第二十一話 濡れた手帳と芽吹きのスープ
冷たい雨が、もう三日も降り続いていた。
エルノアは、その雨の中をただ黙々と歩き続けていた。深緑のローブはとうに芯まで水を吸い、つばの広い帽子からは絶え間なく雫が滴り落ちている。肩に食い込むサッチェルバッグは、まるで鉛でも詰め込まれたかのように重く感じられた。
花の街フェリシテで見た光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。幸せそうに笑っていた少女が、自分の魔法によって本当の苦しみを思い出し、血を流しながら泣き叫んだ姿。妹を抱きしめたまま、正気を手放していった青年の、歪んだ笑み。
助けようとした。それだけは、間違いなく本心だった。それなのに、差し伸べた手は、二人をより深い絶望へと突き落としてしまった。
「私は、いったい何のために魔法を使っているのでしょう」
誰に問うでもない呟きは、雨音に呑まれてすぐに消えた。杖を握る手にも、いつものような温かさはない。むしろ、指先が魔導杖に触れることすら、今は恐ろしかった。
視界が滲む。雨のせいなのか、それとも別の理由なのか、エルノア自身にも分からなかった。足取りが重くなり、一歩ごとに体温が奪われていくのを感じる。このまま森の中で立ち止まってしまいそうになった、その時だった。
深い霧の向こうに、小さなオレンジ色の光が滲んで見えた。
吸い寄せられるように、エルノアはその光に向かって足を進めた。古い木造の建物だった。軒先に下がった木の看板には、消えかけた文字で「ネブラの宿」と記されている。街道からも外れた、森の奥にひっそりと佇む一軒の旅籠だった。
凍えた指で重い扉を押し開けると、暖炉の爆ぜる音と、薪の匂いが柔らかく包み込んできた。
「まあ、こんな時間に。ひどい濡れようだね」
出迎えたのは、白髪を後ろで一つに束ねた老女だった。皺の刻まれた顔に、驚いた様子はほとんどない。まるで、こういう旅人が現れることに慣れているかのような、静かな眼差しだった。
「あの……申し訳ございません、こんな夜更けに」
「謝ることなんかないよ。さあ、こっちにお座り。すぐに乾いた布を持ってくるから」
老女はマルタと名乗った。彼女は、エルノアがなぜこんなにも憔悴しきった顔で雨の中を歩いていたのか、何も尋ねようとはしなかった。ただ黙って乾いたタオルを差し出し、暖炉のそばの小さな部屋へと案内してくれた。
しばらくして、マルタが湯気の立つ器を運んできた。香草と根菜がたっぷり入ったスープだった。芳しい匂いが、冷え切った部屋にふわりと広がる。
「お腹に入れて、少しでも温まるといい」
「……ありがとうございます」
礼を言いながらも、エルノアはスプーンを手に取ることができなかった。器の中で立ち上る湯気を、ただ虚ろな目で見つめている。
自分のような人間が、こんな温もりを受け取ってもいいのだろうか。誰かを助けるどころか、深く傷つけてしまった自分が。
マルタは何も言わず、静かに部屋を出ていった。一人残されたエルノアは、震える手でサッチェルバッグの口を開けた。中から取り出したのは、使い込まれた革表紙の手帳だった。
ページをめくると、あの雨の日に記したはずの文字が、無残なほど滲んで真っ黒なシミになっていた。書いた言葉の輪郭すら、もう読み取ることができない。まるで、あの夜の出来事そのものが、なかったことにされてしまうかのように。
その滲んだページを見つめているうちに、堪えていたものが一気に溢れ出した。ミレイの絶叫。シエルの憎悪に満ちた瞳。二人が花に呑まれて動かなくなっていく、あの静寂。
エルノアは声もなく、ただ肩を震わせて涙をこぼした。手帳の上に、新しい雫がいくつも落ちていく。
どれくらいそうしていただろうか。控えめな足音とともに、扉がそっと開いた。マルタが、様子を見に戻ってきたのだった。
涙に濡れた顔を隠す間もなく、エルノアは絞り出すように口を開いていた。
「私は……魔女なのに。誰かを救うための力を持っているはずなのに、誰も救えませんでした。それどころか、余計なことをして、二人を追い詰めてしまったんです」
言葉にすると、ますます胸が締め付けられた。
「助けたいと思ったんです。それだけは、本当なのに。私が差し出した魔法は、あの子から、優しい嘘の中で保たれていた最後の平穏さえも奪ってしまいました」
マルタは何も遮らず、ただ静かにエルノアの言葉に耳を傾けていた。話し終えると、老女はゆっくりと椅子を引き寄せ、エルノアの隣に腰を下ろした。
「この宿にはね、いろんな旅人が訪れるんだよ。戦から逃げてきた人、大切な人を亡くした人、自分の選んだ道を悔やんでいる人……」
