再び迫る影
調和の地から戻ってきた蓮たちは、森の広場でセリオンたちと合流した。
その手には、金色に輝く「調和の紋章」が浮かんでいる。
「……これが、最後の鍵か」
セリオンは深く頷き、長老としての威厳ある声で告げる。
「これで封印の儀式が可能となる。しかし同時に……ザイヴァルドもまた、最後の動きを始めるだろう」
その言葉に、場の空気が一気に緊張した。
「奴は反調和の化身。お前が調和に至った今、その存在は逆に彼を刺激する。奴は、今まさに封印の外側からこちらへ侵入を試みているはずだ」
「……もう、時間がないってことだね」
蓮は覚悟を滲ませた声で答える。
「封印の中心、始原の環での儀式を急がねばなりません」
エルセリアが静かに言う。
「調和の紋章を持つ者、精霊と契約した者……その両方を兼ね備えたあなたにしか、封印は完成できない」
「……でも、俺ひとりじゃ無理だろ?」
「もちろんです。私はあなたの支えであると、すでに決めています」
彼女のまっすぐな眼差しに、蓮は照れたように目を逸らした。
「……うん。頼りにしてるよ、エル」
『なんだ、なんだ、ラブラブだな』
フィノがにやにやと尻尾を振る。
『だがその前に――やつの前哨が来るぞ』
「えっ……?」
その瞬間、森の奥から、冷たい風が吹き抜けた。
空気が震え、木々がざわつく。
「この気配……間違いない、魔族だ!」
叫ぶと同時に、エルフの斥候たちが飛び出してくる。
「敵、接近中! 数は……二十体以上!」
「拠点を狙ってる!? まさか、儀式の前に奇襲を仕掛けてくるなんて……!」
セリオンがすぐに判断を下す。
「蓮とエルセリアはこの場を離れよ。封印の儀式はお前たちに託す。我らは森を守る」
「でも、それじゃあ皆が――!」
「……心配は無用だ、少年。お前たちは希望なのだ。希望は、前へ進まねばならん」
言葉の裏に、長き時を生きた者の覚悟が込められていた。
「エル……俺たちは、どうすればいい?」
「始原の環は、銀の森の最深部――かつて精霊たちが降臨した地。そこへ向かえば、封印の完成に必要な力が揃うはずよ」
『オレが案内する。急げ、蓮。奴らは、お前を止めに来ている』
フィノの声に促され、蓮は頷いた。
「……わかった。行こう、エル」
「はい」
二人と一匹は、再び森の奥へと駆け出した。
背後では、森の守護者たちが武器を構え、魔族の影を迎え撃つ。
吹き荒れる魔力。きしむ大地。地響きのような咆哮。
それでも、蓮は振り返らない。
その背中を守ってくれる人たちがいる限り、彼は前に進むしかなかった。
エルセリアが静かに口を開いた。
「蓮……あなたは、強くなったわ。最初の頃は、心細そうだったのに」
「……うん。でも、そうなれたのは……君がいたからだ」
照れくさそうに言いながらも、蓮の声はしっかりと前を見据えていた。
――たどり着かなくてはならない場所がある。
――果たさねばならない役目がある。
その先に、きっと未来がある。
誰もが笑って生きられる、そんな明日が。
そして、その隣に――エルセリアがいてくれることを、蓮はもう疑わなかった。
森の奥深くへと進むたび、空気は静けさを増していった。
銀葉が揺れる音さえ、どこか遠く感じる。蓮とエルセリア、そしてフィノは、ひとすじの光を頼りに最奥を目指していた。
「始原の環って、どんな場所なんだ?」
蓮の問いに、エルセリアは足を止めて空を見上げた。
そこには、光を透かすような樹の天蓋が広がり、星々が微かにまたたいている。
「はるか昔、精霊が地上に降りた場所……世界の最初の交わりが起きたと言われているわ。調和と反調和、全ての力が交差した環の地。きっと、最後の儀式にふさわしい場所よ」
『オレも昔、一度だけ見たことがある。光が輪のように広がって、まるで星の中を歩いてるみたいだった』
フィノの言葉に、蓮は少しだけ緊張をほぐした。
「星の中か……ロマンチックだな」
ちらりとエルセリアの横顔を見る。だが彼女は無言のまま、まっすぐ前を見ていた。
(あれ……?)
