5-5
葉月の元を離れ、保健室に急いで向かう。葉月のスマホに送られてきた画像は、到底口には出せない悍ましいものだった。
『今度見かけたら盗撮しといてくれる?』
『何故盗撮を?』
『弱みを握って、こき使うために決まってんじゃん』
楓太があの男の餌食になるなど、到底許せることではない。家族に迷惑をかけることを嫌う楓太のことだ。今までのように何事もなかったかのように振る舞おうとするだろう。
そうなってしまえば今度こそ、俺は楓太を助けてやれないかもしれない。
『あいつ、いつもヘラヘラしてるよね。傷ついてませんけど? って顔。なんかムカつく』
俺の前では、悲しい笑顔を浮かべないでほしい。無理して明るく振る舞わず、ありのままの楓太でいてほしい。
本来のあいつの笑顔は、あんなもんじゃない。見ているこちらの心まで明るく照らしてくれるような、包み込むような優しい笑顔なのだ。
保健室には内側から鍵がかけられていた。職員室に戻り鍵を借り、急いでドアを開け放つ。
部屋を見回した。先程まで人がいた形跡のある乱れたベッド。書類が置かれたままの机。耳を澄ませると、トイレの方から物音が聞こえてくる。
その光景を見た時、俺は呼吸をするのも忘れてしまっていた。
トイレに二人の男がしゃがみ込んでいる。一人の男はもう一人の男の頭を掴み、便座に顔を押し付けていた。
もう一人の男は、俺のよく知る愛おしい人だ。
「……何をしてるんだ」
かつてないくらい、低い声が俺の喉から絞り出された。楓太がゆっくりと振り返り、力の抜け切った笑みを浮かべる。ガラスの瞳から一筋の涙が溢れたのを見た瞬間、俺の視界が真っ赤に染まった。
男_____確か柏木だったか_____の胸ぐらを掴む。睨みつけても尚、柏木は軽薄な笑みを浮かべたままだった。
「あーらら、もう来ちゃったんだ。もう少しだったのに」
「……楓太に何をした」
「何をしたって、見りゃ分かるでしょ。病気で辛そうなお友達を介抱してあげてただけ。それ以外の何に見える?」
「俺にはお前が楓太を苦しめているようにしか見えない」
「……は、ははっ。苦しめてる、ねえ。お前がその台詞を吐くんだ。ほんとムカつくな、お前。自分は常に正しいみてえな顔しやがってよ」
柏木は唇の片方を吊り上げ、軽薄に笑う。
「つーか、ほんと、あいつ役に立たねえな。引き止めとけっつったのに。おかげで『優等生の爽やか美少年』で通ってきた俺のイメージが台無しだよ。……ちなみにココ、ツッコむところな?」
「……俺をここに呼び寄せたのはお前だろ」
「ん? どういう意味かな?」
「お前は葉月さんに楓太を虐めるように仕向けた。恐らくその時に、こうも指示していたはずだ。『陽影に自分の正体が分かるように誘導しろ』と。葉月さんは言われた通りに動いた。包帯の巻かれた腕に、俺達のクラスからなくなった画鋲のケース。まるで、いかにも葉月さんを疑えと言ってるみたいだった。わざとらしすぎたんだ。
実際お前は、葉月さんに全ての罪を擦りつけるつもりでもあったんだろう。だが、その一方で葉月さんに指示している『首謀者』がいることを仄めかす意図もあった」
そして、それは楓太ではなく、俺にだけ伝わる暗示だった。楓太は葉月さんがいつも腕に包帯を巻いていることも、俺のクラスから画鋲ケースがなくなったことも知らない。
「残念ながら、葉月さんを虐めてる人の正体までは分からなかった。だから、仕方なく葉月さんのスマホを覗かせてもらったが……あまり、思い出したくはない」
どうしてあんなに酷いことができるのか分からない。恐怖で人を操り支配するなんて。
「だが、もし葉月さんに呼び止められずにここに来てたら、俺はお前のことをただの『いい人』だと勘違いしていたかもしれない。柏木、お前は狡賢くて最低な奴だよ」
「お褒めに預かり光栄だね」
説明をしている間、柏木はずっと楽しそうだった。
「どうしてお前は俺に気づかせたかったんだ。俺を回りくどい方法で呼び寄せた目的は何だ?」
「簡単なことだよ。お前に忠告をしてやろうと思ったんだ」
「……忠告?」
「そう。お前がいかに自己中心的な奴かということを思い知らせてやろうかと思ってさ」
柏木は楓太を横目で見遣る。楓太はぐったりとした表情で俺達を見つめている。
すぐさま楓太に駆け寄りたかった。だが、柏木を放置すれば今度は葉月が危ない。
