第二十話 幸福を育てる街と誰も残らない花園
音の泡が光になって漂う街クラングを後にしたエルノアが次に辿り着いたのは、見渡す限り白と桃色の花に埋め尽くされた、絵画のように美しい街だった。
街の名は「フェリシテ」。門をくぐった瞬間、エルノアは思わず息を呑んだ。石畳の隙間からも、家々の壁の隙間からも、可憐な花が溢れるように咲いている。甘く優しい香りが、風に乗ってどこまでも広がっていた。
「まあ……なんて美しい街なのでしょう」
思わず声が漏れる。だが、その美しさの中に、エルノアはどこか説明のつかない違和感を覚えていた。すれ違う人々の誰もが、あまりにも穏やかに、あまりにも幸福そうに微笑んでいるのだ。
広場の井戸端では、包帯を巻いた老人が、傷の痛みなど感じていないかのような顔で日向ぼっこをしていた。教会の前では、明らかに病に窶れた女性が、それでも唇の端を柔らかく持ち上げて祈りを捧げている。
「痛くないの。むしろ、幸せなくらい」
通りすがりに聞こえたその呟きに、エルノアは足を止めた。手帳を取り出し、ペンを構えたものの、何を書けばいいのか分からず、しばらくその場に立ち尽くす。
やがて広場の中央、噴水のそばに、一人の少女が佇んでいるのが目に入った。年の頃は十二、三歳ほどだろうか。その細い肩や首筋から、小さな白い花が幾つも顔を覗かせている。まるで彼女自身の肌から根を張って咲いているかのように。それでいて、少女は誰よりも幸せそうに笑っていた。
その少女を、痛切な眼差しで見つめる青年がいた。拳を強く握りしめ、今にも泣き出しそうな顔で、けれど声を上げることもできずに立ち尽くしている。
エルノアは、迷わずその青年に歩み寄った。
「あの、失礼ですが……。何か、お力になれることはありませんか? あなたのその顔は、幸せそうには見えませんから」
青年の名はシエル。少女の名はミレイといい、彼の実の妹だった。
人気のない路地裏の隅で、シエルは声を震わせながら、堰を切ったように語り始めた。
「ミレイは……生まれつき、治らない病気を抱えていたんです。医者にも見放されて。でも、噂を聞いたんです。『フェリシテに行けば、どんな病も苦しみも消え去る』って」
「それで、この街へ?」
「はい。実際に……ミレイの病は、消えたように見えました。痛みも、苦しみも、何もかも。妹はずっと笑っているんです。僕は、それが本当に嬉しくて」
シエルは一度言葉を切り、震える手で顔を覆った。
「でも、僕は知ってしまったんです。この街の……本当の正体を」
この街に咲く花は、ただの花ではないのだと、シエルは声を潜めて語った。「寄生花」と呼ばれるその花は、人の体に根を張り、痛みや悲しみといった負の感情そのものを養分にして育つ。そして代わりに、宿主の脳に幸福の幻覚を見せ続けるのだという。
「最初は、痛みが和らぐだけなんです。でも花はどんどん育って、体を蝕んでいく。最後には……意識さえも失って、全身が花に埋め尽くされて、動かなくなる。それでも、顔だけは、ずっと笑ったままで」
エルノアは言葉を失った。広場に咲き誇っていたあの美しい花園の正体に、ようやく思い至る。あれは花畑などではない。かつて人間だった者たちの、成れの果ての姿だったのだ。
「街の人たちは、それを『救済』だと信じ込んでいます。街長様が、そう教え広めているんです。『苦しみのない、美しい死だ』と。誰も、それを疑おうとしない」
シエルは涙をこぼしながら、エルノアの手を掴んだ。
「お願いです、魔女様。妹を、ミレイを助けてください。連れ出したいのに……あの子は『ここが良い』って、『お兄ちゃんも花になろうよ』って、笑いながら言うんです。僕が何を言っても、聞いてくれない」
その手は、氷のように冷たく震えていた。
エルノアは、その手をそっと両手で包み込んだ。
「大丈夫です。あなたの妹さんを、このままにはさせません」
迷いのない声で、そう答えていた。
その夜、エルノアはミレイの眠る小さな家を訪ねた。ミレイは変わらず、花に埋もれながら幸せそうに微笑んでいる。シエルは部屋の隅で、祈るように両手を組んでいた。
エルノアはサッチェルバッグから、旅の道中で集めた麻痺解除の薬草を煎じた小瓶と、魔導杖を取り出した。
「寄生花の幻覚作用を打ち消し、体内の毒素を分解する生活魔法をかけます。花の根を枯らせれば、ミレイさんの正気が戻り、街の外へお連れできるはずです」
「本当に……できるんですか」
「ええ。これは大魔法ではありません。私の手の中で、確実にできることです」
エルノアは静かに祈るように杖を掲げ、淡い光をミレイの小さな体へと注いだ。花びらの一枚一枚が、光に触れて震える。薬草の香りが部屋いっぱいに広がり、ミレイの瞼がゆっくりと開いた。
