6
明くんのお葬式のことはよく覚えている。
参列者のほとんどいない、寂しいお葬式だった。
4年にも渡って引きこもりをやっていた明くんには友人と呼べる人がいなくなってた。
それは例えば、転校していった友人とは疎遠になるのと同じ感覚かもしれない。
ずっと連絡を取り合っているならまだしも、疎遠になった友人をいきなり訪ねるなんてことはないだろう。
思い出すことすらないかもしれない。時々、ふっと頭を掠める程度だ。
ああ、あんな奴も居たよね。と。
明くんは携帯もスマホも持っていなかったと記憶している。
外界と決別することでしか自分を守れなかった彼が、進んで、外界との窓口になるようなものを持つとは思えなかったけれど。
本当なら彼は、私や章吾と同様に、スマホ世代と呼ばれる人間であったことを思い出す。
つまり明くんは、同世代の少年少女が当たり前に享受してきた、ありとあらゆるものを受けとることができなかったのだ。
そんなものは大したことじゃないと、大人たちは言うだろう。
だけど、自分のスマホ眺めながら思うのだ。
あの、広いとは言えない室内で、彼は何を見つめて生きていたのだろうかと。
「母さんも父さんも、部屋から出てこない明のことを諦めてたはずだって言ったけど」
「うん」
「諦めることができたのはきっと、明が生きてたからだ。あの部屋の中で、生きて、呼吸して、何かを考えているなら、その内出てくるかもしれないと思ったんだろう。生きてるなら、それでいいと思ったのかもしれない」
「……」
「明が死ぬってわかってたら、絶対に、何が何でも諦めなかったと思うよ」
それこそ必死になって部屋から出して、明を死なせないように努めたはずだと、章吾は言う。
「親の気持ちが分かるなんて言わないよ。だって俺は、親じゃない。弟だ」
転落して亡くなったという割りには、その相貌には傷一つなかった。
死に化粧で上手く隠しているのかもしれないと思ったが、『打ち所が悪かったって……』という誰かの言葉で、望みもしないのに事情を知らされる。
それはつまり、何かが少しでも違っていれば助かっていたかもしれない可能性を示すものだった。
『……明、明、』
お棺のふたを閉める前、『これが最期のお別れです』と係りの人に誘導されて、明くんを参列者で囲んだ。渡された花を持って、それぞれお棺の中に納めていく。そうしながら、そっとお別れを告げた。
おばさんの明くんを呼ぶ声が、時々、耳の奥に甦る。
赤く腫れた眦が涙で滲み、何度ハンカチで押さえても、それでは足りないみたいだった。
明くんの額や頬に手の平を当てて、閉ざされた瞼を親指で擦り、伸びた前髪を払ってあげるその仕草が、ひどく優しかった。慈しむようなその動きが、母親特有のものだと知っている。
私の母も、私が幼い頃によくそうしていたから。
おばさんは、その指に、明くんの感触を刻み付けるみたいだった。何度も同じ仕草を繰り返していて。
係りの人が『そろそろお時間です』というのに、どうしても離れられないようだった。
おじさんが、おばさんの体を支えてお棺から引き剥がしたのを覚えている。
離れる瞬間も、お棺の縁を指で掴もうとしていた。まるで、縋りつくみたいに。
『明、明、待って、』
飲み込むことのできなかった悲鳴が、斎場に響き渡って。
それを合図に、係りの人がふたを閉めた。淡々とした作業だと思ったのに、ふたを閉める男性が必死に涙を堪えているから。それが一層、参列者の涙を誘う。
こんなに悲しい光景が、この世界にあるなんて。
家族だというのに、まるで、両親に近づいてはいけないと戒めているみたいな明が私の隣にやってきた。
そして、そっと手を握ってくる。
その指先は小さく震えていて、上手く私の指を取ることができない。全身で、もがいているみたいだった。
『明、死んじゃったんだ……』
死んじゃったんだね、と私に確認するように問うた幼馴染は、泣くこともできずにいた。
そして、悲しみに沈む両親をひたすらに見つめていたのだ。
「―――――あの日、木島は葬式に来て、泣いてた」
章吾はゆっくりとそう言った。その事実を、自分自身に確認しているかのようだ。
私は、覚えていない。
木島光一郎が来ていたことさえ知らなかった。
参列者は少なかったけれど、誰が来ていたかなんてあまり記憶にない。
私は、自分の隣に居た章吾のことしか気にしていなかったのだ。
