第五話 腐肉の檻と救済の絞首台
重苦しい黒雲が、街全体に低く垂れ込めていた。エルノアは崩れかけた外壁の隙間から、その街に足を踏み入れてしまった。街道の案内板には確かに「立入禁止」と記されていたはずだったが、崩落した壁の隙間はあまりに無防備で、旅の途中で迷い込んだ彼女には、その先に何が待ち受けているか知る由もなかった。
「これは……」
言葉が続かなかった。焦げた木材の匂いと、それに混じる饐えたような臭気が鼻を突く。石畳には割れた食器や引き裂かれた衣服が散らばり、あちこちの家の扉は無残に打ち破られていた。看板には『ゴルゴタ』という文字が、まるで呪いのように刻まれている。
人影のない通りを歩くたび、閉ざされた窓の奥から、押し殺した咳や啜り泣きが漏れ聞こえてくる。誰もが息を潜め、外の世界を恐れるように扉に鍵をかけていた。かつては賑わっていたであろう市場も、今はひっくり返った屋台と、朽ちかけた果物の山が残されているだけだった。人の気配はあるのに、誰一人として姿を見せない。その異様な静けさが、エルノアの背筋をひやりと冷やした。
遠くから、獣の唸り声にも似た怒号が響いてきた。エルノアは反射的に物陰に身を潜め、そっと様子をうかがう。
広場の中央では、松明を掲げた男たちが、泣き叫ぶ家族を取り囲んでいた。
「頼む、頼むから……! この子は病気じゃない、ただの風邪なんだ……!」
「うるさい! 感染の疑いがある奴は、みんな同じだ!」
男たちの中心にいるのは、腕章をつけた屈強な男――自警団長のジャックだった。彼が顎で合図をすると、悲鳴を上げる家族が次々と乱暴に引きずられ、街の外れにある底なしの坑道へと放り込まれていく。落ちていく人々の悲鳴は、暗い穴の奥へ吸い込まれるように消えていった。
「次はどいつだ!」
ジャックの怒声に、周囲の男たちが怯えながらも従う。誰もが恐怖に支配され、疑いをかけられることを免れるためだけに、隣人を差し出す側に回っていた。かつて共に暮らしていたはずの人々が、今はただ互いを監視し合う存在に成り下がっていた。
「そんな……」
エルノアは声にならない声を漏らし、思わず一歩前へ出ようとした。目の前で繰り広げられる光景が、あまりに現実離れしていて、すぐには受け止めきれなかった。その瞬間、背後から強く腕を引かれる。
「馬鹿、見つかるぞ!」
やつれた顔の男に口を塞がれ、エルノアは薄暗い地下の隠れ家へと引きずり込まれた。抵抗する間もなく引き込まれたその先には、外の喧騒とはまるで違う、息を潜めるような静寂が広がっていた。
男はレオンと名乗った。かつては誠実な鉱夫だったというその顔には、深い疲労と恐怖が刻まれていた。
「すまない、乱暴に。だが、あそこで声を上げていたら、あんたも穴に放り込まれていた」
狭い地下室は、かつては貯蔵庫として使われていたのだろう。棚には空になった瓶や、使い古された鉱夫道具が並んでいた。壁の隙間から差し込むわずかな光だけが、この場所の唯一の明かりだった。
部屋の隅には、粗末な布にくるまれて横たわる小さな影があった。八歳ほどの少女――レオンの娘、ミハルだった。頬はこけ、皮膚には黒ずんだ斑点が浮かび、荒い息を繰り返している。
「お父さん……お腹、すいたよ……」
うわ言のように呟く娘の額を、レオンは震える手でそっと拭った。
「もう少しだけ、我慢してくれ……」
棚から取り出したのは、具のほとんど溶けてしまった泥水のようなスープだった。それでも大切そうに、レオンはエルノアにも椀を差し出した。
「あんたも、腹が減ってるだろう。……これくらいしか、もう残ってないんだ」
「いえ、私は結構です。それより、娘さんの容態は……」
「黒血病だ。この街に蔓延している、不治の病さ。感染したとみなされた者は、問答無用であの坑道に投げ込まれる。……俺は、あの子だけは絶対に渡さない」
レオンの目には、絶望と、それでも消えない父としての意地が滲んでいた。
「食料も薬もとうに底を尽きた。この街はもう、誰も彼もが自分だけ助かろうと必死で、隣人を売り、家族すら見捨てる。……人間が、こんなにも醜くなれるものだとは、俺も知らなかったよ」
レオンは苦笑とも呻きともつかない声を漏らした。
「昔は、こんな街じゃなかったんだ。鉱山で採れる鉱石を誇りに、みんなで支え合って生きてきた。……病が広まったのは、たった数か月前のことだ。それなのに、もう誰も彼もが、隣に住む者の顔色を窺いながら暮らしている」
「そんな……」
「あんたは、逃げた方がいい。この街に関わっても、良いことなんて何もない」
