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潮待ちのレール ― 霧のホーム ―  作者: たむ


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7/12

第七章 発車後のホーム

 雨は夜のあいだにやみ、翌朝の春口には、洗い立てのような光があった。


 霧はない。

 海も島影もはっきり見える。

 レールは遠くまでまっすぐ伸び、港の屋根も、その向こうの船も、今日は何一つ曖昧ではない。

 こういう朝に立つ春口駅は、かえって少し残酷だと湊は思う。

 見えないから迷うのではない。

 全部見えていても、人は決めきれない。

 霧のホームが人の揺らぎを象徴するのだとしたら、晴れたホームは、その揺らぎに言い訳がないことを示してしまうのだ。


 朝食のあと、湊は駅へ向かった。

 今日は汐里も途中まで一緒だった。

 宿のほうは昼前まで客の出入りがないらしい。

 坂道を上がりながら、港を振り返ると、昨夜の雨で空気が澄み、光が島影の輪郭を一つずつ浮かび上がらせている。

 春口は、霧の日だけが途中の町なのではない。

 晴れた日にもまた、人の中の接続だけが取り残されることがある。

 ここ数日で、二人ともそのことをますます強く感じるようになっていた。


「今日は見えすぎますね」

 汐里が言う。

「ええ」

 湊が答える。

「霧がないぶん、逃げ場がない感じがします」

「ホームって、そういうところがありますね」

「どうしてですか」

「来る列車も、行き先も、時刻も、全部はっきりしているから」

「……」

「その中で迷っている人は、自分だけが遅れているみたいに見える」

「本当にそうですね」


 駅へ着くと、ホームには朝の光がまっすぐ差していた。

 待合室の木の長椅子も、白線も、濡れた昨日より鋭く輪郭を持っている。

 湊はベンチに腰を下ろし、前日の駅員の言葉を思い出していた。

 人が決めきれないのは、時刻表じゃどうにもならない。

 まったくその通りだ。

 春口の鉄道はきちんと運行される。

 だが、その規則正しさが、かえって不規則な人の心を浮かび上がらせる。


 列車が一本、上りで入ってきた。

 通学の高校生、通院らしい老夫婦、買い物に出る婦人。

 誰も迷わない。

 来た列車に乗る人は乗り、見送る人は下がる。

 白線の意味が明確な朝だった。

 それなのに、湊はむしろその明確さの中に、かつての父の半歩の遅れを強く感じてしまった。

 こういう晴れた日でさえ、白線の内側に立ち尽くしたのなら、それは視界の問題ではなく、その人の中の接続がすでに切れかけていたということなのだろう。


「相沢さん」

 汐里が低く言った。

「はい」

「三輪さんの話、気になってるんです」

「下りに乗ったことですか」

「それもあります。でも」

「でも?」

「その前に、列車が出たあともしばらく動かなかった、というところ」

「……」

「見送りでも、乗り遅れでもなく、“発車後に取り残された”時間があったってことですよね」

「そうですね」

「それ、すごく春口らしい気がします」


 その指摘に、湊ははっとした。

 これまで第五作では、待合室、白線、発車前ばかりを見てきた。

 だが重要なのは発車後なのかもしれない。

 列車が去ったあと。

 もう今さら乗れない。

 見送りも終わっている。

 そのあとにホームへ残される数分。

 決断が済んだのに、心だけがまだその前にいる時間。

 春口では、きっとその時間が人を長く縛るのだろう。


「発車後のホーム」

 湊が呟く。

「ええ」

 汐里が頷く。

「母の宿で言えば、夜が明けたあとの朝に近いのかもしれません」

「すでに便は動いている」

「でも、人の中だけがまだ前夜にいる」

「……」

「その感じを、父も持っていたのかもしれない」


 その言葉で、第一作の最後に近い父のノートの余白が頭をよぎった。

 あの人は、何度も春口へ戻った。

 それはおそらく、発車前の迷いのためだけではない。

 発車後のホームに残された自分の時間が、そこで止まり続けていたからなのだろう。

 乗れなかった。

 見送りきれなかった。

 列車は出た。

 けれど、そのあとしばらく動けないままだった。

 その感覚こそが、何十年も父を春口へ引き戻したのかもしれなかった。


 昼前、篠原が再び駅へ来た。

 今日は新しい資料はなく、代わりに「少し歩きましょう」と言った。

 三人でホームの端から、昔の貨物扱い跡のほうへ回る。

 いまは使われていない脇線が少し残り、その先に雑草の伸びた空き地がある。

 駅員以外はあまり意識しない場所だが、篠原はそこへ立って言った。


「発車後に残る人は」

「ええ」

「たいてい、まっすぐ改札へ戻りません」

「どうするんですか」

 湊が訊く。

「ホームの端まで歩くか、こういう脇へ寄る」

「なぜ」

「自分が“乗らなかった”ことを、まだ体の中で処理しきれていないからです」


