第6話(後編):白紙に描かれた、崩れ落ちる常識
朝、目が覚めると同時に、僕は机に向かった。
昨日、父さんから預かった初期の魔導書と、真っ白な紙が十枚、目の前にある。
僕はまず、魔法で湿気や劣化を防ぐ処置を施し、丁寧に手袋をはめた。それから、一文字ずつ内容を慎重に確かめながら、魔導書の綴じ糸を一本ずつ解いていく。
これは破壊ではない。澱みに埋もれた知識を本来の形に戻すための、誠実な工程だ。
バラバラになったページを机に並べると、情報のノイズがより鮮明に浮き彫りになった。
一発書きゆえの巨大すぎる文字。筆圧が強すぎて紙が凹んでいる箇所。さらには、昨日は腰が痛かったといった、魔術理論とは一切関係のない著者の個人的な書き込みが、大切な術式の途中に割り込んでいる。
不吉な何かを遠ざけようとしたのか、四隅にびっしりと描かれた無意味な幾何学模様の装飾も、情報の純度を著しく下げていた。
(もったいない。折角良いことが書いてあるのに、こんなに不純物に埋もれているなんて。早くスッキリさせてあげたいな)
僕は一文字ずつ、読み解いていく。
例えば、15ページにある魔力の練り方に関する記述と、26ページにある火のイメージを固める方法。
本来、この二つは真っ直ぐに現象を射抜くための一つの回路だ。
なぜ著者は、こんなに離れた場所に何故大切なことを分散させて書いたのだろうか。
情報のパズルを解くように、僕は脳内で術式を最短の術式へと組み立てていく。
不必要な呪文の末尾を削り、迂回している魔力の流れを直線で繋ぐ。
そして、女神ルナミスの助言を思い出し、脳内で組み立てた内容を目の前の空間に展開した。
(ここで魔力を右に一回転させて、一気に収束させる。余計な儀式も気合も捨てて、ただ最短の術式をなぞるだけ。よし)
目の前の空間に、パッと一点の濁りもない、透き通った炎が灯った。
(成功だ。やっぱり、この数行のイメージだけで十分だったんだ)
実証に成功した瞬間、胸のすくような快感が僕を包んだ。
情報の不純物を削ぎ落としたことで、本質を掴み取ることができた。
僕は、父さんからもらった真っ白な紙の、最初の一枚目を引き寄せた。
修正のきかない手書きの作業。僕は迷いのない一本道の線を、一枚の紙の上に、誠実に刻み込んでいく。
かつての魔導書にあった恐怖や迷いの線は、そこには一切存在しない。
余計な装飾を削ぎ落とした三行だけの記述が、白い紙の上で一本道として輝き始めた。
一枚書き終えるごとに、僕は同じように脳内整理と実証実験を繰り返した。
あるページでは魔力の加速方法を抽出し、またあるページからは熱量の維持に関する情報の不純物を削ぎ落とす。
それらを真っ直ぐに現象を射抜く形へと繋ぎ合わせ、父から貰った紙に一本ずつ刻んでいく。
太陽が西に傾き、部屋が柔らかなオレンジ色に染まる頃。
かつて数百ページに及ぶ厚みを持っていた魔導書は、情報の純度を極限まで高めた十枚の紙へと収束した。
僕は十枚の紙を手に庭へと向かった。
夕暮れの光の中、父カイルと母リーサがくつろいでいる。
「父さん、母さん。あの本、大事なところが少し探しにくかったから、まとめてみたんだ。」
僕は淡々と、整理し終えた十枚の紙を差し出した。
父カイルは、頼んでもいない成果物を前に、困惑混じりの苦笑いを浮かべた。
「十枚? お前、あの初期の魔導書をか? あれは10年はかかる修行の基礎もんだぞ。適当に書き飛ばしたんじゃないだろうな」
「一生なんていらないよ。同じこと何度も書いてあるし。……じゃあ、見せるね。一ページ目、火を出すやつ」
僕は深呼吸をし、紙に記した純度の高いイメージをなぞった。
溜めも、気合も、長い呪文もいらない。
シュッと。
僕が魔力を流した一瞬後、目の前に一点の濁りもない鮮やかな炎が顕現した。
「えっ、呪文は? 溜めもなしに……?」
母さんが口を開けて固まってしまった。
「あんな長い呪文、住所を番地から全部読み上げるようなものだよ。届ける場所が決まってれば、一言で済むのに。はい次、二ページ目、風」
間髪入れず、シュンッ! と鋭い突風が庭を吹き抜けた。
「……。……おい、アルス。今の、俺が十年の修行を経てやっと出せるようになった威力より、遥かに強いぞ」
カイルが膝から崩れ落ち、白目を剥きながら地面を叩き始めた。
あまりの衝撃に、元勇者のプライドが音を立てて崩れていく。
「だって、無駄な動きを全部カットしたから。最短の術式で魔力を流すだけだよ。はい、父さんもやってみて。この紙の端っこにある図を見て、その通りに流すだけ。余計な気合はいらないからね」
僕は絶望して震える父さんに、情報の不純物を削ぎ落とした十枚の紙を託した。




