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忘却の魔女と星を拾う筆跡  作者: まつたけひめ
第1章

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第十四話 夜を織りあげる街と星降るパジャマ

 音の街アコードを後にしたエルノアが辿り着いたのは、いつまで経っても太陽が沈まない、なんとも奇妙な街だった。


 「まあ……いつになっても夕暮れのままなのですね」


 旅を続ける中で、これほど不思議な光景に出会ったのは初めてかもしれない。エルノアは思わず足を止め、橙色に染まる街並みをしばらく見つめていた。


 空を見上げれば、太陽は地平線ぎりぎりのところで止まったまま、じりじりと橙色の光を街に注ぎ続けている。旅の中で数えきれないほどの夕焼けを見てきたエルノアだったが、これほど長く続く夕暮れは初めてだった。


 街の名は『ソムニア』。空はずっと橙色の夕焼けに染まったままで、時計を見なければ、今が何時なのかさえ分からなくなりそうだった。街並みには、夜を待ちわびるかのようにランタンが灯された家々が立ち並び、どこか物寂しい静けさが漂っている。道行く人々の顔には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。


 「もう三日も夜が来ないんだ……。おかげで全然眠れやしない」


 目の下に濃いくまを作った男性が、あくびを噛み殺しながらぼやいていた。子供たちも眠そうに目を擦りながら、母親に手を引かれて歩いている。店先に並ぶパン屋の主人も、いつもより覇気のない様子で棚を整えていた。エルノアは驚いて、近くにいた別の住民に事情を尋ねてみることにした。


 「この街では、自然に夜が来ないのです。職人が『夢の羊』から採れる糸を織り機で空に織り上げることで、初めて夜が訪れる仕組みでね。……今年から夜織りを任された新米の子が、どうも手こずっているらしくて」


 住民は疲れた様子でため息をつきながら、それでも心配そうに付け加えた。


 「あの子も、先代のお孫さんでね。悪気があってこうなってるわけじゃないんだ。ただ、あまりにも頑張りすぎているみたいで……」


 その言葉を聞いたエルノアは、迷わず職人の工房へと向かうことにした。街の中央にそびえる高い塔が、まさにその夜織り工房だと教えられた。塔の頂には大きな窓があり、そこから絶えず糸のような光が漏れ出しているのが、遠目にも見て取れた。


 


 


 


 


 工房の扉を開けると、目に飛び込んできたのは、床一面に散らばった大量の糸だった。銀色に輝く星の糸と、深い闇色をした影の糸が、まるで巨大な蜘蛛の巣のように複雑に絡み合っている。壁際には巨大な織り機がそびえ、その傍らには先代が残したのだろう、古い設計図や道具が几帳面に並べられていた。その中心で、一人の少女が涙目になりながら糸と格闘していた。


 「もう、どうして……! こんなはずじゃないのに……!」


 涙を拭う暇もなく、少女は必死に糸をほどこうとしていた。しかし焦れば焦るほど、糸はさらに複雑に絡み合っていくばかりだった。


 「大丈夫ですか?」


 声をかけると、少女はびくりと肩を震わせて振り返った。名をステラというらしい。齢十五、六ほどだろうか、その顔にはあどけなさと必死さが同居していた。目の下には、彼女もまた三日間眠れていないのだろう、うっすらとくまが浮かんでいた。


 「わ、私は大丈夫です。ただ、糸が少し絡まってしまっただけで……」


 声を絞り出すように答えるステラの手は、小刻みに震えていた。


 そう言いながらも、ステラは焦った様子で糸を力任せに引っ張った。だが、それでは余計に結び目が固くなるばかりだった。指先はすでに赤くなり、何度も同じ箇所を引っ張り続けた跡が見て取れた。


 「おじいちゃんは、いつも一筋の雲もない、完璧で静寂な『漆黒の夜』を織り上げていたんです。私も、そうじゃなきゃいけないのに……」


 声を絞り出すように語るステラの瞳には、深い焦燥と、それでも諦めきれない誇りが同時に浮かんでいた。


 悔しそうに唇を噛むステラの傍らで、羊飼いらしい青年が困った顔で立ち尽くしていた。彼の足元には、雲のようにふわふわとした毛並みの羊が数匹、心配そうにステラを見つめている。


 「ステラ、そんなにカチカチに緊張してたら、肩が凝っちまうよ。たまには雲があったり、星が散らばった夜でもいいじゃないか」


 「ノクトは黙ってて! おじいちゃんの跡を継ぐんだから、中途半端なものは作れないの!」


 青年――ノクトの言葉にも、ステラは頑なに耳を貸そうとしなかった。ノクトは困ったように頭をかきながら、傍らの羊の首をそっと撫でた。


 「あんたも大変だなあ。三日も夜が来ないから、ドリームシープたちもみんな寝不足でさ。夢を運ぶのが仕事なのに、これじゃ元も子もないよ」


 力なく笑うノクトの言葉の端々には、それでもステラを気遣う優しさが滲んでいた。


 力なく笑うノクトの言葉に、ステラの表情がさらに曇った。誰よりも街の人々のために夜を届けたいと思っているからこそ、うまくいかない自分に苛立っているのだろう。


 「おじいちゃんが亡くなる前、私に言ったんです。『お前ならきっと、私よりも美しい夜を織れる』って。……でも、全然そんなことないじゃないですか。私にできるのは、こうやって糸を絡ませることだけ」