 その説明に、汐里が静かに息をついた。

 春口の駅には、列車に乗るための場所だけでなく、乗らなかったあとに人が少し外れるための縁がある。

 なるほどと思った。

 港にも、待合にも、潮待ち浜にも、いつも“本筋ではないが、人の時間を引き取る場所”があった。

 駅だけが例外のはずがない。


「日誌に残らないけど」

 篠原が続ける。

「駅員はそういう動きも見ていたはずです」

「父も」

 湊が低く言う。

「発車後、ホームの端へ寄ったかもしれない」

「ええ」

「そして、そこでやっと下りへ乗る決断をした」

「その可能性は高いでしょう」


 篠原は少し草を避け、足元の古い敷石を見せた。

 ホーム端へ続く幅の狭い通路跡のようなものだ。


「昔はここから」

「はい」

「下り側の先を見やすかったんです」

「つまり」

「上りを見送り損ねたあとでも、下りの接続をまだ考えられる位置ですね」

「……」


 湊はその場所に立った。

 たしかに、ホームの中央より少しだけ海側が見えやすい。

 港そのものは見えないが、線路の向こうの明るさから、そちらへ続く気配は感じられる。

 発車後のホームの端。

 ここで父は、列車が去ったあともまだ間に合う接続を頭の中で追っていたのだろうか。

 千紘はもう行った。

 けれど下りに乗れば、その先で追いつけるかもしれない。

 そういう遅い計算を、この場所でしていたのだとしたら、その背中は第一作のとき自分が想像していたより、ずっと必死だったことになる。


「相沢さん」

 汐里が隣へ来て言った。

「はい」

「お父さんのこと、前より少し許せそうですか」

 湊はすぐには答えなかった。

 許す、という言葉は大きすぎる気がした。

 だが、変わってきているのは確かだった。


「許すというより」

 ゆっくり言う。

「“遅れた人”として見られるようになってきた気がします」

「遅れた人」

「ええ。悪意で置いた人ではなく、半歩ずつ遅れて、最後に必死で追った人」

「……」

「それでも間に合わなかった。そのことの重さは変わらないですけど」

「そうですね」

「でも、背中の見え方は変わります」


 汐里はしばらく何も言わず、やがて小さく頷いた。

 それで十分だった。

 春口で死者や不在者を知り直すとは、無罪にすることではない。

 その人がどう遅れ、どう迷い、それでもどこで動こうとしたかを、少しずつ具体的に受け止めることなのだろう。


 その日の夕方、湊は一人で待合室に戻った。

 朝より客は少ない。

 白い光も傾き、ホームの端には長い影ができている。

 列車が一本発車したあと、あえてすぐには動かず、長椅子に座ったまま外を見た。

 発車後のホーム。

 もう何も起きないように見える。

 だが本当は、その直後こそ人の中ではもっともいろいろなことが動いているのかもしれない。

 乗らなかった。

 見送りきれなかった。

 次はどうする。

 港へ向かうか。

 下りを待つか。

 もうやめるか。

 そうした選択が、発車後に一気に押し寄せる。

 春口の鉄道が人を深く傷つけるとしたら、それは発車前よりむしろ発車後なのだろう。


 宿へ戻るころには、空に少しだけ夕焼けが混じっていた。

 汐里は帳場で宿帳を閉じ、今日の予約を確認している。

 湊が「発車後のホームのことを考えていました」と言うと、彼女は少しだけ考えてからこう返した。


「宿は、発車後に戻ってきた人のための場所でもあるんでしょうね」

「……」

「乗れなかった人、見送りきれなかった人、そのあと決めるのが遅れた人」

「ええ」

「母が宿を守っていたのは、たぶんそういう人が春口には多いと知っていたから」

「そう思います」

「駅でこぼれる時間を、宿が拾っていた」

「そうですね」


 その整理の仕方に、第四作と第五作がまた一つつながった。

 待合室は数分しか預かれない。

 ホームは発車の一瞬しか預かれない。

 だが宿は、そのあと戻ってきた人を一夜預かることができる。

 春口という町は、そうした複数の器で“間に合わなかった人”を支えていたのだろう。


 夜、湊はノートにこう書いた。


 ――発車前の迷いより、発車後の取り残され方のほうが長く人に残ることがある。

 ――列車が去ったあと、心だけがまだ白線の手前にいる。

 ――父は、その場所から下りへ向かったのかもしれない。

 ――春口の駅は、出発の場所である以上に、出発に遅れた人が次の接続を探す場所でもあった。


 書き終えると、遠くで短い汽笛が鳴った。

 海側の音だった。

 それを聞きながら、湊は、第五作の終わりが少しずつ見え始めていることを感じていた。

 霧のホーム。

 白線の内側。

 半歩の遅れ。

 そして発車後のホーム。

 父の背中は、ようやくその全体像を少しずつ取り戻しつつあるのかもしれなかった。

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