第42話:ただいまの声と、変わらない場所
王都を出た馬車が、緑の野道を進んでいた。
石畳の音が消え、柔らかい土道を転がる音に変わった瞬間、何かがスッと凪いでいくのを感じた。窓の外に広がる景色が、王都の建物と看板の密度から、緑と空の広がりに変わっていく。情報のノイズが、少しずつ薄れていく。
向かいの席で、エレナが珍しくおとなしかった。
膝の上に手を重ね、窓の外を見ている。いつもなら王都を出た瞬間から「アルスくん、旅の準備は……」と話し始めるのに、今日は静かだ。
「エレナさん、静かだね」
「……村にご挨拶に伺うのは初めてだから、少し緊張しているの」
「緊張するの?」
「当然でしょう。あなたの故郷に伺うのよ。カイル様とリーサ様にもご挨拶しなければ……失礼があってはいけないし、でも馴れ馴れしくするのも違うし……」
エレナが真剣な顔で呟いていた。熟練魔法使いとして大陸に名を轟かせた人間が、農村の家族への挨拶を心配している。その組み合わせが少し可笑しかったが、同時に、そういう一面があるとは思っていなかったので、少し驚いた。
「カイルとリーサは、そんなに気にしないと思うよ」
「あなたはそう言うけれど、私はあなたの親御様に初めてお会いするのよ。ちゃんとしたいの」
エレナがそれだけ言って、また窓の外を見た。その横顔が、いつもより少し子供っぽかった。
馬車はさらに進み、緑が濃くなっていった。
◇
見慣れた木の門が見えた瞬間、馬車の速度が落ちた。
同じ場所に咲いている花、変わらない石塀、子供の頃から知っているあの家の屋根。全部が前のままだった。でも、それを見ている自分が少し違う気がした。同じ景色が、前とは少し違う角度から見えている。
馬車が止まる前に、走ってくる姿が見えた。
「アルスくん! おかえり!!」
弾けるような声が、野道に響いた。
フィナだった。三つ編みを揺らしながら、全力で走ってくる。頬が赤くて、息が切れていて、それでも顔中で笑っている。あの笑顔は、王都で会った時と全く同じだった。一点の濁りもない、変わらない笑顔だった。
「ただいま、フィナ」
その言葉が口から出た瞬間、王都の自室で言う「ただいま」とは少し違う温かさがあった。上手く説明できないけれど、この場所で言う「ただいま」が、一番しっくりくる気がした。
フィナが馬車の後ろから降りてくるエレナに気づいた。
「エレナさん! 来てくれたんですね!」
「ええ、フィナちゃん。あなたのことは……アルスくんから色々伺っていたわ」
エレナが、普段より丁寧な言い方で答えた。
「えっ、どんなこと!?」
「押し花が上手になったこと、旅に来ると約束したこと……それから、アルスくんの隣にいる時の彼が一番穏やかだということ」
フィナが「えへへ」と俯いた。僕の耳が熱くなった。エレナが「あら、どうかしたの、アルスくん」と聞いてきたが、「なんでもないよ」と答えた。
その時、家の扉が開いた。
カイルとリーサが出てきた。カイルはいつもの大きな体で、少し目を細めながらこちらを見ている。リーサは穏やかな笑顔のまま、静かに歩いてくる。
「……大きくなったか?」
カイルが、アルスを頭のてっぺんから足先まで確かめるように見て言った。
「そんなに変わってないよ」
「変わってるよ。目が、な」
カイルがぶっきらぼうにそう言って、それ以上は何も言わなかった。でも、その目が少し潤んでいるのを、僕はちゃんと見ていた。
「おかえり、アルス」
リーサが僕の頭を撫でた。その手が、変わらず温かかった。どこへ行っても、何をしてきても、この手の温かさだけは変わらない気がした。
エレナがカイルとリーサの前に進み出た。背筋を真っ直ぐに伸ばし、普段の凛とした佇まいを保ちながら、少し緊張した顔で頭を下げた。