 声を震わせながら、ステラは膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。


 ステラの声が、次第に涙で震え始めた。壁に飾られた古い写真には、優しい笑顔の老人と、幼い頃のステラが並んで写っていた。きっと、あの頃から夜織りの技術を見て育ってきたのだろう。


 


 


 


 


 絡まった糸の山を見つめながら、エルノアはふとサッチェルバッグの中を探った。取り出したのは、以前グランバザールの街で貰った、革製品のお手入れ用オイルだった。


 「これを少し、お借りしても?」


 ステラは戸惑いながらも小さく頷いた。何が起きるのか分からないまま、それでも藁にもすがる思いで、エルノアの手元をじっと見つめていた。


 オイルを指先に取り、絡まった糸にそっと馴染ませる。それから杖を軽く振り、『ほつれをほどく生活魔法』と『静電気を抑える生活魔法』を糸にかけていった。指先から淡い光が糸へと伝わり、絡み合った結び目が一つ、また一つと緩んでいく様子が見て取れた。


 「まあ……!」


 ステラが驚きの声を上げる。あれほど頑固に絡み合っていた星の糸が、するすると音を立てるように解けていったのだ。ノクトも目を丸くして、その光景を見つめていた。


 「すごいや……! さすが旅の魔女さんだ」


 目を丸くするノクトの隣で、羊たちもそわそわと足踏みをしながら、絡まりが解けていく糸を見つめていた。


 「魔法って、こんなことにも使えるんですね」


 目を輝かせるステラに、エルノアは優しく笑いかけた。


 「ふふ、生活の知恵の応用です。大魔法のような派手さはありませんが、こういう小さな魔法も、意外と便利なものですよ」


 エルノアは手品のように糸を解きながら、旅の途中で見た様々な夜空の話を語り始めた。


 「私の旅でも、色んな夜がありましたよ。月が隠れた寂しい夜もあれば、星がいっぱいで賑やかな夜、雲が浮かんでお化けみたいな夜……どれもみんな、とっても素敵でした」


 目を閉じれば、これまで旅してきた数々の夜空が、まるで走馬灯のようにエルノアの脳裏をよぎった。


 「……不揃いな夜、ですか」


 ステラは呟きながら、解けていく糸を見つめた。糸が一本ずつ姿を現すたび、これまで見てきた完璧な夜空とは違う、様々な色合いの糸が目に映る。窓の外の夕焼けが、その糸をなおさら美しく照らしていた。


 「おじいちゃんの夜は、いつも完璧でした。でも、私が織ろうとすると、どうしても糸が乱れてしまって。それが、ずっと悔しかったんです」


 「乱れているのではなく、それがステラさんらしさなのかもしれませんよ」


 エルノアの言葉に、ステラは目を見開いた。今まで、自分の織り方は間違っているのだと、ただそれだけを思い込んでいた。誰かに「らしさ」だと言われたのは、初めてのことだった。


 「おじいさまが遺された言葉は、きっと『同じように織りなさい』という意味ではなかったのだと思います。ステラさんにしか織れない、ステラさんだけの美しい夜を、信じて見てくださっていたのではないでしょうか」


 エルノアは糸を優しく撫でながら、静かにそう続けた。窓の外では、相変わらず橙色の夕焼けが街を照らし続けていたが、工房の中の空気は、少しずつ変わり始めているようだった。ステラの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


 


 


 


 


 しばらく考え込んでいたステラは、やがてふっと肩の力を抜いた。


 「……そうですね。おじいちゃんの真似をするんじゃなくて、私自身の織りたい夜を、織ってみます」


 ステラは解けた糸の中から、紺、紫、桃色、金色といった、不揃いな色の糸を選び取った。これまでの完璧主義からは考えられないような、自由な組み合わせだった。手に取った糸を見つめる彼女の表情は、先ほどまでの焦りとは打って変わって、どこか晴れやかだった。


 織り機の前に座り、ステラは軽やかな手つきで糸を織り始めた。緊張に強張っていた指先が、次第にリズムを取り戻していく。最初はぎこちなかった動きも、少しずつ滑らかになり、まるで長年の職人のような手つきへと変わっていった。ノクトも嬉しそうにその様子を見守っていた。


 「いいぞ、ステラ! その調子だ!」


 傍らの羊たちも、期待に満ちた眼差しでステラの手元を見つめている。織り機がかたことと軽やかな音を立てるたび、糸が美しい模様を描き出していった。ノクトも思わず身を乗り出し、その光景に見入っていた。


