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忘却の魔女と星を拾う筆跡  作者: まつたけひめ
第1章

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第十五話 忘れ物が集まる街と風乗りの日傘

 夜を織る街ソムニアを後にしたエルノアが辿り着いたのは、あちこちで持ち主を失ったはずの道具たちがひょこひょこと歩き回る、なんとも不思議な街だった。長い旅の中でも、これほど奇妙で、それでいて温かみを感じる街には、まだ出会ったことがなかった。


 「まあ……傘が、一人で歩いていますね」


 目を見張るエルノアの前を、その傘は器用にステップを踏みながら通り過ぎていった。まるで長年その動きに慣れているかのような、堂々とした足取りだった。しばらく歩みを進めるうちに、他にも様々な忘れ物たちが行き交う様子が目に入り、エルノアはこの街の不思議さにますます引き込まれていった。


 街の名は『レトリ』。石畳の道を、古びた靴や片方だけの手袋、時計やぬいぐるみたちが、まるで意志を持っているかのように、とことこと歩いている。誰もそれを気に留める様子もなく、ごく当たり前の光景として受け入れているようだった。街角には、道具たちが休憩するための小さなベンチまで設けられており、この街の人々がいかに彼らの存在を大切にしているかが伝わってきた。屋根の下では、古い懐中時計がカチカチと律儀に時を刻みながら休んでおり、その隣では色褪せたぬいぐるみが日向ぼっこをするように寝そべっていた。


 テラス席に座り、紅茶で一息ついていたエルノアの足元に、骨の折れた古びたレースの日傘がカタカタと転がり込んできた。すれ違う道具たちがそれとなく道を譲るように避けていく中、その傘だけはまっすぐエルノアの元へと向かってきたのだった。


 「あら、あなたは……」


 傘は柄をぱたぱたと震わせながら、まるで助けを求めるように、エルノアのサッチェルバッグの裾をちょんと突いてきた。傷んだレース地には、それでもかつての美しさの名残が見て取れた。丁寧に編まれたであろう繊細な模様が、あちこちほつれながらも、まだかろうじて形を保っていた。骨の一部は無残に折れ曲がり、かろうじて布地にぶら下がっているような状態だった。それでも、傘は必死に自分の身体を支えながら、エルノアの前で震え続けていた。


 「もしかして、困っているのですか?」


 エルノアが尋ねると、傘はこくこくと頷くように柄を上下に動かした。その様子はまるで、言葉を持たない子供が必死に助けを求めているかのように、健気で愛らしかった。


 


 


 


 


 そこへ、一人の青年が息を切らしながら駆けつけてきた。腰には道具箱を提げ、いかにも街の案内人らしい格好をしている。首元には、様々な鍵や工具が並んだベルトが巻かれていた。


 「ああ、そこにいたのか。困った傘だ、また勝手に飛び出して」


 青年は名をクラリといった。彼はしゃがみ込み、日傘――ピコと呼ばれているらしい――を拾い上げようとした。その手つきは乱暴には見えなかったが、どこか事務的で、感情を交えないよう努めているようにも見えた。


 「この子は、あなたのお知り合いですか?」


 エルノアが尋ねると、クラリは少し疲れたような表情で頷いた。彼の腕には、他にもいくつかの忘れ物が抱えられており、この街での日々の忙しさが窺えた。


 「遺失物案内人をしている。この傘はもう何年も前の忘れ物でね。持ち主の少女も、とっくに大人になって、こんな古い日傘のことなんて、疾うに忘れているだろうさ」


 クラリの言葉には、諦めにも似た冷静さがあった。この街で数えきれないほどの忘れ物を見送ってきた経験が、そう言わせているのかもしれなかった。彼の言う通りだとすれば、ピコの願いは決して叶うことのない、儚い望みなのかもしれない。それでも、目の前で必死に震え続けるピコの姿を見ていると、エルノアはどうしてもその可能性を諦めきれなかった。


 クラリの言葉に、ピコは激しく柄を揺らして抗議するように震えた。


 「ほら、また騒ぐ。……悪いが、こいつはもう処分するしかないんだ。骨も折れて、飛べもしない」


 クラリはそう言いながらも、どこか苦しげな表情を浮かべていた。これまで何度も同じような決断をしてきたのだろう、その声には慣れと、それでも消えない後ろめたさが同居していた。


 「そんな……」


 エルノアが言葉を失う間にも、ピコは必死に柄をぱたぱたと動かし続けた。まるで、雨の日に少女を守ってあげた記憶や、笑顔で「ありがとう」と言われた思い出を、一生懸命に伝えようとしているかのようだった。骨の折れた傘布が、それでも精一杯に開こうとする様子は、見ているだけで胸が締め付けられるようだった。


