残された男
俺はこの人がことあるごとに呟く「私は強いから大丈夫」という言葉が嫌でたまらなかった。
無理な残業を続けている時。明らかに厄介な案件を押し付けられている時。毎月、少なくない額を家族に援助していることを知られた時。……それでいて何があっても俺を頼らない時。
ーーへいきへいき。私結構強いんだよ。心配しなくて大丈夫だよ。
そう言って、慣れているというように、身に降りかかる厄介な出来事にひとりで向き合おうとする。見て見ぬ振りも他人に押し付けることも、誰かを頼ることもせずに。
だからほとんど意趣返しのようなものだったのかも知れない。
「茜はさ、強いじゃん? だから、俺がいなくても大丈夫だと思うんだよね」
口から発せられた言葉はそのまま俺に向かう刃になる。
この人は、大丈夫なふりをするんだろう。
それがわかっていて俺は茜を傷つけるためだけに思ってもいない言葉をつらつらと吐いていた。
生まれた時からなるべく一族以外の人間に興味を持たないようにと育てられてきたはずなのに、気がついたら職場の女と付き合っていた。
何度か気のせいだと思おうとして、気持ちを認めたあとも何とかやり過ごそうとして、どうしても諦められないなら仕方がないと覚悟を決めたのが一年半前。
絶対後悔するんだろうなと思っていたのに、存外に満たされていた一年を超えて、もしかしたらこのままの状態が続くんじゃないかなどという夢想を始めた頃、彼女が襲われた。
連絡をもらって駆けつけた茜の部屋で、包帯を巻いている姿を見て血の気が引いたのを覚えている。
本人は単なる酔っ払いに絡まれただけだと思っているようだったが、俺には嫌と言うほど心当たりがあった。親族に交際相手の存在を仄めかした矢先の出来事だったからだ。
増えてきた縁談への牽制のつもりが、完全に裏目に出た。脅しのつもりなのだろう。幼い頃に何度か狼へと変異したことのある自分に何故か執着している叔父の顔が浮かんだ。言い知れない嫌悪感が募っていく。この血筋への。
こうなることも予想できずに、のうのうとぬるま湯のような心地良さに浸っていたせいで、一番傷つけてはいけない人に怪我を負わせた自分にもひどく腹が立った。
その後のことはあまり覚えていない。目が眩むような怒りと共に、幼い頃の記憶にある感覚が自分を包んだことは知っている。目を覚ました時に覚えていたのは、赤く大きな月だ。
家族の話を断片的に聞いたところによると、叔父一家が大型犬のようなものに襲われて怪我をしたらしいということだった。「こわいわねえ」とわざとらしく母と妹が話している。親族は皆何があったのか大体のところは察しているのだろう。その上で無かったことにするつもりらしかった。
それでも、自分は人を傷つけたことを知っていた。それも、理性を飛ばした状態でだ。
こんな危険な獣を茜のそばに野放しにしておくわけにはいかないだろう。そう考えてからこの日まで半年近くもかかったのは、完全に未練からだった。
「そんなわけで、別れてくれないかな?」
せいぜい憎らしい表情を作って言ったつもりだ。
殴れ、と思う。
これだけ酷いことを言われているんだから、そこの鞄で殴ったっていい。できれば付いている金具が俺の頬に直撃でもすれば良い。
どうか俺に、消えない傷を付けてくれ。
無理なら、そこのコーヒーを頭からかけても良い、もっと火傷しそうなほど熱ければ良かったのにな。
口をつけられずにテーブルの上にあるコーヒーは、残念ながら大分冷めていた。それでも、俺のシャツに染みを残すぐらいはできるだろう。今日は白いシャツだ。
それも無理なら水でも良い。少しでも受け取ったダメージを、反撃という形でやり返してくれ。
俺の願いとは裏腹に、茜は諦めたような笑いをひとつこぼした。
世界中の人間は根本的に善人だと信じている。馬鹿みたいなお人よし。
誰かこいつに教えてやってくれ。自分を良いように利用して侮辱した相手に一片の哀れみも優しさもかける必要は無いんだと。
咄嗟にコーヒー代を断ってしまったのは、もうこれ以上この人から何ひとつ取り上げたくなかったからだ。今まで、何も、奢ることもせず、対価のないプレゼントひとつあげたことのない男の、唯一あげたものが飲まれもしないコーヒー一杯なんて、笑ってしまうな。
店のドアは自動ドアで、もしあれが自動ではなく手をかけてノブを回さないと出られないものだったら、ノブに手をかけた瞬間に茜の手をつかんで引き戻していたかも知れない。
絶対に許されることのないように決定的な事を言ったはずなのに、それでも脳の片隅で必死で引き止めることばかり考えている自分を別の片隅で嘲笑している自分がいた。
本当に、俺が、俺の手で、幸せにしてやりたかったんだ。
幸せにするどころか厄介ごとしか呼び込まない俺にできることは、せいぜい一片の情すら残さないよう祈りながら傷つけるだけ。
彼女役を頼んだ従姉妹の日奈子に思わず言い訳のような世迷いごとを漏らして散々呆れられた。分かりきった事ばかり言われても、何も言い返すことはできなかった。
肩をすくめてさっさと出て行く。ひとりにしてくれたのだろうか。正直助かったと思う。
そっと、口をつけられることのなかったコーヒーカップを引き寄せた。少し無骨なカップは茜のお気に入りだった。
そっと手を添えてみる。まだほんの少しだけ温かい。コーヒーが完全に冷めてその温もりが消えるまで、いつまでもそうしていた。
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