第50話:ヴァルナの日々と、フィナの発見
農業魔法の指導が続く中、少し落ち着いた日があった。
リディアがヴァルナの魔法使いたちへの指導を引き受けていた。農地の一角で、清書された術式の紙を手に、一人ひとりに丁寧に教えている。最初は戸惑っていたヴァルナの魔法使いたちも、リディアの「水を主に、土をその流れに従わせる」という説明を聞いてから、少しずつ感覚を掴み始めていた。
エレナは農地の周辺に残っていた古い魔導具の解析をしていた。長年使われていなかった農業用の魔導具が、いくつか倉庫に眠っていたらしい。封印の解析を続けながら、時折リディアの方を確認している。
アルスは宿の部屋で、次の整理作業の準備をしていた。でも今日は、少し手が止まっていた。
窓の外から、フィナの声が聞こえてくる。
農地の端で、村の子供たちと何かをしている。押し花の道具を広げて、一人ひとりに教えているようだった。子供たちが夢中になって、フィナの手元を覗き込んでいる。ミアが少し離れた場所から、楽しそうに見ていた。
(フィナは、どこへ行っても、すぐに場所を自分のものにするんだな)
村の人たちが遠くから見ていた時も、フィナだけが子供たちに声をかけた。押し花を教え始めたのも、フィナが自然にそうしただけだろう。整理しようとしているわけでも、場を和ませようとしているわけでもない。ただフィナがフィナでいるだけで、そこに場所が生まれていく。
しばらく眺めてから、作業に戻った。
◇
夕方、フィナが戻ってきた。
両手に、小さな紙を何枚か持っている。子供たちが作った押し花だろう。一枚ずつ丁寧に持っているのが、フィナらしかった。
「みんな上手だったよ! 初めてなのに、ちゃんとできて。この子なんて、一発で綺麗に押せて、本人が一番驚いてた」
フィナが嬉しそうに押し花を見せてくれた。野の花が、それぞれ丁寧に押されていた。大きさも形も違う花が、それぞれの個性のまま紙の上にある。
「よかったね」
「うん!」
フィナが椅子に座り、今日作った押し花を鞄にしまいながら話し始めた。
「ねえ、アルスくん。農地の人たちって、毎日水のことを心配しながら仕事してたんだって。ミアさんが教えてくれた。去年も一昨年も、どの区画に水が来るかわからなくて、育つかどうか最後までわからなかったって」
「そうだね。百年間、そういう状態が続いていたから」
「でもね、今日子供たちと遊んでたら、一人の子が言ったんだ。『水が来たから、今年は絶対お花が咲く』って」
フィナがそこで少し間を置いた。
「なんか、すごくない? 水が変わっただけで、『絶対咲く』って思えるようになるって。昨日まで『咲くかな』だったのに、今日は『絶対咲く』になった」
「そうだね」
「整理って、そういうことなのかな、って思って」
アルスが手を止めた。
「澱みが取れると、人が前を向けるようになる。花が咲くって信じられるようになる。アルスくんがやってることって、本とか術式だけじゃなくて、そういうことも一緒にやってるんじゃないかな、って」
フィナが言い終えて、少し照れくさそうに「違った?」と聞いた。
「違わないよ。一番本質に近いと思う」
「えへへ、なんか照れるな」
フィナが俯いた。
部屋の隅で、エレナが魔導具の記録をまとめていた。その手が止まっていた。
「……フィナちゃんって、なんで整理しようとしていないのに、一番本質に近いのかしら」
エレナが静かに呟いた。
「……そういう人が、いるんですね」
リディアが答えた。
「……ずるいわ」
エレナが、定番の言葉を静かに言った。フィナが「え、何が?」と聞いたが、エレナは「なんでもないわ」と答えた。
◇
夜、ミアがフィナを訪ねてきた。
アルスは別の部屋で記録の整理をしていたが、廊下を通りかかった時に、二人の声が聞こえてきた。
「今日、子供たちがとても楽しそうで……フィナさんのおかげで」
「私も楽しかった! また明日も行っていい?」
「もちろんです」
しばらく歩いたところで、ミアの声が続いた。
「フィナさんは……アルス様のことが好きなんですか?」
「うん!」
フィナの答えが、あっさりと返ってきた。廊下の手前で足が止まった。
「……素直ですね」
「だって本当のことだもん。でも、アルスくんはなかなか気づかないんだよね。いつも整理のことを考えてるから」
フィナが笑いながら言った。その笑い方が、悲しそうでも困ったようでもなく、ただそういうものだ、と知っている人の笑い方だった。
「……整理しなくていいことは、整理しないんでしょう」
ミアが静かに言った。
「そうかな?」
「アルス様がそうおっしゃっていました。整理しなくていいものは整理しないって」
フィナがしばらく黙った。
「……そうだね。私のことを整理しようとしないから、気づかないのかも。整理しなくていいから、そのままにしてるのかも」
その声が、さっきより少し静かだった。
「……でも、それでいいかな」
自分に言い聞かせるような、でも問いかけるような、どちらとも取れる声だった。
廊下の手前で、アルスはそのまま立っていた。
耳が熱くなっていた。どう動けばいいかわからなくて、そのまま静かに引き返した。
◇
自室に戻って、フィナの押し花を取り出した。
旅立ちの日に村でもらった、白い花だ。ランプの光に透かすと、薄く光を通している。いつも見ているのに、今日は少し違って見えた。
「整理しなくていいから、そのままにしてるのかも」
フィナの言葉が、脳内で繰り返された。
整理しなくていいものだと思っていた。だから、そのままにしていた。でもそれは、気づいていないのとは違う。フィナはそう言っていた。
(……答えは出ないな)
脳内で少し考えて、静かにそう思った。どんな複雑な術式も、著者の思考の軌跡も、脳内で辿ることができた。でも今日フィナが言ったことだけは、一本道が見えてこなかった。
でも、耳がまだ少し熱かった。
ランプの光が、白い押し花を柔らかく照らしていた。