おじさんとおばさんが、明くんしか見ていなかったから。
私だけは、章吾を見ておかないといけないような気がした。
「木島光一郎は何食わぬ顔をして……。いや、違う。さも、いい人のような顔をしてやってきた。そんな木島に、俺は感謝すらした。何年も前に何度か面倒を見ただけの人間にわざわざ別れを言いに来るなんて、優しい人だって、感動すらしたかもしれない」
俺はあのとき、木島が明に何をしたのか知らなかったから。と、章吾はぼんやりと宙を仰ぐ。
当時のことを思い出しているのだろう。
「両親だってそうだよ。優しくしてくれてありがとうって頭を下げてた」
初めて、明を木島光一郎に託したときのように。
「……そんなの、覚えてない」
「うん。そうだろうと思うよ。結衣にとっての木島光一郎なんてその程度の人間なんだ。道端ですれ違う程度の間柄なんだろ。ただの、通りすがりの人間だよ。いちいち顔なんて覚えていない。当然だよ」
幼馴染が、憎んでも憎んでも憎み足りないほどの人間を、通りすがりの人間程度にしか認識していなかった。そのことに、怒りさえ覚える。
「……章ちゃん」
何を言えばいいのか分からなかった。
章吾は私を責めているわけではないだろう。だけど、「ごめんね」と謝ることしかできない。
掠れた声が、空気中で頼りなく震える。
静かに微笑んだ章吾は、私の謝罪を受け取ることも拒絶することもしなかった。
「母さんが俺に髪を切れって言うのは、」
指先で自分の前髪を掴んで、ふっと息を吐く。
重苦しい空気を払拭しようとしているのか、それとも息抜きのつもりなのか、唐突に話題を変えた。
「中途半端に伸びた髪が明に似てるからなんだよ。
明はさ、自分で、カッターか何かで切ってたみたいで。引きこもりにしてはこざっぱりしてた。だけど、前髪は目にかかるくらいの長さだったから」
お葬式のとき、明くんの顔を撫でていたおばさんは、指で何度も彼の前髪を払っていた。
もう目を開くこともないというのに、「前髪が邪魔でしょう?」とでも言わんばかりの仕草だった。
彼女の息子はまだ、あの時点で、死んではいなかったのだろう。
「明のこと、忘れたいのか、忘れたくないのか、よく分からない」
自分に言っているのか、おばさんのことを指しているのか判断できない。
章吾はただ、自分の前髪を弄びながら自嘲するように笑う。
「―――――憎しみはもっと、激しい感情だと思ってた。だけど、違った。違ったよ」
ぽつりと落ちた言葉に顔を上げる。
「昔、学校帰りに、木島と手を繋いで歩く明の後姿を見た。俺は呑気にも、明は光さんのところに遊びに行くんだ、いいなぁって思った。いいなぁって」
当時抱いた感情をそのまま再現するかのように、感嘆さえこもる声で「いいなぁ」という言葉を繰り返す。
木島は、ご近所でも有名なお金持ちだ。屋敷を囲む、背伸びをするだけでは到底、覗き見ることはできない漆喰の壁。その向こう側に何があるのか気になって仕方なかった。
「家に帰ると、母さんに聞かれた。『明、知らない?って』」
ふっと息を吐いて、
「俺が『光さんと一緒だったよ』って答えると、じゃぁ安心ねって言ってた」
章吾はまた遠い目をする。
「案の定、一時間もしないうちに木島から連絡が入って、明くんをお預かりしてますからって」
今、思えば。本当に、木島と明くんが手を繋いでいたのか分からないという。
「手を、引っ張られてたかもしれない」
テーブルの上で組んだ自分の手を握りしめている。章吾は明らかに震えていた。
「明が死んで、俺がアイツに襲われて、そしたら急に色々思い出した。ばらばらだったパズルが完成していくみたいに。色んなことが繋がった」
完成したパズルは、全然美しくなかったけど。と、強く両目を閉じる。見たくないものが、今ここにあるかのように。
「昔さ、木島に誘われて公園に行ったことがある。もちろん、明も一緒だった。そしたら、近所のおばさんがたまたま通りかかって『光一郎お兄ちゃんに遊んでもらっていいわね』って言ったんだ」
うん!と答えた自分の声を覚えていると言う。
「明が返事をしたかどうか覚えてない。だけど、木島が何て言ったかは覚えてる。『僕が遊んでもらってるんですよ』って」
―――――ボクガ、アソンデモラッテルンデスヨ
「おぞましい」
すっと音をたてるように開かれた瞼の奥。現れた瞳に、どこまでも沈み込んでいくような憎しみが宿っている。
「ああいう人間を、何で、見逃してきたのかな」