マルタの声は、静かな川のせせらぎのようだった。
「この世界にはね、どんな魔法をもってしても、どんな優しい言葉をもってしても、届かない暗闇があるんだ。それは、あんたのせいじゃない」
「でも、私が……」
「あんたがそれほど苦しんでいるのは」
マルタは、エルノアの言葉を静かに遮った。
「その子たちの痛みに、心の底から寄り添おうとした証拠だよ。何も感じない人間なら、こんなふうに何日も雨の中を彷徨ったりはしないだろう」
エルノアは、何も言い返すことができなかった。ただ、その言葉が、冷え切った胸の奥にゆっくりと染み込んでいくのを感じていた。
マルタは、テーブルの上に広げられたままの手帳に目を落とすと、何も言わずに引き出しから乾いた布を取り出した。そして、滲んだインクの上を、そっと丁寧に押さえるように水分を吸い取っていく。焦らず、急かさず、ただ静かに。
「魔法で乾かすことだってできるんだろう?」
「……できます。でも」
「でも、今のあんたは、その杖に触れるのが怖いんだろうね」
図星だった。エルノアは俯いたまま、小さく頷いた。
マルタは布を置くと、エルノアの冷たい両手を、皺だらけの温かな手でそっと包み込んだ。
「無理に使う必要なんてないよ。今日くらいは、あんたが誰かを救う魔女である前に、ただの、冷えて疲れた旅人でいたらいい」
その言葉に、エルノアの中で何かが緩んだ。ずっと張り詰めていた糸が、少しだけ緩んでいくような感覚だった。
しばらくして、エルノアは震える指先を、恐る恐るサッチェルバッグの中の魔導杖に伸ばした。誰かのためではなく、まず自分自身のために。
濡れたローブと手帳に向けて、ごく小さな、ごく穏やかな生活魔法を紡ぐ。ふわりと柔らかな温風が布地を撫で、湿り気を優しく取り払っていった。大魔法とは比べ物にならない、ささやかな魔法だった。それでも、その小さな温もりが、エルノアの凍えた指先にまで確かに戻ってきた。
翌朝、目を覚ますと、窓の外には数日ぶりの光が差し込んでいた。雨はすっかり上がり、濡れた森の木々の葉が、朝日を受けてきらきらと輝いている。
エルノアは階下に降りると、昨夜手をつけられなかったスープの器が、そのまま台所に置かれているのを見つけた。すっかり冷めてしまったそれを、自分の手で温め直す。小さな鍋を火にかけ、湯気が立ち上るのをじっと見つめる時間は、不思議と穏やかだった。
温かなスープを一口すすると、香草と根菜の優しい旨味が、じんわりと体の奥まで染み渡っていった。止まっていた心の時計が、静かに、少しずつ動き出すのを感じる。
自分は、万能の救世主にはなれない。すべての人を、すべての悲しみから救うことなどできない。それでも、この世界の美しさも、目を背けたくなるような残酷さも、その両方をきちんと受け止めて、この足で歩き続けること。そうして見てきたものを、この手帳に書き留め続けること。それこそが、自分に許された唯一の旅なのかもしれない。
エルノアは静かにそう思った。
「マルタさん、昨夜はありがとうございました。おかげさまで、少し……前を向けそうです」
宿の入り口で、エルノアは深く頭を下げた。
「礼なんていいさ。ただ、ゆっくりお歩き。あんたの旅には、まだ続きがあるんだから」
マルタは、しわの寄った目を柔らかく細めて微笑んだ。エルノアは宿代を置き、すっかり乾いたサッチェルバッグを、もう一度肩に掛け直した。
澄み渡った空気の中、エルノアは森の街道をゆっくりと歩いていた。すっかり乾いた『無題の皮革手帳』を開き、あの滲んで真っ黒になったページのすぐ隣に、まっすぐな手つきでペンを走らせていく。
『〇月〇日。霧深い森のネブラの宿にて。
世界には、私の小さな魔法では、どうしても届かない絶望があります。
それでも、雨に濡れた翼を休める場所があり、一杯の温かなスープが、凍えきった心を静かに溶かしてくれることもあるのだと知りました。
救えなかった痛みを、なかったことにはできません。それでも私は、この足で歩き続け、世界のすべてを、この手帳に記録し続けようと思います』
書き終えたエルノアは、ふと足元に視線を落とした。濡れた落ち葉の隙間から、小さな緑の芽が、ひっそりと顔を出しているのが見えた。
誰に教わったわけでもないのに、雨上がりの土の中から、それでも真っ直ぐに顔を出している小さな命。
エルノアは、その芽にそっと指先を近づけ、微笑んだ。
「あなたも、ちゃんと歩き出しているんですね」
深く息を吸い込むと、澄んだ森の匂いが胸いっぱいに満ちていく。エルノアは手帳を閉じてサッチェルバッグにしまうと、少しだけ引き締まった顔で、次の目的地へ向かって力強く歩き出した。