いつもより表情が硬い気がする。
さっきまでの笑顔が、少しだけ陰って見えた。
そのときだった。
空気がピリリと震え、視界の端に闇がにじんだ。
「っ……来る!」
咄嗟に飛び退く。
同時に、黒い稲妻のような刃が、蓮のいた場所を引き裂いた。
姿を現したのは、黒い装束に身を包んだ魔族――その中でも、一際異質な気配を放つ存在。
「やっと見つけたぞ、人間の鍵……」
声は粘り気を帯び、耳を刺すような音を含んでいた。
「刻の魔族……!」
エルセリアが警戒の声を上げる。
「こいつは、ザイヴァルドの側近のひとり。時の流れを操る異能を持っているわ!」
『やっかいだぞ、蓮! 普通の攻撃は通じない!』
魔族の手がわずかに動いた瞬間、空間が歪む。
蓮が踏み出した足が、突如として遅くなった。
目の前に剣を構えるよりも先に、魔族の一撃が迫る。
「くっ……!」
ぎりぎりで避け、転がる。体が重い。時間の流れがずれている。
自分だけが、異なる世界を歩かされているかのようだった。
「蓮! 下がって!」
エルセリアが、詠唱もなく矢を放った。
空気すら断つような鋭い光の矢が、魔族をかすめる。
しかし、魔族は笑った。
「無駄だ。時すら我が手にある。お前たちの希望など、踏みにじってやろう」
空間そのものが、破壊されていく。
だが――
「そうかもしれない。でも……俺たちは諦めない!」
蓮が叫ぶ。その声に呼応するように、胸の調和の紋章が輝いた。
瞬間、蓮の身体を包むように、淡い光が広がる。
「これは……?」
『調和の力だ! 時の歪みに正しさを与える! 蓮、そのまま突っ込め!』
「任せろ!」
蓮が駆ける。今度は遅くならない。魔族の空間干渉が打ち消されている。
一瞬、魔族が目を見開いた。
「貴様、なぜ……!?」
「想いは歪ませられない!」
その拳が、真正面から魔族を撃ち抜いた。
黒い影が大きくたわみ、叫び声を上げる。
「ぐ……うぅぅ……ザイヴァルド様……!」
光に焼かれたように、魔族は空間の裂け目に吸い込まれるように消えた。
静寂が戻る。
息を切らしながら、蓮は膝をついた。
「はぁ……はぁ……やっと……倒せた……」
すぐにエルセリアが膝をつき、蓮の手を取った。
「無事でよかった……!」
「君こそ……でも、ありがとう。エルの援護がなかったら……」
蓮は笑いかけるが――エルセリアの表情は、やはり沈んでいた。
「……エル?」
しばらく沈黙の後、彼女は小さくつぶやいた。
「蓮……もし、最後の儀式で、あなたの命を代償にすることになったら……」
「……え?」
「その時、私は……」
言葉が続かない。だが、蓮には十分だった。
彼女が何を恐れているのか、何を守りたいのか――すべてが、手を通して伝わってくる。
蓮は、静かに手を握り返した。
「大丈夫。死なないよ。そんな未来には、しないって決めたから」
「……でも、封印は……命を……」
「違うやり方が、きっとある。……信じよう? 俺たちの想いを」
エルセリアは、瞳を伏せ、わずかに笑った。
「……ええ。信じるわ。あなたとなら」
星の光が、二人を照らしていた。
その先に待つのは、最後の地、始原の環。
すべてが決まる、運命の瞬間が近づいていた。