「……」
その言葉は多分、自分自身に言っているわけではない。
「章ちゃん、」
「うん」
「怒ってるんだね」
「うん」
「……木島光一郎に対して怒りを抱えてるのは分かるよ。だけど、それだけじゃないよね?」
「……」
お前には、かなわないな。と、苦笑して。
瞳に浮かんでいた憎悪を閉じ込める。
この5年間、ずっとこんな風に本音を隠して生きてきたのだろうか。他の誰にも知られないように、何もかもを心の奥底に封じて。
それはどれほど、息苦しかっただろう。
「明は、木島の家に行きたくないって言ったんだ。だけど親は『どうして?』って聞いたんだ。明は何も答えなかった。いや、答えられなかったんだ」
そして、明くんの言葉はなかったことにされたのだろう。
「明が反抗したのは、それだけだ。ただの一度きり」
『行きたくない』と、それだけを口にするのに、どれほどの勇気がいったのだろうか。
だけど、受け入れられることはなかった。そのことに、明くんは打ちのめされたのだ。
「おじさんと、おばさんに、怒ってるの?」
問えば、章吾は「そうだな」と言う。だけど、それが答えではない気がした。
「変態っつーのは、どこまでいっても変態なんだ」
吐き捨てるように言った章吾が突然席を立って、私の横に座る。
通路側を塞がれて、逃げ場がなくなった。
章吾がそれを意図していたかどうかは分からないけれど。
「この間、木島が小学生くらいの男の子をじっと眺めてるのを見たんだ。公園の入り口に佇んで。その横を通りすぎる人は何人もいたけど、ただ挨拶を交わしていくだけだった」
全くの赤の他人が木島光一郎の姿を見たなら、警戒心を抱いたかもしれない。だけど、この小さな街では、大抵の人間が顔見知りだ。そこに、根拠のない信頼が生まれる。
昔から知っているというだけで、何となく信用できる気がする。そういうものなのだ。
子供の巻き込まれる事件が増えて、顔見知りだからこそ注意しようという注意喚起をされていても、見抜けないことのほうが多い。
「……章ちゃん、章ちゃんは、何をしたの?」
今日、何度目かになる同じ問いを繰り返す。
「子供は大人に守られるものだと思わない?」
「……う、ん」
「少なくとも俺はそう思ってた。子供は守られて当然なんだって」
「うん、」
「じゃあさ、守られなかったら?守られなかった子供はどうなる?」
明みたいに、と呟いた言葉が、胸に刺さる。
隣で視線を落としている章吾が、どこかへ置き去りにされた幼い子みたいに見えて。そのひどく頼りない横顔があまりに哀れで。
明くんが亡くなって、自分達のことで精一杯だったおじさんとおばさん。
木島に襲われた章吾の異変に気づきもしなかった。
そう、明くんのときと同じように。
「ああ、そうなんだ。そうなんだね、分かったよ、章ちゃん……」
章吾は首を傾いで私の声を聞いている。歌でも聴いているかのような仕草だ。
「章ちゃんは復讐したんだね」
「うん」
「―――――守ってくれなかった大人たち、全員に」
何の音もしなかった。まるで世界中から音が消えてしまったかのように。自分の心臓の音さえ、聞こえなかった。
だけど、そんな無音の世界から、章吾はきちんと私の声を聞き取る。
「うん、そうだよ」
じっと私の顔を見つめて、はっきりと頷く。
そして、自分の手元に視線を落とした。
その視線を追いながら、彼の手を掴んだ。弱々しく握り返されるその手は、幼い頃のものとは違う。節くれだった、男性のものだ。
「何でお前には分かっちゃうんだろうな」
「……分かるに決まってる。だって私たち幼馴染じゃん」
そう言えば、章吾はどこかほっとしたように笑みを浮かべた。
そして、1つだけ深呼吸して、そっと顔を上げる。
「結衣」
「ん?」
「アイツは救いようのない奴だよ」
「うん、」
「被害者は、明だけじゃない」
明だけじゃないんだ、と繰り返す言葉が両手の中に落ちてくる気がした。重く、冷たい、鉛のような言葉。
受け取ってしまったところで、どこにも置き場などないのだ。
*
*
木島光一郎のお葬式には、たくさんの人が集まっていた。
弔問客一人一人に頭を下げる木島のご両親を眺めながら、ふと気付く。
―――――しっぽのついている大人が多い。
しっぽの生えた大人だけを集めたみたいに。
つい最近までしっぽのなかった人にも、ゆらやらと揺らめくソレがある。
怖いというよりも、不思議な光景に思えた。