レオンはそう言いながらも、娘の額を拭う手を止めなかった。エルノアはその横顔を見つめながら、胸の奥に込み上げる痛みをどうすることもできなかった。
その時だった。
地下室の扉が、激しい音とともに打ち破られた。
「見つけたぞ!」
松明を手にした男たちが、次々となだれ込んでくる。ジャックがミハルを見るなり、忌々しげに顔を歪めた。
「感染者だ! しかも隠していやがったのか! 殺せ、穴に放り込め!」
「やめてくれ、頼む……!」
レオンは娘を庇うように覆いかぶさったが、容赦のない棍棒が振り下ろされた。悲鳴を上げるレオンの背に、何度も何度も打撃が加えられる。
「お父さん、お父さん……!」
泣き叫ぶミハルの声が、地下室に響き渡った。周囲の住民たちも次々と集まり、恐怖と憎悪の入り混じった目でこの親子を睨みつけている。
「お前らのせいで病気が広がったんだ!」
「魔女もだ、あの女も病を運んできたに違いない!」
誰も彼もが、自分の罪から目を逸らすように、目の前の弱者へと憎悪をぶつけていた。飢えと恐怖に支配された人々の顔からは、もはや理性の欠片も見えなかった。少し前まで隣人として挨拶を交わしていたであろう者同士が、今はただ憎悪だけで繋がり、互いを煽り立てるようにして暴力の輪を広げていく。
「私たちが助かるためには仕方ないんだ……!」
誰かがそう叫ぶと、それに賛同する声が次々と重なった。恐怖に駆られた群衆の心は、もはや誰にも止められないところまで来ていた。
その光景に、エルノアの中で何かが弾けた。涙が溢れ、震える手で杖を強く握りしめる。これまでの旅で数えきれないほどの人々を助けてきたはずのその手が、今ほど重く、そして確かな意志を宿したことはなかったかもしれない。
「誰も殺させません……! この街の悲しみも、病も、私がすべて消し去ってみせます」
エルノアは隠れ家を飛び出し、街の中央広場へと駆け出した。夜空を見上げ、杖を天高く掲げる。紺銀の髪が逆立つように舞い、彼女の身体から尋常ではない魔力の奔流が溢れ出した。
「世界に満ちる無数の光よ、私の声に応えて……」
その声は、これまでのどんな大魔法を唱えた時よりも、深い慈しみと悲しみに満ちていた。
「――『生命の聖涙』」
夜空を切り裂くような聖なる光が、街全体を包み込んだ。空気そのものが浄化されていくように輝き、人々の体内に巣食っていた黒い病魔が、光の粒子となって溶けて消えていく。地下室で咳き込んでいたミハルの肌からも、黒い斑点が跡形もなく消え去った。
街のあらゆる場所で、同じ光景が起きていた。坑道の底に投げ込まれ、絶望の中で死を待っていた人々の身体からも、病の影が消えていく。誰もが自分の肌を見下ろし、信じられないというように呆然と立ち尽くしていた。
街に静寂が訪れた。人々は自分の身体を見下ろし、信じられないというように目を見開いていた。
――だが、歓声は上がらなかった。
光が収まると同時に、エルノアはその場に崩れ落ちた。この街で過ごした記憶のすべてが、レオンとの出会いも、ミハルの震える声も、目にした地獄のような光景も、一瞬にして彼女の中から消え去っていった。
病から解放された人々の顔に浮かんだのは、感謝ではなかった。
「……治った、のか?」
誰かが呟いた。だが、安堵の色はすぐに別のものへと変わっていく。ジャックが低い声で口を開いた。
「病気が治ったのはいい。……だが、俺たちがこれまでやってきたことを、レオンの一家は知っている。あいつらを生かしておけば、いずれ絞首台に送られるのは俺たちの方だ」
「そ、それに、あの魔女も気味が悪い……また、何か病を持ち込むかもしれない」
周囲の住民たちも、ジャックの言葉に次第に呑まれていった。誰かが小さく頷き、それがまた別の誰かへと伝播していく。恐怖から解き放たれたはずの心には、安堵の代わりに、自分たちが犯してきた罪の重さだけが重くのしかかっていた。その重さから逃れる術を、彼らは暴力以外に知らなかった。
恐怖から解放された反動が、そのまま醜悪な暴力衝動へとすり替わっていく。自分たちが犯した罪を消し去るため、住民たちは松明を握り直し、再びレオンの家へと押し寄せた。
「お、お前ら、待ってくれ……! もう病気は治ったんだろう、俺たちは何もしていない……!」
レオンの懇願も虚しく、振り下ろされた棍棒が彼を打ち据えた。崩れ落ちる父の姿に、ミハルは声も出せずに震えていた。
「病源の悪魔の子だ……!」
誰かが叫び、幾つもの手がミハルの細い肩に伸びる。小さな悲鳴は、すぐに掻き消された。
広場の隅で、エルノアはただ倒れたまま、その一部始終を知ることはなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。広場に倒れていたエルノアは、うっすらと瞼を開けた。
