第7話:十枚の整理と、大人の崩壊
初期の魔導書を整理し終えてから、数日が経過した。
庭のテーブルには、あの日以来、カイルがこれまでの常識は何だったんだと頭を抱えながら読み耽った痕跡が残っている。
母リーサは、そんな父さんの様子を見かねたのか、あるいは純粋な知的好奇心からか、一通の手紙を古い友人に宛てて認めていた。
その相手こそが、レグリア大陸でも高名な熟練魔法使い、エレナさんである。
母さんの手紙には、僕が導き出した最短の術式についての断片的な記述と、それを実際にその目で確かめてほしいという相談が綴られていたという。
返信はすぐに届いた。
手紙の文字からは、彼女がいかにその情報の純度に対して疑念を抱き、同時に魔法使いとしての本能的な興味をそそられているかが透けて見えた。
そして今日、春の柔らかな日差しが庭を包み込む午後、約束通り一台の馬車が我が家に到着した。
馬車の扉が開き、そこから降りてきたのは、洗練された旅装束に身を包んだエレナさんだった。
彼女の背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、その知的な眼差しは、周囲の魔力の流れを常に読み取っているかのような鋭さを持っている。
けれど、母さんの顔を見つけた瞬間、彼女の唇はわずかに綻び、熟練者特有の硬い空気がふわりと和らいだ。
「あら、リーサ。本当に久しぶりね」
二人は庭の大きな木製テーブルを囲み、まずは再会を祝して、かつて共に冒険の旅に出ていた頃の昔話に花を咲かせた。
あの洞窟で迷った時のこと、非効率な術式を使って魔力を使い果たし、野宿をする羽目になった苦労話。
二人の会話を聞きながら、僕は少し離れた場所で、庭に咲く花の色彩を眺めていた。
思い出話が一通り落ち着き、ティーカップがテーブルに置かれた頃、母さんは真剣な表情に切り替えた。
そして、僕が丁寧に整理した十枚の内容と、その元となった初期の魔導書を、エレナさんの前に並べた。
「これよ。アルスが、この初期の魔導書を整理した成果物なの」
エレナさんの視線が、二つの対照的な山へと注がれた。
片や、著者の主観や無意味な装飾、そして個人的なメモが積み重なった、情報の迷宮。
片や、それらの不純物を削ぎ落とし、真っ直ぐに現象を射抜くための最短の術式だけを刻んだ、わずか十枚の白紙。
エレナさんはまず、分厚い初期の魔導書を手に取った。
彼女はこの世界の魔法体系を正当に学び、複雑な儀式や長い詠唱こそが真理へ至る唯一の道だと信じている。
彼女にとって、魔導書とは読み解く苦労を含めて価値がある聖典なのだ。
ページをめくるエレナさんの手元を、僕は静かに見つめる。
彼女は熟練者らしく、著者が意図した複雑な魔力循環の意図を正確に拾い上げていく。
「ええ、この記述は伝統的な術式ね。魔力を段階に分けて増幅させ、精神の安定を待ってから発現させる。非効率だけれど、それがこの世界の正解だと教えられてきたわ」
次に、彼女は僕の十枚の紙の、最初の一枚目を手に取った。
そこには、百ページ分近い迷いを一切排除した、最短の術式だけが記されている。
エレナさんは、初期の魔導書と僕の紙を何度も交互に見比べ始めた。
彼女の瞳の中で、これまでの数十年で培ってきた重厚な知識と、目の前にあるあまりにもスッキリとした最短の術式が、激しく火花を散らしているのがわかった。
彼女は難しい顔をして、情報の不純物を削ぎ落とされたその記述を、必死に自身の理論で解釈しようと試みる。
魔導書の端に書かれた歪な補助線と、僕が引き直した迷いのない最短ルートを交互になぞり、その整合性を確かめようと必死にページを行き来する。
(ありえないわ。これだけの記述を、どうしてこの僅か数行に集約できるというの。これは、これまでの魔術理論の根底を無視している。けれど、もしこれが正しいのだとしたら、私の知っている正解は一体何だったのかしら)
エレナさんの眉間の皺が、深く刻まれていく。
彼女は真っ直ぐに現象を射抜くための回路を記した僕の記述に対し、自身の持つ膨大な知識という名のノイズを総動員して立ち向かっていた。
熟練者であればあるほど、情報の澱みを必要不可欠なものとして受け入れてしまっている。
彼女の頭の中では、無意味な装飾が最短ルートへ進むことを拒んでいるようだった。
「信じられない。こんなに簡潔な記述で、本当に魔法が機能するというの。魔法とは、もっと重く、苦しい道のりの先にあるはずなのに」
エレナさんは、震える手で最短の術式を実際に自分でも試してみることにした。
十枚の紙に記された、一切の無駄を省いた術式。
しかし、彼女の思考は、今までの修行で培ってきた複雑な儀式の癖という澱みに囚われていた。
イメージを真っ直ぐに現象を射抜く形へ飛ばそうとしても、無意識のうちに長い呪文を心の中で唱え、不要な魔力の溜めを作ってしまう。
そのたびに、紙に記された純度百パーセントの線と、彼女の中の複雑な思考が衝突し、術式は発動の手前で霧散していく。
「どうして。書いてあることは、驚くほど明快なのに。私の頭が、このシンプルさを受け入れることを拒んでいるわ」
エレナさんは何度も、何度も術式の入り口で足踏みを繰り返した。
真っ直ぐに現象を射抜く。ただそれだけのことが、これまでの彼女の人生が積み上げてきた情報の壁に阻まれて、届かない。
彼女の額には汗が浮かび、呼吸は次第に荒くなっていく。
庭の静寂の中で、熟練魔法使いである彼女が、たった十枚の紙を前にして、自分自身の不自由さと戦っている姿は、どこか痛々しく見えた。
カイルが庭の隅で、その様子を黙って見守っている。
エレナさんは、ついに机を拳で小さく叩いた。
彼女のプライドという名の装飾が、剥がれ落ちようとしていた。
「わからない。どうして私は、こんなに簡単なことが出来ないの」
難しい顔をして、情報の澱んだ思考の中で考えを巡らせ続けているエレナさん。
彼女が、自分一人ではどうしても不純物を削ぎ落とせないことに気づき始めた、その時だった。