最初は、穏やかな寝起きの表情だった。
だが、それは一瞬だった。
「――っ、あ、あああああッ!!」
突然、ミレイの体が弓なりに反り返った。それまで麻痺していた痛覚が、堰を切ったように一気に押し寄せたのだ。不治の病そのものの激痛。全身に根を張った花が、皮膚を内側から引き裂くような痛み。そして、これまで見えていなかった「死」そのものへの、猛烈な恐怖。
「痛い! 熱い! 助けて、お兄ちゃん! 死にたくない、死にたくないよぉ……!」
ミレイは血の混じった涎を口の端から流しながら、床を転げ回った。爪が剥がれるほど自分の腕を掻きむしり、獣のような悲鳴を上げ続ける。
「ミレイ! ミレイ、しっかりして!」
シエルが妹を抱きしめようとするが、ミレイは正気を失ったように暴れ、力任せに兄を振り払った。
エルノアは呆然と立ち尽くしていた。手にした薬と魔法が、少女から幸福の仮面を剥ぎ取り、その下に隠されていた本当の地獄を、そのまま引きずり出してしまったのだと悟る。
「そんな……私は、助けるつもりで……」
声が震える。杖を持つ手に、力が入らなくなっていく。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だぁッ!!」
シエルの絶叫が部屋に響いた。血走った目でエルノアを睨みつける。
「なんてことをしてくれたんだ……! こんなに苦しむくらいなら、さっきまでみたいに、幸せそうに笑っていた方がよかった! お前が、お前が余計なことをしたから……ッ!」
シエルはエルノアの胸倉を掴み、力任せに突き飛ばした。エルノアは壁に背を打ち付け、痛みに顔を歪める。だが、その痛みよりも、シエルの言葉のほうが深く胸に突き刺さった。
言い返す言葉が、見つからなかった。
エルノアの生活魔法では、既に全身に深く根を張った寄生花を、完全に取り除くことはできない。苦痛に狂い、涙と血を流しながら、ミレイは最後の力を振り絞るように叫び続けた。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん、どこ……? 怖いよ、怖いよぉ……」
その声は次第に掠れ、やがて、全身から一気に咲き誇った花に、最も苦しみに歪んだ表情のまま呑み込まれていった。小さな体が、完全に動かなくなるまで、そう長くはかからなかった。
部屋に、静寂が落ちた。
シエルは、妹だったものを――今はもう美しい花の像となった、その体を――呆けたように見つめていた。やがて、乾いた笑い声を漏らし始める。
「ふ……ふふ、そうか。ミレイ、待っていて。僕も、すぐに行くから」
シエルは棚の奥から、乾燥させた寄生花の種を取り出すと、震える手で口いっぱいに掻き込んだ。
「やめてください……!」
エルノアが叫んで手を伸ばすが、間に合わなかった。シエルの瞳から、みるみるうちに理性の光が消えていく。彼は妹の亡骸を強く抱きしめると、穏やかに歪んだ笑みを浮かべたまま、静かに動かなくなった。
誰も、救えなかった。
エルノアはその場に膝をつき、ただ、二人が並んで花に呑まれていく様を、声もなく見つめ続けることしかできなかった。
雨が降り始めていた。
街の門を出る頃には、冷たい雨がエルノアの深緑のローブを容赦なく濡らしていった。振り返ったフェリシテの街並みは、雨に烟りながらも、変わらず美しい白と桃色の花で埋め尽くされている。あの花園の下に、どれほどの人の絶望が眠っているのか、もう誰にも分からない。
街道の途中、屋根のない朽ちたベンチに腰を下ろし、エルノアは震える手で『無題の皮革手帳』を開いた。雨粒がページを叩き、インクがにじんでいく。それでも、エルノアはペンを止めなかった。
『〇月〇日。幸福を育てる街フェリシテにて。
優しい嘘と、残酷な真実。
人は時に、死そのものよりも恐ろしい何かから逃れるために、自ら毒を仰ぐのだと、私は今日、知りました。
私が差し出した小さな魔法は、ただ、彼女に本当の地獄を見せてしまっただけだったのかもしれません。誰も救えず、何も変えられなかった。
雨が、私の手帳を冷たく濡らしています』
書き終えたエルノアは、しばらくその文字をじっと見つめていた。感情を殺したような、静かな横顔だった。
やがて、手帳をそっと閉じ、サッチェルバッグを強く胸に抱きしめる。杖を握る手にも、いつものような柔らかさはなかった。
「……次の街でも、きっと私にできることは、多くはないのでしょうね」
誰に言うでもなく、そう呟く声は、雨の音にかき消されるように小さかった。
エルノアは重い足取りで、薄暗く煙る街道の先へと、一人歩き出していった。