視界に飛び込んできたのは、地面に力なく横たわる、二つの小さな影だった。
「……あ」
声にならない声が漏れる。誰なのか分からない。なぜここにいるのかも分からない。ただ、目の前に広がる凄惨な光景だけが、エルノアの心を凍りつかせた。
「な、なんで……」
震える声で問いかけるエルノアの周囲に、返り血を浴びた住民たちが、松明と農具を手に集まってくる。誰もがすでに恐ろしいことをしでかしたばかりだというのに、その目には自分たちの罪を認める色など微塵もなかった。むしろ、その罪の重さを振り払うかのように、より激しい怒りと憎悪だけが渦巻いていた。
「お前のせいだ……!」
ジャックが唸るように叫んだ。
「お前が病気なんか治すから、こんなことになったんだ!」
「消えろ、化け物!」
「気味の悪い怪術使いめ!」
石が投げつけられた。額に鋭い痛みが走り、生温かい血が頬を伝う。エルノアは何が起きているのかも分からないまま、震える手で頭を押さえた。
「……あ、あの……! 私、何か……何か悪いことを、してしまいましたか……!?」
答える者はいなかった。ただ、憎悪と恐怖に歪んだ顔だけが、いくつもエルノアを取り囲んでいた。
次々と石が飛んでくる。肩に、腕に、背中に。鈍い痛みが幾度も身体を打ち、エルノアはその場にうずくまるほかなかった。誰一人として手を止めようとする者はおらず、群衆の中には、幼い子供を抱えたまま石を投げる母親の姿さえあった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
何に対して謝っているのかも分からないまま、エルノアはただ許しを乞うように叫んだ。だが、飛んでくる石は止まらない。次々と身体に打ち付けられる痛みに、エルノアは這うようにして、その場から逃げ出すしかなかった。
怒号と石つぶての中を、血を流しながら、エルノアはただ走った。何もかも分からないまま、ただ生き延びるためだけに、暗い森の方角へと逃げ続けた。
冷たい雨が降り始めていた。森の奥深く、泥にまみれてエルノアは倒れ込んだ。全身が痛み、額の傷から流れる血が雨水に混じって薄く伸びていく。
木々の隙間から差し込む月明かりもなく、あたりは深い闇に包まれていた。遠くから響く梟の声だけが、この森に生きているものの気配を伝えていた。エルノアは震える身体を丸め、傷ついた腕でそっと自分の肩を抱いた。
ふと、握りしめていた自分の手に気づいた。そこには、泥で汚れた小さな布人形があった。頭の部分がほつれ、片方の腕も千切れかけている。いつ、どこで、なぜそれを握りしめたのか、エルノアには全く分からなかった。
「これは……誰の……」
答えのない問いだけが、雨音に紛れて虚しく消えていく。震える手でサッチェルバッグから『無題の皮革手帳』を取り出し、雨に濡れながらページを開いた。何も思い出せない。ただ、身体中の痛みと、行き場のない悲しみだけが、心を押し潰そうとしていた。手帳のページはすでに雨でふやけ始めており、それでもエルノアはインクの滲む白紙のページに、必死でペンを走らせようとした。
震える指でペンを握り、エルノアはその白紙のページに、雨と涙の混じった文字を刻んでいく。
『〇月〇日。ゴルゴタという街にて。私は、大好きなはずの人間から石を投げられました。あの場所で倒れていた二人は、誰だったのでしょう。私はいったい、何のために生きているのでしょうか。頭が痛いです。冷たいです。誰か、助けてください』
書き終えた文字は、雨に滲んでほとんど読めなくなっていた。それでもエルノアは手帳を胸に抱きしめ、膝を抱えてうずくまった。
サッチェルバッグの中で、一話の街で貰った星の歯車、二話の空色のしおり、三話の木彫りのパン、四話のモフモフのハンカチが、汚れた小さな人形の横で、からからと虚しい音を立てていた。
それらはどれも、確かに誰かと交わした温かい想いの証だったはずだ。だが今のエルノアには、その温もりを思い出す術がなかった。ただ、無傷のままバッグの底に沈む品々だけが、彼女がこれまで確かに何かを積み重ねてきたことを、静かに物語っていた。
なぜ涙が止まらないのか、その理由さえも、エルノアには分からなかった。
膝を抱えたまま、エルノアは声を殺して泣き続けた。誰にも届かない慟哭が、雨音に紛れて森の闇へと吸い込まれていく。かつてこの手で誰かを救ったはずなのに、その記憶も、その温もりも、今はもうどこにも残っていない。ただ、痛みと孤独だけが、彼女の身体に刻まれていた。
冷たい雨だけが、いつまでも彼女を打ち続けていた。