まるで、異世界に迷いこんだような、そんな気分だ。
この小さな街で、何かが起こっている。
そして、幼馴染もそれに巻き込まれている。……そう考えた。
「章ちゃんのお父さんとお母さんには、生えてなかった」
つい最近までそうだったのだ。
それなのに、いつの間にか、―――――生えている。
「どうして?」
すがるように手を伸ばしたのは、私か、章吾か。
お互いの手をとって見つめ合う。恋人同士の距離感ではあるけれど、私たちの間に色気はない。
「……ほのめかすだけで良かったんだ。それだけで皆、ちゃんと気づいたよ」
道端でご近所の人とすれ違うとき、挨拶を交わすついでにちょっとした無駄話をする。そういうのは珍しくない。
『章吾くんもすっかり大きくなっちゃって』という決まり文句から始まる会話だ。
いつもなら適当に聞き流して終わる。
だけど、最近はそうしなかった。
『光一郎さんって本当に、子供が好きですよね。でも、男の子だけなのは何でかな』
『小さい子を相手に我慢強いですよね。俺の兄も本当にお世話になって。でも兄は何だか……怖がってたみたいだけど』
『いや、でも子供にとっては成人男性なんてそんなものですよね』
不安げに声を落として、独り言みたいに呟く。
そのときは、相手もさして気に留めたりはしない。だけど、何となく耳に残る言葉だったのだろう。
疑念が、だんだん「疑惑」に形を変える。
「……本当は多分、誰もが薄々気づいてたんじゃないかな」
だけど、そんなはずはない。と、そう思い込もうとしていたに違いない。古い土地だからこそ根強く残る「性善説」が、本心を見抜こうとする目を曇らせていく。
「まだ、子供である俺が言うから……何かおかしいと思い始めたんだろ」
子供だからこそ信用できない。だけど、子供だからこそ、信用できる。二つの感情の間でせめぎあったはずだ。
そして、誰か一人くらいは真実にたどり着いたのかもしれない。
「木島光一郎は、歩道橋の階段から転落して死んだ」
複数の目撃者の証言により、事故だと断定されている。
その事実を思いだし、冷たい手にさっと皮膚を撫でられたような感覚に寒気が走った。
「複数の、目撃者」
章吾はただ小さく微笑んだ。それが、私の考えを肯定するものだと分かる。
「白石さんの奥さんが、証言したって聞いた」
階段で足を滑らせた木島光一郎を見ていた。一人で転落したのだと。そして、それをたまたま目撃していた人間は他にもいた。
歩道橋を渡っている最中だった中年男性、歩道橋を渡ろうと階段に足をかけていた若い女性。歩道橋の下を通っていた散歩中のご老人。
その時、車は1台も通らなかったようだ。
目撃者はいずれも、ご近所の方々だったから、自然と誰がどこに居たのかを知ることとなった。
それが真実かどうかは分からない。
私の耳にはいるまでに事実が湾曲して伝えられた可能性もある。
だけど、概ね間違いはないだろう。
「白石さんとこの息子さん、知ってる?」
「……顔くらいは見たことあるかも。だけど、よく分からない」
「だろうな。明のちょうど1つ下だよ」
「そう、なんだ?」
「うん」
彼は中学校に入学した辺りから、突然荒れ始めたのだという。
中学2年になる頃には、素行の悪い友人たちとバイクを乗り回すようになっていた。
3年生になる頃には、家に帰らないことも増えていって。
そして、高校に入学したその年に、バイクの事故で亡くなった。
「……木島のところに、勉強を教えてもらいに行ってたって」
小学校の高学年頃の話だという。
「白石さん、ずっと考えてたと思うよ」
―――――なぜ、息子は死んだのか。
「俺が、あの人たちに罪を犯すように言ったわけじゃない。自分達で真実を見つけたんだ。そして、決着をつけた」
ただそれだけのことだよ、と言うように首を傾ぐ幼馴染の手は、ずっと震えたままだ。
木島に何かされただろう子供たちが全員、命を落としたわけではない。当然、そうだ。
だけど、悪質な手口で、心を潰されて、傷一つ負わなかったとは言えない。
己を喪失するほどの、悲しみと苦しみに苛まれただろうと思う。
そして、そんな子供たちを見ていた周囲の大人は、ただ案じることしかできなかったのだ。
理由が分からないから、対処できない。
だからこそ、死ぬほどの想いで、祈り続けたのだろう。
「何か」に傷ついて身動きできなくなった子供が、一刻も早く自分を取り戻してくれるようにと。
