段階で胆沢を攻略するつもりだった。弟麻呂の征夷は、目的を果たした。征夷の道は整った。


坂上田村麻呂は、武人でありながら仏教への信仰も深く、京都府の清水寺の建立にも尽力した人物。蝦夷の人々にとっては皮肉なことに、北方守護の仏・毘沙門天の化身とされ、戦場に立つその姿は、畏怖と尊敬の対象となった。


征夷大将軍を坂上田村麻呂として、自身二回目の征夷が始まる。


田村麻呂が胆沢へ向かう途中、福島県の地に入ったとき、大滝根山の麓に、大竹丸おおたけまると呼ばれる豪族がいた。


彼はこの地を治め、民を守る者だったが、朝廷の命令に従わず、兵士や物資の供出を拒んだ。


田村麻呂は彼らを「賊」として戦いを始める。滝根の戦いである。


大竹丸は、白銀城に立てこもり、部下の鬼五郎とともに迎え撃った。田村麻呂の軍は数に勝るが、地形に不慣れで苦戦を強いられる。


大竹丸は山の地形を生かし、奇襲と伏兵で応戦した。


しかし数で勝る田村麻呂軍がじわじわと、大竹丸を追い詰める。最後、大竹丸は、洞窟の奥で、自ら命を絶った。


戦いの後、田村麻呂は大竹丸の首を、福島県仙台平に丁重に葬ったという。


征夷の軍は、行く先々で兵士や物資の供出を求めた。それに反抗する者たちもいた。


福島県での戦い以後、反抗する者たちを「大多鬼丸」と呼んだのだ。


「鬼」とはどういう存在なのか?

それは、朝廷に従わぬ者、支配に抗う者、そして誇りを捨てぬ者の象徴だった。

「鬼」とは、都から見た異形なのである。


だからこそ、福島県滝根、宮城県達谷窟、岩手県一関など、福島・宮城・岩手にまたがる各地に、大多鬼丸の伝説が残っている。

それは、蝦夷の誇りが土地に残り、今も静かに息づいている証でもある。


延暦21年(802年)、坂上田村麻呂は、胆沢城を築く。

それは、蝦夷支配の象徴であり、阿弖流爲あてるいの故郷に突き立てられた朝廷の意志だった。


胆沢城は、東西約670メートル、南北約900メートルの広大な城域を持ち、周囲には高さ約5メートルの土塁と堀が巡らされていた。

城の中心には政庁が置かれ、北の地に律令国家の秩序が刻まれた。


阿弖流爲あてるいたちは、遠くからその城を見つめたのだろう。

何もなかった彼らの森に、突如見たこともない巨大な朝廷の政軍庁が建ったのだ。

それは、敗北の象徴であると同時に、時代の転換点でもあった。


延暦21年(802年)、阿弖流爲あてるいは、母禮もれともに500余名の兵を率いて降伏した。

戦いではなく、誇りを持って、未来を選んだのだ。


阿弖流爲あてるいと坂上田村麻呂。

北天の英雄と北方守護の化身。

この2人が何を語ったのだろうか?


記録には残っていない。

だが、東北の地の未来を語ったのではないだろうか。

戦ではなく、共に歩む道を模索したのかもしれない。


しかし、田村麻呂の必死の除名嘆願もむなしく、朝廷は阿弖流爲あてるい母禮もれを「反逆者」として処刑することを決定。

「野性獣心、反復して定まりなし」——公卿たちはそう言って、田村麻呂の願いを退けた。


延暦21年(802年)、阿弖流爲あてるい母禮もれは、現在の大阪府にあたる河内国で斬首された。


その日、北天の星々は静かに瞬いていた。

阿弖流爲あてるいの魂は、星となって北天に昇った。


時は流れ、場所は京都府の清水寺。

阿弖流爲あてるい母禮もれを讃える碑がひっそりと建っている。


碑にはこう刻まれている——

「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」


この言葉こそ、蝦夷の地に生きた者たちの誇りを、静かに語り継ぐもの。


北天の星々は消えない。

阿弖流爲あてるいの子孫は、今も東北に生き続けている。

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