 脳裏に浮かぶのは、幼い少女が転げるように駆けてきて、傘の下に飛び込んできた光景。土砂降りの雨から少女を守り、彼女が涙を拭いながらも笑顔を見せてくれた、あの温かい記憶。ピコにとって、それはどんな宝物よりも大切な思い出だった。


 「物は、自分が愛されたことをちゃんと覚えているんですね」


 エルノアの呟きに、クラリは戸惑ったような顔を見せた。長年この仕事をしてきた彼にとって、忘れ物たちの想いは、日常のあまりに当たり前の光景になりすぎていたのかもしれない。


 


 


 


 


 「少し、この子を見せていただいても?」


 エルノアはピコを丁寧に抱き上げ、サッチェルバッグから小さな金づちと針金を取り出した。旅の道具の手入れに使っていたものだった。手のひらに乗せたピコは、まるで安心したかのように、震えを収めていった。その重みは思いのほか軽く、長年の風雨に耐えてきた儚さを感じさせた。


 「これは……」


 驚くクラリの前で、エルノアは杖を軽く振り、『金属を優しく繋ぐ生活魔法』を折れた骨に施していった。歪んでいた金属が、少しずつ元の形を取り戻していく。かちり、かちりと小さな音を立てながら、折れていた骨組みが丁寧に繋ぎ合わされていった。工房の職人が見ても驚くほど、精密な仕上がりだった。さらに『布地を綺麗にする生活魔法』をかけると、色あせていたレース地に、鮮やかな光沢が戻っていった。埃と汚れが払われ、繊細な模様が本来の美しさを取り戻していく様子に、クラリは息を呑んだ。


 まるで長年の時が巻き戻っていくかのように、ピコは見る見るうちに、かつての優美な姿を取り戻していった。柄の飾りに施された小さな彫刻さえ、艶やかな輝きを放ち始める。


 「なんて綺麗な傘なんだ……」


 クラリが思わず声を漏らした。長年数えきれないほどの忘れ物を見てきたはずの彼でさえ、このピコの生まれ変わったような美しさには、目を見張らずにはいられなかった。まるで新品同様、いや、それ以上に艶やかな輝きを放つ姿に、彼は言葉を失っていた。


 柄の部分に刻まれた小さなイニシャルに気づいたエルノアは、サッチェルバッグから『無題の皮革手帳』を取り出し、これまで旅してきた街の記録と照らし合わせ始めた。ページをめくるたびに、様々な街での出会いが蘇ってくる。


 「これは……確か、少し離れた港町の刺繍と同じ意匠です。もしかして、この子の持ち主は、今その港町に暮らしているのではないでしょうか」


 柄の刺繍を指でなぞりながら、エルノアは記憶の糸を手繰り寄せるように、慎重に言葉を紡いだ。


 エルノアの言葉に、クラリは目を見開いた。


 「港町……。そういえば、この傘が届けられた記録には、確か海沿いの村の名前が書いてあったような」


 クラリは慌てて自分の帳簿を取り出し、古い記録をめくり始めた。埃をかぶったページの隅に、小さく「港町アズラ」という文字が記されているのを見つけると、彼は驚いたように顔を上げた。


 「本当だ……。俺は、こんな記録があったことすら忘れていた」


 クラリは自分の記憶力の頼りなさに、思わず苦笑した。何百、何千という忘れ物を扱ってきた彼にとって、一つ一つの記録は、いつしか埋もれてしまうものだったのかもしれない。それでも今、こうして目の前に確かな手がかりが浮かび上がってきたことに、彼自身も驚きを隠せずにいた。


 「港町アズラなら、ここから半日ほど風に乗れば着くはずだ。……ピコ、お前、本当にそこまで飛べるのか?」


 クラリの問いかけに、ピコは力強く柄を上下に振った。その仕草には、迷いのない確固たる意志が感じられた。長年の眠りから覚めたばかりとは思えないほどの、生き生きとした躍動感がそこにはあった。


 「これほどまでに強い想いがあるのなら、きっと辿り着けるはずです」


 エルノアの言葉に、クラリも小さく頷いた。彼の中で、これまで諦めてきたはずの何かが、ゆっくりと形を変え始めているようだった。長年淡々とこなしてきた仕事の中に、こんなにも心を揺さぶられる瞬間があるとは、彼自身も思っていなかったのだろう。


 


 


 


 


 「……そこまで言うなら、仕方ないな」


 クラリはため息をつきながらも、道具箱から案内人専用の「風乗り風船」を取り出した。それをピコの柄にそっと取り付ける。淡く光る風船が、傘の骨組みに絡みつくように結ばれていく。


 「これで、風に乗って飛べるはずだ。……ちゃんと届けてこいよ」


 その声には、これまでの素っ気なさとは違う、確かな優しさが滲んでいた。彼なりの不器用な励ましの言葉だったのだろう。ピコはその言葉に応えるように、柄を大きく揺らして喜びを表した。長い眠りから目覚めたかのような、生き生きとした輝きがその身体全体から溢れていた。


