約束と、八秒
翌朝、目が覚めると、いつもより部屋が静かだった。
当たり前だ。
セラがいないのだから。
「……おはよう」
誰もいない部屋に向かって、そう呟いた。
返事はない。
いつもなら、僕が起きるより先に朝食を作っている妹が、今日はどこにもいない。
寝坊した僕を叩き起こす声も、魔法の練習をしている僕をからかう声も聞こえない。
それなのに、机の上には二人分の食器が並んでいた。
昨日の夜、無意識に用意してしまったらしい。
「……何やってんだ、僕」
食器を一つ、棚に戻した。
それだけのことなのに、胸の奥がひどく痛んだ。
*
軍人が帰ったあと、僕はほとんど眠れなかった。
何度も、セラの言葉を思い出した。
――絶対、帰ってくるから。
あいつは嘘をついたことがないわけじゃない。
僕の失敗を笑うときなんか、しょっちゅう嘘をつく。
でも、あのときの言葉だけは違った。
怖いと、言っていた。
それでも帰ってくると、約束した。
「……なんでだよ」
声が漏れた。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
セラにか。
軍にか。
それとも、何もできなかった自分にか。
答えは出なかった。
僕は机に向かい、いつも使っている魔法の練習ノートを開いた。
そこには、炎を維持できた時間が記録されている。
三秒。四秒。六秒。
そして、最後に書かれた数字は――九秒。
「……あと一秒だったんだけどな」
もちろん、九秒まで燃やせたのは、ずいぶん前のことだ。
最近は六秒前後で消えてしまう。
調子が悪ければ、火花だけで終わることだってある。
それでも、セラが帰ってくるまでに十秒を超える。
それが僕たちの約束だった。
僕はノートの端に、小さく書き込んだ。
『十秒』
しばらく、その文字を眺めた。
セラはもう帰ってこない。
十秒を超えたって、あいつが笑ってくれることはない。
わかっている。
そんなことは、わかっているんだ。
「……それでも」
ノートを閉じかけて、やめた。
「それでも、やるよ」
約束したから。
それだけじゃない。
何もできなかったまま終わるのは、嫌だった。
*
僕は庭に出て、いつもの練習場所に立った。
指先を前に向ける。
魔力を流し、炎を思い描く。
昨日までと同じ手順。
何度も繰り返してきた動作。
「……燃えろ」
小さな炎が灯った。
一秒。
二秒。
三秒。
四秒。
五秒。
六秒。
そして、消えた。
「……やっぱりか」
思わず舌打ちした。
昨日までなら、ここでセラに何か言われていたはずだ。
『また六秒? お兄ちゃん、成長止まった?』
そんな声が聞こえた気がして、振り返りそうになった。
もちろん、誰もいない。
「……集中しろ」
僕は自分の頬を軽く叩いた。
悲しんでいたって、炎は長くならない。
泣いたところで、魔力量が増えるわけでもない。
だったら、考えろ。
僕にできることは、それくらいしかない。
もう一度、指先に魔力を集めた。
今度は、炎そのものじゃなく、炎を生み出している魔力の流れに意識を向ける。
魔法を使うとき、僕にはその構造が見える。
魔力がどこから流れ、どんな形を作り、どこで消費されているのか。
普段は、ただ漠然と眺めているだけだった。
でも、もし。
「……無駄があるとしたら?」
魔力が少ないなら、少ないなりの使い方があるはずだ。
大きな炎を作る必要はない。
セラみたいに、派手な魔法を使う必要もない。
必要なのは、十秒間、炎を消さずに維持すること。
僕は炎を作る構造を頭の中で組み直した。
余分な魔力の流れを抑え、炎の形を維持する部分に意識を集中する。
簡単じゃない。
少しでも想像が乱れれば、魔法は崩れる。
それでも、やってみる価値はあった。
「……燃えろ」
指先に、炎が灯った。
一秒。
二秒。
三秒。
炎の揺らぎを見つめながら、僕は魔力の流れを調整する。
四秒。
五秒。
六秒。
炎が小さくなった。
「まだだ……!」
七秒。
八秒。
そして――
ふっ、と消えた。
「……八秒」
思わず、指先を見つめた。
たった二秒。
それだけしか伸びていない。
でも、確かに伸びた。
偶然かもしれない。
次にやったら、また六秒に戻るかもしれない。
それでも、僕はノートを開き、今の魔力の流れと、意識したことを書き留めた。
魔力量そのものは変わらない。
それでも、使い方なら変えられるかもしれない。
僕には、まだ試していないことが山ほどある。
「……見てろよ、セラ」
口にしてから、苦笑した。
見ているわけがない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「いつか絶対、十秒を超えてやるからな」
返事はなかった。
風が吹き、庭の草が揺れた。
僕はノートを閉じなかった。
次に試すことを、もう考え始めていた。
*
夕方、僕は街へ出た。
食料を買わなければならなかったし、家に閉じこもっていても何も変わらない。
通りを歩いていると、顔見知りの店主が僕に気づいた。
「ノア君……」
その表情を見ただけで、何を言われるのかわかった。
「……聞いたよ。妹さんのこと」
「……はい」
「つらいだろうね。まだ若いのに……」
店主は言葉を探すように、何度も口を開きかけた。
僕は、うまく笑えなかった。
「……ありがとうございます」
それだけ答えて、店を離れた。
誰も悪くない。
みんな、僕を心配してくれている。
それはわかっていた。
でも、今は何を言われても、セラが帰ってこないという事実が変わらない。
家に帰る途中、広場の前を通りかかった。
少し前まで、セラと一緒に魔法披露を見ていた場所だ。
あの日、僕は魔法の鳥に潜む歪みを見つけた。
魔法の構造なら見抜ける。
そう思っていた。
なのに、僕はセラの抱えていたものを何一つ見抜けなかった。
あいつが何を恐れていたのか。
どうして、あんな顔で笑っていたのか。
どうして、僕に生きていてほしいと言ったのか。
僕は何も知らなかった。
「……ほんと、馬鹿だな」
自分に向けて吐き捨てた。
魔法の仕組みが見えたって、何でもわかるわけじゃない。
そんな当たり前のことを、僕は今さら思い知らされていた。
それでも。
知らないままでいいとは、思えなかった。
セラが何を考え、何を守ろうとしていたのか。
いつか、ちゃんと知りたい。
そのためにも、今の僕にできることを増やさなければならない。
僕は家へ向かって歩き出した。
明日も、魔法の練習をしよう。
十秒を超えるまで。
そして、その先へ進むために。