俺はこの男を止めなければならない。
「あいつ、今朝倒れたんだよ。ゲームのし過ぎで寝不足だとか何だとか言ってたけど、たぶんそれだけじゃねえな。俺があいつをここまで運んでやったんだけど、あいつ、譫言のようにずっとお前の名前を呼んでたよ。凜、ごめん、迷惑かけてごめん……ってな」
迷惑。その言葉を楓太はよく使う。
姉に迷惑はかけたくない。家族に迷惑はかけたくない。
俺に、迷惑をかけたくない。
そうやって、自分の気持ちを飲み込もうとする。我慢強いところは楓太の美点でもあり、短所でもある。
俺は迷惑だなんて思ってないのに。むしろ、出会いを思い返せば、俺の方が好き勝手に振る舞っていた。
俺の挙動に度々大袈裟なリアクションを取るところが、からかいがいのあるところが、すぐに顔を赤くさせるところが、俺は好きだった。
「でもさ、考えてみろよ。迷惑をかけてるのはどっちなんだよってな。晴中をやっかんでる奴は元々たくさんいる。だけど陽影、お前がそもそも晴中に近づきさえしなければ、あいつを見る目は数倍マシになってたはずだ。少なくとも1年前はそうだった」
「……」
「葉月は俺に逆らえないけど、お前を奪ったあいつに仕返しをしたいって気持ちもあったはずだ。最後らへんにはあいつ、楽しそうにしてたよ。本人は認めたくないだろうけどな。
俺は直接手を下しはしない。お前が晴中に関わりさえしなければ、俺もあいつをこんなふうに虐めるつもりはなかったよ」
まあ、晴中を孤立させる噂はちょっぴり流したけどな。
そう言って柏木はケタケタと笑う。
「俺もさ、ここまで近づくつもりはなかったんだ。可哀想なあいつを遠くから眺めて、それで十分なはずだった。だけど、お前が晴中を意識してるのに気づいたら、何だか我慢できなくなっちまってさ……つまりは、お前が全部悪いってこと。
全部、全部お前が悪いんだよ。お前さえいなければ、晴中はあんなふうにはならなかったんだ。
俺の言いたいこと、分かった? お前、邪魔なんだよ。もしこれ以上晴中に関わるつもりなら……俺が、この手で、こいつの人生めちゃくちゃにしてやるよ」
こいつの言っていることは無茶苦茶だ。百歩譲って、俺が楓太に近づいたせいであいつを取り巻く環境が変わったというのは否定しない。だが、それが楓太を傷つけていい理由にはならない。
俺も悪い。だが、こいつも悪い。それだけだ。
拳を強く握りしめる。爪の先が掌に食い込むほどに。柏木は片眉を吊り上げ、嘲りの表情を浮かべる。
「ん、もしかして怒ってんの? いいよ、別に俺のこと殴っても。気が済むならいくらでもどーぞ。でもできないよなあ? だってお前、モデル様だもんなあ? 人気モデルが暴力沙汰だなんて、ネットニュースが黙ってないよなあ?」
頬を差し出され、本当に殴ってやりたくなる。
だが、そんなことをしても根本的な解決にはならない。
暴力に暴力で対抗しても、負の連鎖が続くだけだ。誰も幸せにはならない。それに、もし殴ったりしたら、自分のせいで大変なことになったと、楓太は自分を責めるだろう。
こいつの煽りには乗らず、冷静でいなければならない。話し合いで穏便に解決するべきだ。
俺のためにも。楓太のためにも。
……なんてな。そんな綺麗事、誰が言うか。
俺は握りしめた拳を柏木の拳に叩きつけた。柏木の体は横に吹っ飛び、革張りの長椅子に叩きつけられる。
綺麗事で世界が平和になるなら、既にこの世に戦争はなくなっているだろう。
両親に連れられて長年海外で暮らしてきた俺の出した結論だ。
俺は、大切な人を守るためなら何をしたって構わない。
……日本なら、もっと平穏な生活を送れると思ってたんだけどな。
俺はため息を吐いて、蹲っている柏木に歩み寄った。柏木の胸ポケットからスマホを抜き取り、トイレに沈める。
水没してしまえばデータはなくなるから、葉月の写真にもしばらくはアクセスできなくなる。
だが、通話アプリのチャットルームに写真は残っているだろうから、それをどう扱うかは葉月の自由だ。
これは、葉月を助けることができなかった俺のせめてもの贖罪だ。
楓太の頬を軽く撫でると、気持ちよさそうに目を細めて触れ合った箇所を擦り付けてくる。肌は熱く、涙でしっとりと濡れていた。
「ごめん、楓太。もう少し待っててくれるか?」