 綺麗に修繕され、軽やかに開いたピコは、感謝を伝えるようにエルノアとクラリの周りをくるりと一回りした。ぱたぱたと柄を揺らしながら、まるで踊っているかのような仕草だった。傘の骨組みには、風乗り風船から発せられる淡い光がまとわりつき、まるで小さな星をまとっているかのように輝いていた。


 「ありがとう、ピコさん。どうか、大好きな方に会えますように」


 エルノアはそっと両手を合わせ、ピコの旅立ちを心から祝福した。


 夕方の風が港町の方角から吹き始めた。その風に乗って、ピコはふわふわと夕空へと舞い上がっていく。街の建物を越え、次第に小さくなっていくその姿を、エルノアとクラリはしばらく見つめ続けていた。橙色に染まる空の中、ピコの輪郭は光の粒のように揺らめきながら、少しずつ遠ざかっていった。


 「元気でな」


 クラリが空を見上げながら、小さく手を振った。その声は、初めて出会った時の事務的な口調とはまるで違う、温かい響きを帯びていた。


 「どうか、無事に届きますように」


 エルノアも祈るように両手を組み、空高く消えていくピコの姿を見送った。夕暮れの風が、二人の頬を優しく撫でていった。遠くの空には、一番星がぽつりと瞬き始めていた。


 


 


 


 


 小さくなっていくピコの姿を見送りながら、クラリはぽつりと呟いた。


 「たまには、諦めないのも悪くないな」


 「ふふ、私もそう思います」


 エルノアは微笑みながら、夕焼けに染まる空を見つめた。


 「正直言うと、こんな街で長く働いていると、忘れ物一つ一つに構っていられなくなるんだ。持ち主が見つからないまま朽ちていくものの方が、圧倒的に多いからな。……だが、今日みたいに再会が叶う瞬間を見ると、この仕事も悪くないと思えるよ」


 クラリはそう言いながら、道具箱をぱたんと閉じた。その表情には、これまでの淡々とした態度からは想像できないほどの、柔らかな温もりが浮かんでいた。夕日に照らされた横顔は、どこか少年のような無邪気さすら感じさせた。


 「あなたのような案内人さんがいるからこそ、道具たちも安心してこの街に集まってくるのでしょうね」


 その言葉に、クラリは少し驚いたように瞬きをした。誰かにそんな風に自分の仕事を評価されたのは、久しぶりのことだったのかもしれない。


 「……そう言われると、照れるな」


 クラリは頬を掻きながら、そっぽを向いた。だが、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。


 


 


 


 


 街を去る日、クラリはエルノアに小さな布を手渡した。


 「これを持っていってくれ。壊れたものを優しく拭う、魔法のつや出しクロスだ」


 「まあ……ありがとうございます」


 エルノアは丁寧に頭を下げ、渡された布を大切そうに両手で受け取った。その布には、細やかな刺繍が施されており、クラリ自身が丁寧に作ったものだと分かった。糸の一本一本に、彼の不器用ながらも真心のこもった手仕事が感じられた。


 「あんたのおかげで、久しぶりに気持ちのいい見送りができたよ。この街には、まだまだ助けを待ってる忘れ物がたくさんいる。……あんたに教わったこと、これからも忘れないようにするよ」


 クラリの言葉には、初めて会った時とは違う、確かな温もりがあった。彼は少し照れくさそうに頬を掻きながら、それでも真剣な眼差しでエルノアを見つめていた。この街に残された無数の忘れ物たちにも、いつかきっと同じような優しさを向けられるようになるだろうと、エルノアは信じていた。旅立つ前に、もう一度だけ振り返ると、クラリは名残惜しそうに手を振っていた。エルノアはそれを大切にサッチェルバッグへ納め、街道のベンチに腰を下ろした。『無題の皮革手帳』を開き、静かにペンを走らせる。


 『〇月〇日。忘れ物が集まる街レトリにて。どんなに小さく古びたものでも、誰かを想う気持ちが宿っていれば、それは立派な旅人になれるのだと知りました。私のサッチェルバッグや手帳も、いつか私をどこか素敵な場所へ連れて行ってくれるのかもしれません』


 書き終えた文字を見つめ、エルノアは満足そうに微笑んだ。夕焼けの空を見上げると、遠くの雲の切れ間に、小さな光がきらりと瞬いたような気がした。もしかしたら、それはピコが無事に持ち主のもとへ辿り着いた合図なのかもしれない、とエルノアは思った。骨が折れ、色あせていたはずのあの小さな傘が、今頃どんな笑顔に迎えられているだろうかと、想像するだけで胸が温かくなった。


 手帳を閉じると、愛用のバッグを肩にかけ直し、エルノアは次の目的地へと歩み出した。

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