 「なあ、これ、すごくいいんじゃないか? 俺は正直、こっちの方が好きだな」


 ノクトの素直な言葉に、ステラは驚いたように顔を上げた。誰かに「好き」だと言われたことが、これほど嬉しいとは思っていなかった。


 「本当?」


 織り進めるステラの表情が、次第に晴れやかになっていく。指先が糸を紡ぐたび、まるで彼女自身の心が解きほぐされていくようだった。エルノアはその様子を、少し離れた場所から静かに見守っていた。工房の中には、これまでにない穏やかな空気が満ちていた。


 傍らの羊たちも、期待に満ちた眼差しでステラの手元を見つめている。織り機がかたことと軽やかな音を立てるたび、糸が美しい模様を描き出していった。


 完成した夜の織物が、ふわりと空へと解き放たれる。それは瞬く間に街の上空いっぱいに広がり、橙色の夕焼けをゆっくりと包み込んでいった。街中の人々が、窓を開けて空を見上げ始める。


 現れたのは、完璧な漆黒の夜ではなかった。紺と紫が優しく溶け合い、そこに桃色の雲がふわふわと浮かび、金色の星々が思い思いの場所で瞬く、まるでパッチワークのような夜空だった。ある場所では星が寄り添うように集まり、また別の場所では雲がゆったりと流れる。均一ではないその表情が、かえって見る者の心を惹きつけていた。夜空を見上げた誰もが、思わず息を呑むほどの美しさだった。


 「わあ……!」


 街のあちこちから歓声が上がった。誰もが窓や玄関先に飛び出し、久しぶりに見る本物の夜空に釘付けになっていた。


 「なんて可愛らしい夜だろう!」


 「こんな夜空、見たことがない!」


 あちこちから聞こえる感嘆の声は、まるで一つの合唱のように街中に広がっていった。


 街の人々の中には、久しぶりに眠れる喜びからか、涙ぐんでいる者もいた。長らく待ち望んでいた夜がようやく訪れたことに、街全体が安堵と喜びに包まれていた。子供たちは窓辺に張り付いて、はしゃぎながら夜空を指差している。大人たちも、久しぶりに訪れた本物の夜に、安堵の表情を浮かべていた。人々は口々に喜びの声を上げながら、心地よい睡魔に誘われるように、それぞれの家へと帰っていった。ステラは満足そうに空を見上げ、涙ぐみながら微笑んでいた。


 


 


 


 


 翌朝、爽やかな目覚めを迎えたエルノアのもとへ、ステラが小さな栞を持って駆けてきた。宿の窓からは、久しぶりに顔を出した朝日が、柔らかな光を街中に注いでいた。


 「これ、お礼です。昨日の星の糸で織った栞なんです」


 差し出された栞を見て、エルノアは思わず目を細めた。ステラの手作りだと分かる、少し不揃いながらも温かみのある仕上がりだった。その不揃いさこそが、何よりも彼女の成長の証だった。


 受け取った栞には、紺と金色の糸が美しく編み込まれ、小さな星がいくつも輝いていた。丁寧な手仕事の跡が随所に見られ、それでいて、以前のような窮屈さは感じられない、伸びやかな仕上がりだった。


 「まあ……なんて素敵な栞でしょう。大切に使わせていただきますね」


 エルノアはその栞を、そっと『無題の皮革手帳』に挟み込んだ。


 「エルノアさんのおかげで、自分らしい夜を織る勇気が持てました。本当にありがとうございます」


 深々と頭を下げるステラの後ろから、ノクトも笑顔で手を振っていた。彼女の声には、これまでの張り詰めた緊張とは違う、晴れやかな明るさが宿っていた。


 「昨日の夜は、街のみんなも大喜びだったよ。ドリームシープたちも、久しぶりにぐっすり眠れたみたいでさ」


 二人の晴れやかな表情を見て、エルノアも心から嬉しくなった。ふと見ると、羊たちも工房の外で気持ちよさそうに寝そべり、穏やかな寝息を立てている。この街に、ようやく本当の意味での平穏が戻ってきたのだと、エルノアは実感していた。


 澄み渡る朝の光の中、エルノアは街道のベンチに腰を下ろし、『無題の皮革手帳』を開いた。静かにペンを走らせる。空を見上げると、夜の間に織られた美しい星空の名残が、まだうっすらと東の空に残っているのが見えた。


 『〇月〇日。夜を織る街ソムニアにて。完璧な静寂だけが美しい夜ではありません。少し不揃いで賑やかな星空の方が、楽しい夢が見られることもあるようです。今夜の私の夢には、空飛ぶ羊が出てくるかもしれません』


 書き終えた文字を見つめ、エルノアは満足そうに微笑んだ。昨夜見た、あの温かいパッチワークの夜空を思い出しながら、しばらくの間、目を閉じてその余韻に浸っていた。手帳を閉じると、新しい風が吹く街道を、エルノアは軽やかに歩み出した。

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