すぐに片付けるから。そう言い残し、柏木の元に戻る。
「……お前、モデルだろ。芸能人様が一般人に暴力振るっていいと思ってんのかよ」
憎らしげに睨み上げてくる柏木の顔を覗き込むと、柏木がひっ、と喉を引き攣らせた。
「まだ自分の立場が分かっていないみたいだな、柏木」
「な、なんだよ……」
「今まで誰にも言ってこなかったけどな……俺の家は裏で政治家や警察とも繋がってるんだ。俺はお前の人生を握り潰すことくらい簡単なんだよ。お前だけじゃない、お前の家族も親戚も、全員消してやることだって容易い」
耳を引っ張り、狭い穴をこじ開け、言葉を捩じ込む。
「今ここで、それを証明してやってもいいよ」
顕になっている首に手をかける。少し指に力を込めただけで、柏木は面白いくらい顔を真っ青にさせた。
この手の輩は、人のことは嬉々として虐めるくせに、自分が傷つくことは酷く恐れる。
「安心してよ。俺、人の首絞めるのは上手いんだ。痛みも感じさせずに落とすことができる。あ、それとも柏木は痛くされる方が好きなのか? 自分がそういう扱いを受けたいから、周りにもそうしてるとか?」
きゅっと指で軽く首を包み込んだ。喉仏が上下する。眼球が、ガクガクと恐怖に震えている。
「う、嘘だろ?」
「どうだと思う?」
「そんなことできるはずがない」
「だから、身をもって証明してあげようとしてるんだよ、今」
唇を吊り上げて笑い、舌なめずりをする。柏木はハッと息を呑み頬を赤くさせ、しばらく呆然としていたが、やがて我に返って、顔を真っ白にさせた。
「分かった。分かったよ。悪かった。もうお前に逆らったりなんかしない。許してくれ」
「俺は怒ってなんかいない。俺より先に、謝るべき相手がいるんじゃないのか」
掌を首にあてがう。
「も、もう晴中を虐めたりなんかしない」
「……楓太だけか」
「葉月もだ。お前等には金輪際近づかない」
「……」
「誰にも暴力は振るわない! だから頼む。命だけは助けてくれ!」
柏木を解放してやる。力の抜けた体は、ヘナヘナと床にへたり込んだ。俺は柏木を見下ろす。
「二度とその面を見せるな」
「は、はい……」
「分かったらさっさと行け。約束を破ったら、ただじゃおかないからな」
柏木は足をもつれさせながら、慌ただしく保健室を出ていく。
俺は小さくため息を吐いた。
「……ははっ」
思わず笑みがこぼれてしまう。
我ながら馬鹿みたいな嘘をついた。
親が政治家や警察と繋がってるだなんて。それを素直に信じてしまう柏木も面白い。
モデルで培った表情筋と演技力は、案外馬鹿にならないのかもしれない。
柏木を殺してやりたいと思ったのは、半ば本気だったが。
乱れた書類を元の位置に戻し、楓太の元に戻る。
楓太は焦点の合わない瞳で俺を見つめた。
「……凜?」
「うん。俺だよ」
両手を広げると、素直に抱きついてくる。それに、俺の名前を呼んでくれる。
こんな俺を好きになってくれるなんて、お前は本当に可愛い奴だ。
楓太はにへらと笑う。
「おれさ、ずっと思ってたんだけど」
「ああ」
「凜ってさ、おれの王子さまなんだな」
脈絡のない話に首を傾げる。
「おれのこと助けてくれるし、優しくしてくれるし、ガラスじゃないけど、靴、ぴったりだったし」
「……何の話をしてるの?」
「おれ、この頃夢見るんだ。お前に嫌われる夢。日付けを超えたら魔法が解けて、あんなに優しかったお前がおれに見向きもしなくなんの。それが怖くておれ、うまくねれなくて……」
楓太は鼻を啜り出した。ぽろぽろと涙をこぼし、しゃくりあげる。
「ごめん、おれ、お前のことすきかも、しんない」
かもしれない、と。最後の最後まで断定しないところに楓太らしさを感じ、ぎゅっと胸を締め付けらるような愛おしさを感じる。
楓太を抱きしめる。フレグランスと、汗の香り。
「俺はお前の前からいなくなったりしないよ」
「ほんと? おれに失望しない? おれ、姉ちゃんみたいに可愛くもないし、頭もよくないし、かっこよくもないけど」
「そうやって、あまり自分を傷つけるようなことは言わないで。こっちまで悲しくなってくる」
「……おれ、凜を悲しませるのはやだなあ」
「うん。だったら」
もう、そういうことを言うのはだめだ。
次回の更新は4月9日 17時10分投稿予定です。