閉ざされた扉の前で、祈るように泣いていたおばさんのように。
時が経てば、いつかは乗り越えていけるはずのことだったかもしれない。
子供を失った親たちでさえ、時間をかければ、いつかは立ち直っただろう。
立ち直ることができなかったとしても、それでも、正しく生きようとしたはずだ。
少なくとも己が罪に手を汚すことはなかったと言える。
けれど、章吾は、それを赦さなかったのだ。
何も知らずに、木島の背中を押してしまった大人たちに制裁を与えた。
……真実を、知らせることで。
「それで、結衣は」
「ん?」
「結衣は、どうする?」
ふと降りた沈黙に、息がつまる。
「……何で、章ちゃん、何も言ってくれなかったの?」
詰るような言い方になってしまい、語尾も掠れた。
そんなつもりはなかったと思うのに、もう遅い。
「言ってたら、どうした?俺のこと、止めた?」
だけど、章吾は気にした様子もなく静かに問う。
息がかかるほどの距離だから声を張り上げる必要もなく、それどころか囁くような声音になった。
「止めなかったよ。それに、……一人で背負わせたりしなかった」
そう言えば、章吾は泣きそうな顔をして。だけど、涙を溢すことはなく、私の肩にそっと額を重ねた。
「お前は絶対、そう言うと思った」
「だから、他の誰に知られても、結衣にだけは絶対に知られたくないって思ってた。警察に知られたって、親に知られたってどうでも良かったけど」
お前にだけは、知られたくなかったんだ。と、耳元で囁く。
「だけど、今、俺はほっとしてる」
一番、知られたくなかったはずなのに。
一番、知っていてほしかった。
「章ちゃん、」
「ごめんな、結衣。こんなもの背負わせちゃって」
震える肩を、ただ抱き締めることしかできない。
いつだって私たちは、傍にいて。この手を繋いでいたのだ。
今更、どうやって離せばいいと言うのだろう。
「証拠なんて何もない。木島が何をしたのか証明することさえできないんだから」
全て、なかったことになるのだろう。
章吾の背中で揺れるその「腕」は、まだ章吾の背中を掴んでいるわけではなかった。
掴もうとしては離れて、離れては掴もうとして。
その動きが、手招きに似ている。
章吾をどこかへ、連れ去ろうとしているのだ。
「章ちゃん、ダメだよ」
「うん」
「そっちに行っちゃ、ダメだよ」
「……うん、」
じゃあ、どこへ行けばいい?とは聞かなかった。
行き先などどこにもないとお互いに、よく、知っている。
だけど、行ってはならない場所がある。
「ずっと、見張っていてくれないか」
願いにも似た声に頷く。
それでも、私たちは生きていくしかないのだから。
*
*
「……DVD?」
「そう、DVD」
「が、どうしたって?」
「部屋からごっそり盗まれてたって」
「あー、その話、私も聞いたわ。木島さんが、光一郎くんの部屋に強盗が入ったみたいだって言ってたから」
「だけど、他に盗まれたものないんでしょ?」
「そうそう、あ、あと……アルバム?がなくなってたとか」
「それはまた変なもの盗んだわねぇ」
「だから、警察では強盗じゃなくって本人がどこかへ持ち出したんじゃないかって」
「へー」
「部屋にも荒らされた形跡なかったらしいし」
「そうなの……まぁ時期が時期だしねぇ。光一郎くんが亡くなる前?後だった?まぁとにかく、木島さんご夫妻が疑心暗鬼になるのもわかるけど」
「実際、強盗が入ってたとしても、光一郎くんが事故にあったのとは別件でしょうにね」
「そうねぇ、あれだけ目撃者がいたんじゃねぇ……実は殺人だったなんてこともないでしょうし」
「ご両親にはお気の毒なことだったけど……」
「そうねぇ……」
「それにしても、そのDVDとか、アルバムとか?……一体何が映ってたのかしら」
「さぁねぇ」
「何か、秘密の臭いがしない?」
「えー、何言ってるの!しないしない!サスペンスか何かの見すぎなんじゃない」
「うふふふ、まぁ、そうよねぇ」
「そうそう」
「そうよねぇ、うふふ」
「うふふふ……」
バス停で章吾を待っていると、隣に並んでいた女性二人の話が耳に飛び込んでくる。
聞かないように意識していたというのに、結局、最後まで聞いてしまった。
「……結衣!」
未だに続いているさざめくような笑い声の向こう側に、章吾の姿が見える。
「―――――章ちゃん!おはよう!」
手を上げる彼の背後に、しっぽが揺れていた。