プロローグ
天が光った。その閃光は、革命の戦士も支配者も平等に照らした。埃と血の匂いのする岩場の戦場。狭い空は真っ白に光り、影が濃く伸びる。誰かが目を細め手を伸ばし呟いた。
「待ちわびたぞ、聖女」
例えば、大学の講堂で夕飯は牛丼でいいかと思いを巡らす様な、1度隣合ってなんとなく連絡先を交換した相手に課題を聞かれる様な、そういうどこにでもいる女子大生、それが工藤千歳だった。だった、というのは既に過去形だからである。特別に美しくもなく、特別に賢くもなく、かと言って孤独と言い切れるほどでもない。千歳は正しく自分を「平凡」だと評価していた。家族仲は良好、進学とともに上京し、将来の奨学金の返済に怯えながら、昔買った漫画を読み返すばかり。アルバイトはチェーンのカフェ、多少の仕送りとバイト代で何とかやりくりする日々。そういえば、今季のアニメは全然チェックしてないなぁと、オタクとして育った自分のアイデンティティの曖昧さを感じながらスマホでSNSばかり見て過ごしていた。一通り流行りの少年漫画を読み、二次創作に狂い、いくつかの乙女ゲームをプレイしていたのは受験前までだ。無理して入った大学ではないが、初めての一人暮らしというのは想定外の連続であり、夏の訪れを感じる頃になっても1日を楽しく忙しく過ごすので手一杯だった。
そう、そんな何気ない日だった。千歳はアルバイトから徐々に慣れてきた我が家へと帰宅していた。合格祝いで父に貰った自転車を漕ぐ。蒸し暑いというほどでは無い気温の中で頬を撫でる風は心地よく、髪を靡かせながらペダルを踏む。都会は道も狭く交通量も多い。その中を縫うように走る自転車は怖さもあったが、それにも徐々に慣れてきたななんて油断していた。
それは角を曲がった途端に、千歳を照らした。まさしく閃光のようなトラックのライト、劈くクラクション。突如訪れる衝撃は、どこか他人事のようだった。遠くの悲鳴も、ぼやけた頭では理解できない。一瞬の衝撃の直後、まるで溶ける様に千歳は意識を失った。
工藤千歳、享年19歳であった。
「いや、呆気なさすぎる、もっと色々あっただろ。」
千歳は呟いた。呟いたのだ。声になった。起き上がろうとしても体は動かない、というより感覚がない。ただ、たしかに思った言葉が音になった。千歳は視界を意識する。先程のトラックとは違う、閃光を見る。いや、見たのではない、閃光の中に、私は居る。ハッと息を飲む。体が、再生していっているのだ。先程までなかった感覚が徐々に、伸びていく。光の粒が広げていくその光景は、幼い頃に見た魔法少女アニメの変身のようだった。やがて全身が光の粒によって形を取り戻した。いや、取り戻していない、正しくは全く新しい肉体に変わった。視界の端で靡く髪の色が違う、脚の長さや手首の細さが違う。
「変身した...?」
困惑する千歳を無視するように光は大きく強くなって行き、弾けた。花火の中心にいるような感覚。そこで千歳は、どこにも重心をおかずに浮いていることに気づく。キョロキョロと周囲を見渡すと、自分がかなり高いところで浮かんでいるのがわかる。千歳は一旦考えるのをやめた。何も分からないからだ。暗い空の中で光の中心に浮く自分。思考を手放すと同時に、体の高度が少しづつ下がって行くのを感じた。足元には赤色の崖の間、川の日上がった渓谷のような谷間がある。そこから、血と泥にまみれた人々が、眩しそうに千歳を見上げていた。
「聖女を捉えろーッ!!!」
突如、怒号が響く。それは拮抗した、或いは千歳の出現によって膠着していた戦いをもう一度動かす怒号だった。遠く小高い位置に座る長髪の男は真っ直ぐに千歳を見上げていた。
「エ、私!?」
間抜けであるが、今まさに意味不明な現象の只中にいる千歳はジタバタと体を動かしてみる。しかし、細く長くなった手足は空を切るだけだ。っていうか聖女ってなんだ?
「ウオォォォオオ!!」
声が、胃が震える様に響く。あの長髪の男の部下であろう近くにいた男たちが3、4人、瞳孔の開いた目でこちらに迫ってきていた。千歳の体は徐々に下がっており、あと4メートル程で地に足が着くだろう。そして、足元では血走った目の男たちが、千歳に向かって跳ねていた。なんだか分からないが、あまりに異様な光景に千歳は悲鳴をあげさらにジタバタと空を泳ぐが、容赦なく男達との距離は縮んでいく。千歳は涙が滲んでいた。死んだと思ったら生きていて、なんでか光の中にいて、今度は男たちに襲われそうになっている。完全にキャパオーバーを起こしていた。男たちの手まで、あと1メートル、あと60センチ、あと30センチ......。
「させるかッ!!!」
刹那、足元でぴょんぴょん跳ねていた男たちが轟音と共に薙ぎ払われた。千歳も、物凄い風圧に額が露になる。そして土埃の中に、背の高い艶やかな黒い髪の男が剣を携え立っていた。どうやらこの黒髪の男が、足元で跳ねていた男達を一掃したらしい。視線をやると、先程の男たちは1メートルほど離れた地面に転がっていた。千歳はこんなに血を見るのは生まれて初めてだったので、もう一度悲鳴をあげ目を逸らした。
「大丈夫か。」
低くハスキーで落ち着いた声が鼓膜を揺らす。黒い髪の男は千歳に手を伸ばし、抱き抱えた。千歳は逃げようと思った、どこにかは分からないけれど、こんな血みどろなところから逃げたいと思ったし、誰かも知らない異性に抱き抱えられているのが怖かった。思い切り身を捩り男の胸をグイグイ押して離れようとするが、ビクともしない。それどころか、どこか悲痛な声で男は叫んだ。
「頼む、落ち着いてくれ!俺たちは君を害さない!!話を聞きたいんだ!!教えてくれ!君は、『聖女』なのかッ!?」
「...は?」
千歳の口から息が漏れる。初めてちゃんと黒髪の男の顔を見た。至近距離で、艶やかなまつ毛と冷たげな双眸、泥にまみれてはいるが薄い肌と氷のように尖った鼻筋を見た。
「......ジールさん?」
「え?...俺を知っているのか?」
ほとんど無意識のうちに、千歳は名前を呼んでいた。そう、まだ受験を見て見ぬふりをしていた高校生の頃、熱中していた乙女ゲーム「助けてッ!聖女サマ」の攻略対象の名前を。