「カイル様、リーサ様。アルスくんがお世話に……いえ、私がアルスくんに大変お世話になっております。エレナと申します。図書館の整理を通じて、お力添えをさせていただいておりました」
「ああ、エレナか。話は聞いてるぞ。うちの息子に色々やられてるんだって?」
カイルが豪快に笑った。エレナが「……っ! やられているとは少し違いますが……はい、大変お世話に……いえ、私が……」と混乱し始めた。
「エレナさん、うちに来てくださってありがとうございます。アルスのことを守ってくれていたんでしょう?」
リーサが穏やかに声をかけた。エレナが「……はい、守るというか……守られていたというか……」と、珍しく言葉に詰まっていた。
カイルがその様子を見て「まあ、立ち話もなんだ。入れ」と言った。
◇
カイルの家の食卓に、久しぶりに座った。
リーサが用意してくれた夕食が、テーブルに並んでいる。王都のどんな料理とも違う、この家の味だった。シンプルで、必要なものだけがそこにある。
「おいしい……!」
エレナが目を見開いた。食べた瞬間の、作ったような感動ではない、本当に驚いた顔をしている。
「リーサ様、これは何で味をつけているんですか。魔法的な何かが……」
「ただの野菜と塩ですよ。アルスが好きだから、昔からこの作り方で」
エレナが「……シンプルなものが、一番本質に近いのね」と静かに言った。カイルが「大げさだな」と笑った。フィナが「私もこのお料理大好きです」と言いながら食べていた。
賑やかで、温かい時間が流れていた。
王都の図書館での日々も、ヴァルナへ向かう緊張も、この食卓の前では少し遠くなった。
◇
食後、フィナとアルスで庭を歩いた。
村の夜は静かだった。虫の音だけが聞こえて、星が王都では見えないほどの数で出ていた。情報のノイズが、ここにはない。脳内の機能的な整理棚が、自然に静まっていく感じがした。
「変わった? アルスくん」
フィナが歩きながら聞いた。
「どう思う?」
「うーん……」
フィナが少し考えた。足元の草を踏みながら、空を見上げながら、真剣に考えている。
「なんか、前より少し遠くを見てる感じがする。でも、隣にいる感じは変わらないよ」
「そうかな」
「うん。ずっと変わらないよ、私には」
フィナがそれだけ言って、笑った。説明も補足も何もない、ただそれだけの言葉だった。でも、その言葉が一番、正しい気がした。
少し歩いてから、フィナが「ヴァルナって遠いの?」と聞いた。
「馬車で数日くらい」
「一緒に行くの、ずっと楽しみにしてたんだ」
「本当に来てくれるの?」
確かめるように聞くと、フィナが「当然じゃん。約束したもん」と言いながら小指を差し出した。
僕はその小指に、自分の小指を絡めた。
あたたかい。王都の広場で絡めた時も、村の庭で絡めた時も、いつも同じ温かさがある。この感覚だけは、整理しようとしなかった。整理しなくていいものだから。
◇
夜、自室の窓から星空を見た。
王都では見えなかった星の数が、ここでは当然のように広がっている。澄んでいて、静かで、どこまでも続いている。
村を出て、王都で整理を続けて、セリスに図書館を渡して、これからヴァルナへ向かう。その先にも、整理を待っているものがある。でも、帰ってくる場所がある。カイルとリーサがいて、フィナがいて、変わらない木の門があって。
旅立って、また帰ってくる。それが自分の一本道になったと、今日初めてはっきりとわかった。
枕元にセリスの本を置いた。旅の記録、著者が何かを見つけることを楽しんでいる本。
「著者みたいに、旅先でも何かを見つけよう」
声に出すと、その言葉は静かな夜に溶けていった。
窓の外で、星が変わらずに輝いていた。




